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もしもヒッポダメイアが優しかったら 異伝・もう一つの「もしも」 -2

夫への愛と、妾と妾の子への憎悪に囚われ、果ては我が子をも巻き込んで破滅への道を進んでいったピサ王妃ヒッポダメイア。


これは、そんな悲劇から外れた「もしも」の世界。ヒッポダメイアが妾の子ことクリュシッポスに対して、子を持つ女性なればこその母性と慈愛を注いだ、優しい世界の物語。

そして今回は、その「もしも」から更に枝分かれした、優しさによって齎された奇跡が悲しみの内に沈んでしまった世界――テバイからの客人として招かれていたライオスがクリュシッポスを攫う事件を防げなかった世界の物語。


/


この物語は、当方で展開する「もしも」のギリシャ神話における正史ことテバイ王家編(後日掲載予定)と、先だって完結したピサ王家編(https://ncode.syosetu.com/n3270mu/1)のどちらからも独立した、「もう一つの『もしも』」として紡いだお話になります。

先頃掲載した一つ目の「もう一つの『もしも』」(https://ncode.syosetu.com/n3270mu/2/)で、クリュシッポスを救うのが間に合わなかった場合のお話になるので、かなり暗いです。救いはないとも(クリュシッポスとヒッポダメイア、ライオス)、救いはあるとも(ペロプス、アトレウスとテュエステス、そして――)、どちらともとれます。


pixivの二次夢創作アカウントの方で私をご存知の方、そして先に掲載した「もしも」のピサ王家本編で私を知ってくださった方は、優しい世界がデフォルトという私の作風との落差に驚かれる…かもしれません。

実は執筆当時(高校時代)、一番最初に思いついたのがこの結末でした。優しい世界が好きなのは当時から変わらなかったのですが。

BなLとの不本意な邂逅(※神話ではなく、一般のお姉様向けのものをクラスメイトから「読書好きならこれとかお勧めだよ~」と予告も予備知識もなく差し出されてヒェッとなっていた頃)から間もなく原典のこの件を紐解いた結果、ライオスが向けるクリュシッポスへの執念の重さ+その後の生き方への影響に衝撃と恐怖を感じて「なんでよクリュシッポス悪くないのに」という思いを抱えながらも「ライオスの執念の重さから抜け出せないい…」「ここでライオスを呪った結果のペロプス一族の凄惨さ(人の身で呪いをかけるという行為への代償はありそう)な気がするけれどペロプスの気持ちもわかるし…」と苦心したのがだいたいの原因。

そしてその後、平成後期~令和でいうところの異世界転生・転移・憑依からの悲劇的な結末を覆すため一念発起する主人公たちの如く頭を悩ませ(主にギリシャ神話の家系図の複雑さ=その後の出来事への影響の深さ)、その果てに生まれたのが、先だって掲載完了した「もしも」のピサ王家の本編でした。


どこかで歯車が噛み合っていなかったら、「もしも」の世界においてもこんな展開が起こり得たのかもしれない。そんな思いを抱きつつ紐解いていただければ幸いです。

【光潰えし黄昏に】


 心身共に美しい青年となったクリュシッポスに盲目的な執着を抱いていたライオスが、事もあろうに客人として滞在していたピサの宮殿から彼を攫い出し、梃子でも愛を受け入れようとしない姿勢に業を煮やして命を奪った――

 国王夫妻の命令一下、寝る間も惜しんでクリュシッポスの捜索に当たっていた兵士たちが泣きながら彼の亡骸を宮殿に運び入れた直後。すべての罪業を白日の下(もと)へと晒し出す夜闇の女神ヘカテによって、悲劇の次第を知らされた瞬間から、ピサの王室には決して消え得ぬ影が落とされた。

 最愛の息子を永遠に奪われたペロプスは気が狂わんばかりの憤怒と悲嘆に苛まれ、アトレウスとテュエステスは涙を浮かべた双眸でテバイの方角を睨み据えながら、若い命を散らした異母弟を悼み、悍ましい凶行に及んだライオスへの憎しみを燃やし続けた。

