もしもヒッポダメイアが優しかったら 異伝・もう一つの「もしも」
夫への愛と、妾と妾の子への憎悪に囚われ、果ては我が子をも巻き込んで破滅への道を進んでいったピサ王妃ヒッポダメイア。
これは、そんな悲劇から外れた「もしも」の世界。ヒッポダメイアが妾の子ことクリュシッポスに対して、子を持つ女性なればこその母性と慈愛を注いだ、優しい世界の物語。
そして今回は、その「もしも」から更に枝分かれした、優しくも少し緊迫を帯びた世界――テバイからの客人として招かれていたライオスがクリュシッポスを攫う事件が起きた世界の物語。
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この物語は、当方で展開する「もしも」のギリシャ神話における正史ことテバイ王家編(後日掲載予定)と、先だって完結したピサ王家編(https://ncode.syosetu.com/n3270mu/1/)のどちらからも独立した、「もう一つの『もしも』」として紡いだお話になります。
どこかで歯車が噛み合っていなかったら、「もしも」の世界においてもこんな展開が起こり得たのかもしれない。そんな思いを抱きつつ紐解いていただければ幸いです。
【生命繋ぎし、黄金の馬】
章題の『黄金の馬』とはクリュシッポスのことです(彼の名は古代ギリシャ語で「黄金の馬」の意味)。
*
とある午後。ピサの宮殿から少し離れた森の静謐を切り裂いて、切なる悲鳴が響き渡る。
「放してください! 私はペロプス王の子、ピサの王子クリュシッポスです! 城に帰してください、父上と母上のもとへ……っ!」
二頭の馬が繋がれた戦車に無理やり押しこまれ、叫び声を封じる轡を嵌められそうになっていたのは、少年から青年へと移ろいゆく歳の頃を迎えつつあるクリュシッポスだった。
彼のしなやかな腕を容赦なく鷲掴みにし、外套の頭巾を目深にかぶって素顔を隠した不埒者――その名はライオス。テバイの後継者候補から外され、ピサの宮殿に客人として招かれていた彼は、ペロプスが愛妾アクシオケの忘れ形見として慈愛を注ぎ、ヒッポダメイアがピサ王家の『母』として分け隔てなく庇護するこの王子の美しさに狂い、我欲を満たすためという見下げ果てた理由での誘拐に手を染めたのである。
「静かにしろ……! お前は今日から、私の国で私の所有物となるのだ。ペロプス王の戦車とて、私の操る駿馬たちには追いつけまい!」
邪悪な欲を剥き出しにしたライオスが、いよいよクリュシッポスの口に轡を当てがった――まさにその瞬間だった。
「――そこまでです、この不埒者っ!!」
豊かに茂る常緑の枝葉も、誘拐犯と被害者が織り成す不穏なざわめきも突き抜けて、凛と鋭い女性の声が響き渡る。
突然の闖入者に泡を喰ったライオスが振り返ると、そこには裾長の衣を砂埃や草の葉で汚しながらも、たいそう立派な体格の馬の手綱を見事に捌いて駆けつけた、ピサ王妃ヒッポダメイアの姿があった。
悪政はともかくも戦車を操る腕は確かだった父王オイノマオスの血か、はたまた『馬を飼い馴らす者』を意味するその名が馬に親しむ神の加護でも引き寄せたのか。ともかくも、馬上の人となっている彼女はまるで臆した気配もなく、毅然とした面持ちの中に燃えるような怒りを湛えてライオスを睨みつけている。
家族揃っての朝食の席で、クリュシッポスから「午後は森へ散策に出かけます」と聞いていたこの王妃は、ふいに胸をよぎった不吉な感覚に居ても立ってもいられなくなり、侍女が止めるのも聞かず兵士が追いつくのも待たず、厩舎から引き出してきた馬を駆ってこの森に足を踏み入れたのだった。
「母上! 母上、母上っ……!」
驚いた拍子に轡を取り落としたものの、クリュシッポスを拘束するライオスの手の力は緩むことがない。幼い頃のように涙を流しながら懸命に暴れる末息子の姿を認めた途端、ヒッポダメイアの双眸に宿る怒気がなおのこと鮮やかにひらめいた。
「わたくしは、ピサ王ペロプスの后・ヒッポダメイア!