 そして――ピサ王家の母としてクリュシッポスを温かく迎え入れ、実の息子たちにも異腹の弟を慈しむ心を芽吹かせたヒッポダメイアは。件の報が耳に入るまで、血の繋がらぬ愛息の無事を神々に祈り続け、食事も睡眠もまともに取れないほど憔悴してもなお「わたくしも捜しに行きます」と言って聞かなかった彼女は。



「……わたくしが……わたくしが悪いのです……母として、クリュシッポスの傍についてさえいれば……」


「いいえ……大人になりつつあったあの子に、始終寄り添うことが叶わずとも、……ライオスの動向にさえ、注意を払っていれば……」


「我が家の客人であればこそ、我が家に害を為すことはないと、盲目に信じていたばかりに……あの男があの子に向ける、邪悪な眼差しに気づけず……こんな……こんな、むごいことに……」



 ピサの宮殿の中でも奥向きの棟。王族たちの私室が立ち並ぶその一角で、ヒッポダメイアはかつてクリュシッポスをその胸に初めて抱いたときに着ていた衣を抱きしめながら、何日も、何日も泣き崩れていた。

 ピサ王家の調和と平穏、そして幸福は、ヒッポダメイアの母なる愛と、その愛によって守り育まれたクリュシッポスの存在が揃うことで初めて成り立つものでもあった。誰かが天寿を全うするまでは無欠だと――否、モイライの定めた寿命を紡ぎ終えてもなお、いっさいの翳りなく継承されていくと信じてやまなかったそれらが、手酷い形で打ち砕かれてしまった衝撃はあまりに大きく、ヒッポダメイアの清らかな心魂は取り返しのつかないほどに傷ついてしまったのだ。


 傷心からますます衰弱した彼女が病の床に臥すと、ペロプスとアトレウス、テュエステスの怒りと悲しみは頂点に達した。

 すぐにでもピサの全軍を動かし、神聖な『客人保護(クセニア)の掟』を踏み躙った挙句に王子クリュシッポスの命を奪ったライオスへの報復を。否、テバイに住まう無辜の民を巻きこむことなく、その咎がライオス一人に世にも恐ろしい形で帰ってくる呪詛を。

 愛する息子を、愛しい弟を奪われた。そして今度は最愛の妻を、敬愛する母を喪おうとしている。テバイを、ライオスを、許すわけにはいかない。


 しかし――そんな三人を諌めたのは、他でもないヒッポダメイアだった。


「あなた……いとしい、ペロプス様……。アトレウス……テュエステス……わたくしの、かわいい子……。

 どうか……どうか……あなたたちは、……誰も……恨まないで……傷つけないで。

 愛に因り結ばれた心を、憎しみに曇らせることも……愛を以て繋がれた血を……恨みで、穢すようなことも……あっては……ならない、の……です……」


 か細い息の下、ヒッポダメイアは片方の手でペロプスの手を握り、もう片方の手でアトレウスとテュエステスの頭を代わる代わる撫でる。

 絶望の底に突き落とされた彼女の目に映っていたのは、果たして、夫と息子たちが憎悪を募らせる姿だけだったのだろうか。あるいは、死の淵が迫りつつあったことで、常人の眼(まなこ)には映らぬ運命を――その先に待つ血塗られた未来を見据える力が、神々に愛された魂にほんのひととき根を下ろしたのだろうか。



 かくしてヒッポダメイアは、クリュシッポスの死からいくらも経たないうちに、蝋燭の火が燃え尽きるような静けさで息を引き取った。


 彼女を看取ったペロプスたちは、その瞳が永遠に閉ざされた瞬間、眦から儚くこぼれ落ちた一筋の美しい涙を目の当たりにする。

 その内に宿っていたのは、衰え弱った身体を蝕む病への苦痛でも、母が子を弔うことになった辛い現実への悲嘆でもない。


 遺していく夫や上の息子たちへの変わらぬ愛と、それゆえに最後まで息衝き続けていた彼らの未来への祈り。

 そして、先に逝ってしまった末息子にようやく会えるという、深い深い安堵だった。


*


 冥界の法廷に辿り着くまでの旅を終え、冥王夫妻と冥府の神々による裁判を経て、ヒッポダメイアはエリュシオンの野に送り届けられた。

 そこは、現世のいっさいの苦痛から解き放たれた至福なる者の野。悲嘆に暮れていた彼女の魂もまた、例外ではなかった。


「――母上。どうか、もう泣かないで。これからはずっと一緒ですよ」

「クリュシッポス……! ああ、クリュシッポス……もちろんです。もう二度と、わたくしはあなたを離したりしません」


 引き裂かれるような別れを経て、ふたたび巡り会えたヒッポダメイアとクリュシッポス。

 常春の野の優しい西風(かぜ)は、涙と共に抱擁を交わす母と子を守るように吹き渡り、二人の許に永遠の花の香(か)と祝福の鳥の歌を運び続けるのだった。




*




【夕闇照らす、優しさの残り火】


 ピサ王妃ヒッポダメイアが安らかに、しかし切ないほどの儚さで息を引き取った後。

 宮殿の奥向きの棟に設けられた一室では、美しい眠りについた彼女の亡骸を前に、遺された者たちが力なく佇んでいた。

 夫であるペロプス、血を分けた息子であるアトレウスとテュエステス。彼らの胸中には、クリュシッポスを殺めたライオスへの激しい怒りと、ヒッポダメイアまでもを喪ったことへの深い悔恨が渦巻いていた。


 できるものならば――そう、彼らの胸にその思いがよぎった通り。私たちの知る神話において、ここでペロプスはライオスに向けて恨み辛みのすべてをこめた呪詛を放つはずだった。

 しかし、ピサの王族の心が温かな絆によって結ばれたこの物語において、悲嘆と憤怒に苛まれるこの王の怨念を塞(せ)き止めたのは、ヒッポダメイアが今際の際に遺した願いの言葉だった。



 ――どうか……どうか……あなたたちは、……誰も……恨まないで……傷つけないで。


 ――愛に因り結ばれた心を、憎しみに曇らせることも……愛を以て繋がれた血を、恨みで穢すようなことも……あってはならないのです……。



 長い、長い沈黙の果て。母の部屋を満たす静謐の帳を真っ先に破ったのは、第一王子アトレウスだった。

 手の平に爪が喰いこみ、滲んだ血が滴りそうになるほどの強い力で拳を握りしめた彼は、涙を湛えた双眸を上げて父王の背中を見つめる。

「……父上。私は……もしも叶うならば、今すぐにでもピサの全軍を率い、テバイを攻め落とし、ライオスの首級(しるし)をあげてやりたいです。

 ですが、それを為してしまえば、エリュシオンの野に導かれた母上は涙を流されるでしょう。絶望の涙に心身を細らせてもなお、母上が願い続け、私たちに求めたのは……復讐を遂げることで得られる勝利ではなく、遺された私たちが互いを思いやる心を持ち続け、平穏の内に生命(いのち)を全うすることです」

 第二王子テュエステスもまた、兄の言葉に深く頷いた。首を振った拍子に涙をこぼしながらも、母の骸の前で膝をついたままの父の肩にそっと手を置く。

「兄上の仰る通りです。ライオスが犯した数えきれないほどの罪には、地上のすべてを見晴るかす神々の裁きが必ず下ります。

 私たちが今為すべきことは、憎しみに刃を研ぎ澄ますことでも、呪いに血を滾らせることでもありません。母上が最期まで皆に説き続けた『互いを愛し、守り合う』という教えを、家族一丸となって守り通すことです。母上のお言葉に背くことは、すなわち母上の愛を裏切ることになってしまいます」

 自分たちもまた深く傷ついているにも関わらず、母の遺志を真摯に守ろうと努める息子たちの言葉は、今にも復讐の呪詛をテバイへ放とうとしていたペロプスの心を激しく揺さぶった。