夫とわたくしの……我が家の大切な息子から、今すぐその手を離しなさい!!」
王妃としての威厳と、母としての愛を以て、ヒッポダメイアが声高く叫んだその瞬間。
彼女たちの遥かな頭上――この世のすべての出来事を見通す神々の領域・オリュンポスでも動きがあった。
「わたくしの愛し子ヒッポダメイアと、あの子が慈しむクリュシッポスの美しい絆を、こんな形で引き裂かせてたまるものですか!!」
大喝一声。地上のヒッポダメイアとクリュシッポスの危機に激怒したヘラが、ゼウスの右手にした雷霆を止める間もなくもぎ取ると、目も眩むような天の高みから地上のライオスの眼前めがけて渾身の力で叩きつけたのである。
次の瞬間、視界を奪う閃光と耳を劈く轟音と共に大地が穿たれた。
ライオスの自慢の馬たちは仰天して暴れ出し、馬車は大きく跳ね上がったかと思えば地上の重力に負けて呆気なく横転する。ライオスは勢い良く地面へと放り出され、泥まみれになりながら無様にその場で這いつくばる。
「ひ……っ……か、神々の怒りか……?!」
すっかり腰を抜かしたライオスを、間もなく追いついてきたピサの兵士たちが即座に取り押さえるのを脇目に、ヒッポダメイアはさっと衣の裾を翻して馬から下りた。
そうして、ライオスが宙に投げ出された隙に手すりに捕まったことで、なんとか車体から落ちずに済んだクリュシッポスのもとに駆け寄ると、かたかたと震えるその身体をもう離さないとばかりに掻き抱く。
「クリュシッポス……!! 怪我はありませんか?! 何もおかしなことはされていませんか? ああ……さぞ怖い思いをしたでしょう、気づくのが遅れてしまって本当にごめんなさい……!」
「は、母上……母上……怖かったです……!」
クリュシッポスはヒッポダメイアの胸に顔を埋め、大声をあげて泣きじゃくった。
ヒッポダメイアは恐怖と驚愕のあまり乱れる鼓動を息子に悟られぬよう、ゆっくりと密やかに深い呼吸を繰り返しながら、抱きしめるその腕になおのこと強く、優しい力をこめる。
「大丈夫、もう大丈夫ですよ。わたくしの可愛い子……わたくしの愛しい子……あなたに危害が及ぶような真似など、この命に代えても二度と許しはしません」
ヒッポダメイアと兵士たちに遅れることしばし。執務を投げ出し、自慢の戦車を駆って急行したペロプスと、父の後を追って馬を走らせたアトレウスとテュエステスの目に映ったのは、天界の女王の寵児を守る意思によって一部が黒焦げになった大地と、ぽろぽろと涙を流す末息子を固く抱き止めた、世界で最も強く美しい『母』の姿だった。
アトレウスとテュエステスは、未だ母の腕の中で震えている末弟の手を握りしめ、ライオスに向かって「我が家を侮り、弟を傷つけようとした報いを受けてもらう」と、腰に佩いた剣を抜き放とうとする。
しかしヒッポダメイアは、クリュシッポスを抱きしめる腕を解かぬまま、二人の息子を静かに諭した。
「いけません、アトレウス、テュエステス。この者は追放し、二度と我が国に立ち入らせぬだけで充分です。
ゼウス様の定めた『客人保護の掟』……仮にも客人の身分であるライオスを、わたくしたちが害するようなことがあってはなりません。
ですがこの掟は、客人の方にも相応の敬意と礼節を求めるものでもあるのです。すなわち、もてなしてくれる家の家族や財産を傷つけることは罷りならないと。
クリュシッポスに害を為そうとしたことで、ライオスは掟を犯しました。罪人には必ず、神々が最も相応しい形で報いてくださるはずです。
それよりも、わたくしは……今はただ、この子を一刻も早く我が家へ連れて帰ってあげたいのです。そして、クリュシッポスを守ってくださった天の神々へも、厳粛な祭儀を以て感謝を捧げなければ」