「……ヒッポダメイア……」

 ペロプスは、最愛の妻の冷たい手を、今一度その両手で包みこむ。

 かつて、神々を試すという恐ろしい目的のためだけに己を害した実父の手から逃れ、絶対的な庇護者たる海王の導きの下(もと)に辿り着いたこの国。戦車競走の勝利を以て先王の圧政に終止符を打ち、そうして結ばれた彼女こそが、王としての徳のみならず、長らく忘れていた家族の温もりをも齎してくれた。


 愛しい妻。かけがえのない女性。尊敬に値する、大切な存在。

 そんな人から寄せられた祈りを、願いを、信頼を、裏切るわけにはいかない。


「………、……お前たちの言う通りだ。アトレウス、テュエステス」

 ペロプスは静かに顔を上げると、涙に濡れたままの瞳で、それでもまっすぐに二人の息子を見つめた。

「我が子を奪われ、我が妻までもを喪った。私のこの痛みは、生涯消えることはないだろう。

 ……だが、ライオスへの報復のために、お前たちの安全を脅かし……この国の未来を巻きこむわけにはいかない。ヒッポダメイアの遺志こそが、我が家の永遠の法だ」

 別れを惜しむように、もう一度だけ強い力をこめてヒッポダメイアの手を握りしめてから、ペロプスはゆっくりと立ち上がる。

 そうして、死した妻の手から離した両手を差し伸ばし、生き残った息子たちの手をそれぞれしっかりと握りこんだ。

「ピサ国王・ペロプスの名において誓おう。

 私は、クリュシッポスが流した血とヒッポダメイアが流した涙を、更なる血と涙とで洗うような真似は決して起こさない。互いを信じ合い、思い合い、この国に真なる平和を築くことで、亡き二人の魂に応えよう」

「はい、父上。私も誓います」

「私もお約束します。母上の遺した愛を、私たち皆で次の世代へと繋ぎましょう」

 二人の息子もまた、父の手を強く握り返し、固い誓いを交わし合った。


 宮殿の窓から差しこむ月光が、悲しみの影を残した三人の姿を静かに照らし出す。

 しかし、彼らの瞳に宿る光は狂気のそれではない。深い悲嘆も、強い怒りも、激しい憎悪さえもを乗り越えようとする、気高い意志の輝きだった。





*




【天の落涙、聖なる意思に変えて】


「ああ……ああ、なんということなの……!」

 オリュンポスの玉座の間には、天界の女王・ヘラの慟哭が響き渡っていた。

 結婚と家庭の和を司り、妻なる女性や母なる存在を守る女神である彼女にとって、妾腹の子をも深い慈悲を以て受け入れ、正妻としての矜持を『母』としての愛情へと昇華させたヒッポダメイアは、地上の死すべき人間の中で最も寵愛する『誇らしき、家庭の守護者』そのものだった。

 しかしつい先頃、ヒッポダメイアは命を落とした。それも、モイライが定めた生命(いのち)の糸を――本来享受するはずだった天寿や幸福を全うすることなく、浅ましい欲望と悪意を剥き出しにしたライオスによってクリュシッポスとの絆を引き裂かれ、失意のうちにその身もその心も細らせていくという、あまりにも切ない形で。

 ゆえにこそヘラの悲嘆は尽きることなく、その美しい瞳からは涙がぼろぼろとこぼれ落ち、不死なる輝きを纏う頬を濡らし続けている。

「お、おい……母上、そんなに泣かないでくれよ。……気持ちはわかるけれど、母上が泣いていると俺もエリスも調子が狂うんだよ……」

「アレスお兄様の言う通りよ! お母様、どうか元気を出して。お母様の嘆きの源は消せなくても、愁いを晴らす手段ならいくらでもあるわ。私たち、そのためならいくらだって力を貸すから」

 気位高く気性も激しい母の滅多にない気落ちぶりに、アレスは居心地悪そうにしながらもその傍を離れようとはせず、エリスもまたいつになく真剣な眼差しで母を見つめていた。

「どうかお心を静めてくださいませ、お母様……! あまり嘆かれては、神なる身といえどお身体に障りますわ……!」

 エイレイテュイアはヘラの頬を濡らす涙を清潔な手巾で手ずから拭っていたが、当の彼女も両の目にじんわりと涙を滲ませている。この母と共に出産の女神としてピサ王家の営みを見守ってきた彼女にとっても、今回の出来事はあまりにも衝撃的なものだった。

 そんな彼女の後ろではヘパイストスが「何故、彼女がこのような目に遭わなければならなかったんだ……」と武骨な手で目元を拭い、乙女の頃のヘラにそっくりと謳われるヘベに至っては「ヒッポダメイアさまが、あまりにもお可哀想です……!」と、その可憐な顔を両手で覆って肩を震わせている。

 己の悲しみに心を寄せてくれる我が子の優しさに触れたことで、ヘラは「ああ、あなたたち……わたくしの愛しい子たち……!」と声をあげるや、ますます激しく咽び泣いた。


 ヒッポダメイア、そしてクリュシッポスが辿った結末に思うところがあるのは、何もヘラとその子供たちだけではない。

 美と恋愛の女神アプロディテは、ライオスの身勝手極まりない愛欲が齎したこの結末に眉を顰めている。彼女の職掌たる恋愛のよろこびを手離した三人の処女神――力任せな戦略や略奪を厭う知恵の戦神アテナは凛とした双眸の奥に静かな怒りを燃やして腕を組み、少年少女の純潔を保護する光明神アルテミスは明らかな不快と侮蔑を浮かべてテバイの方角を睨みつけ、子供の庇護と家庭の守護を司る炉の女神ヘスティアは穏和な面差しに深い悲しみの色を湛えていた。

 心美しき者たちの理不尽な死への悲しみ。それを齎した不埒者への怒り。二つの念が、オリュンポスに集う神々の心を一つに纏めていた。


「――ヘラ様。ただいま戻りました」

「イリス! ハデスとペルセポネはなんと言っていたのです?! 優しきヒッポダメイアと、彼女の愛したクリュシッポスの魂を地上へ帰す許可は取り付けられたのでしょうね!?」

 鬼気迫る勢いのヘラの叫びに、彼女の命(めい)を受けて先ほどまで冥界に渡っていた女神――神界でも一、二を争う説得の名人として名高き虹の女神イリスは、しかし、沈痛な面持ちで首を横に振ってみせた。

「ハデス様もペルセポネ様も、ヒッポダメイアの徳をたいそう惜しまれておられましたが……かの王妃の生命(いのち)の糸はモイライによって断たれたため、いかなる神の権能を以てしても、ふたたび地上へ送り出すことは叶わないと仰せでした。

 せめてもと、生前の人柄や生き様への正当な対価として、その魂をエリュシオンの野へ送られたのが、お二方に為せる唯一のことだったと……力及ばず、申し訳ございません」

 世界の理を守り、人々の営みを見守り、運命の許す範囲でその歩みに手を貸す――逆に言えば、ならぬものはならぬのだと運命が定めれば、それ以上の介入は許されない。

 高く分厚く絶対的な壁の前に、一縷の望みすら儚く断たれてしまった。現実の無情さに、ヘラの瞳に新たな涙が湧き上がった。


「ヘラ、もう泣くな。その涙を拭い、天界の泉の面(おもて)を見るが良い。

 悲しみのうちに息絶えたヒッポダメイアは、今、エリュシオンでようやく安らぎの時を得られている。クリュシッポスとの再会を果たせただけではなく、魂の友とも呼べる女性――アクシオケとの対面を叶えられたのだから。

 彼女の魂には、もはや悲しみも苦しみもない。至福なる者の一員として、親愛なる存在と共に心穏やかに暮らせているのだよ」

 王座に坐すゼウスの厳粛な、しかしどこまでも静穏な声に促されるままに、ヘラは件の泉を覗きこむ。

 果たして、鏡の如き水面(みなも)の向こうには、常春の楽園の花の波の只中でクリュシッポスを抱きしめ、アクシオケと手を取り合い、愁いの先に心からの笑顔を取り戻したヒッポダメイアの姿が映し出されていた。