ヒッポダメイアの言葉通り、ピサから追放され、這う這うの体でテバイへと逃げ帰ったライオスを待っていたのは、怒れる神々が罰として下した世にも恐ろしい『呪い』だった。
しかし、ピサの宮殿はその夜も変わらず、末息子への労わりに溢れた両親の眼差しと、末弟の無事を喜ぶ兄たちの安堵に満ちた笑い声に包まれている。
あと一歩遅ければ訪れていたであろう絶望。しかしそれは、ヒッポダメイアの母としての本能と、家庭の守護神たるヘラの加護によって完璧に遠ざけられたのであった。
*
【光は今日も家族の許に】
「こら、クリュシッポス! 今日はここまでと約束しただろう、その先に行ってはならない!」
ライオスによるクリュシッポスの誘拐未遂事件から数年。ピサの宮殿の郊外に位置する、この国の将兵が馬術や戦車操縦の鍛錬を行う広大な敷地に、アトレウスの大声が響き渡った。
数年の歳月を経て体躯は更に逞しくなり、武芸の腕においても、軍を率いる将としての知恵や風格においても文句のつけようがない成長を遂げた彼も、こと末弟の安全に関しては未だに過保護の域から抜け切れずにいる。
「アトレウス兄上、大丈夫ですよ! 今の私は、決して無力なままの子供ではありません。それは確かに、兄上や父上には及ばないかもしれませんが……戦車を駆る技も、剣を以て身を守る術も身につけました。自分の身は自分で守ることができます」
目映い光沢を放つ金髪を風に揺らしながら、クリュシッポスは戦車を牽く馬の手綱を左手一つで巧みに操り、右手で抜き放った剣を軽やかな手つきで振るってみせた。その面差しにも佇まいにも、かつて怯えていた頃の面影はなく、ピサの王族に連なる者に足る凛々しい気品が満ち溢れている。
「ふふっ、さすがに筋がいいね。……だけど、クリュシッポス」
書物を片手に木陰から歩み寄ってきたテュエステスが、理知の光を湛えた瞳に憂いの色を混ぜて言葉を継いだ。
「私たちの兄上が言いたいのは武芸の未熟さへの指摘云々ではなく、お前の『人を疑うことを知らない純真な美しさ』が、またどこぞの不埒者を引き寄せはしないかという心配なんだよ。そしてそれは、私も同じ気持ちなんだ。どうかわかってほしいな」
そう。これこそが、この物語――「ライオスが我欲に溺れた果てに、クリュシッポスの誘拐という強行に手を染めたものの、ヒッポダメイアの機敏な対処によって未遂に終わった」という世界線における、二人の兄の平常運転だった。
末弟を思う心はまっすぐすぎるほどに育ち、遠くない未来には神託によってミュケナイの統治を任されることになるこの兄弟は、今日もまた「クリュシッポスを脅かす不逞の輩をいかにして遠ざけるか」という一点を追求した完璧な共同戦線を張っている。
「アトレウス兄上、テュエステス兄上……二人ともありがとうございます。
だけど、私は本当に大丈夫です。だって私には、世界で一番強く賢い兄上たちがついているのですから」
クリュシッポスが心からの信頼と敬愛をこめて微笑むと、アトレウスは照れ隠しにその大きな手で末弟の頭をごしごしと撫で回し、テュエステスは素直な喜びを宿した瞳を細めて微笑み返した。
ライオスの欲望という魔手すらも跳ね返し、よりいっそう固い絆で結ばれたピサの王子たち。
クリュシッポスという尊い光を失わなかったこの一族は、ペロプスの賢明なる統治とヒッポダメイアの溢れんばかりの慈愛を礎として、地上でも一、二を争うほどの栄誉と繁栄を謳歌していくのであった。
なお、天界において、この兄弟の絵に描いたような幸福な日常を、地上の出来事を映し出す泉の面を通して垣間見たヘラが「ああ……わたくしの愛し子ヒッポダメイアの子供たちは、今日も睦まじくてたいへんよろしいことだわ……!」と嬉し涙を流し、愛娘のヘベからハンカチを差し出されていたのはここだけの話である。