 神々の王たる夫に言われるまでもなく、その様子を目の当たりにしては、もはやヘラにも否を唱えることはできない。神々の女王はそれ以上の言葉を呑みこみ、エイレイテュイアに差し出された手巾で涙をぐいと拭い去る。

「……わかりました。親愛なる者たちと共に楽園へ導かれた彼女の眠りを、わたくしが妨げることはいたしません」

 ヘラは立ち上がり、天界の女王の名に相応しい威厳を以て、この時この場所に集った者たちを見渡した。

 涙と共に悲しみにもいったんの区切りをつけ、その果てに彼女の瞳へ息吹いたもの。それは、天界の中でも特に力有る神々をも畏怖させ、同時に彼らを魂の底から奮い立たせるほどの烈しい怒りだった。


「ペロプスとアトレウスたちは、ヒッポダメイアの遺言を守り、憎悪ではなく愛によって家族と臣民を守る道を選びました。人なる彼らの為すべきことは、それで充分に果たされたとみなします。

 ならば……ここからは、わたくしたちが為すべきことを為す番です。善行には褒美と祝福を。悪行には罰と呪詛を。邪なるライオスへ、その所業に対する正当な報いを示さねばなりません。

 そうでしょう、あなた? 妻への愛のために、母への孝心のために、本当ならば自らの手で突き立てたいとまで思い詰めた復讐の刃を収めた人間がいるのです。彼らの魂の善なる輝きに応えるのもまた、我ら神々の役目ですわ」


 その気迫で痛みすらも感じそうなほどに真摯な眼差しで、ヘラはゼウスを仰ぎ見た。

 ゼウスもまた、王としての威厳を以てヘラの視線をまっすぐに受け止める。そうして一瞬の沈黙の後、しっかりと頷き返してみせた。


 地上の王族が、優しさによって呪いに堕ちていく道筋を断ち切ったその裏側。

 天上の神々は、一人の王妃の善心を冒涜した大罪人へと、決して逃れ得ぬ破滅の地図を描き出し始めていた。




*




神話の原典通りの厳罰に進みたい方へ

【我欲がその目を曇らせるならば】


 ヘラと共に涙を拭ったオリュンポスの神々は、その瞳で既に地上を見下ろし、罪深きテバイ王ライオスへ下す神罰の全貌を織り上げていた。


 ――私たちが知る神話や悲劇において、テバイの王族が見舞われる悲惨な出来事は、先祖が犯した罪に対する罰が子々孫々にまで及ぶ、見ようによっては非常に不条理な形で描かれる。

 しかし、この物語において織り成されるそれは「ペロプスと息子たちがヒッポダメイアの遺志を重んじて復讐の刃を収めたのを認めて、世界の理の守護者にして運命の執行者たる神々が徹底的に下した代執行」だった。


 ヘラを中心に纏まった神や神霊がライオスへの罰について議論する中、ふと、その輪を外れて天界の泉を覗きこんだアレスが深い嘆息を洩らす。

「蛙の子は蛙、か……いや、この場合、血は水よりも濃いと言った方がいいのか。テバイの王は祖の代から、戦でもないのに血を流さずには生きられない宿命(さだめ)なのかもしれないな」


 アレスの脳裏をよぎったのは、テバイの興りそのものに刻まれた旧い罪だった。

 テバイの初代王カドモスは、かつて神託に従って新たな国を築く際、アレスの所有する泉を守っていた竜を殺害したことがあった。

 この罪を償うべく八年に亘ってアレスの下僕(しもべ)として仕えた結果、その高潔な人柄を神々から認められ、アレスがアプロディテとの間にもうけた娘神・ハルモニアを降嫁させることで和解は成り立ったのだが――神の怒りがとけても、犯した罪に報うための罰を全うしても、神に仕える存在を殺めてしまった事実までもが消え失せるわけではない。カドモスから子孫へと続く『血の呪い』とも呼べる業は脈々と受け継がれ、末裔の一人であるライオスに最も醜い形で発現してしまったのだ。

 ヒッポダメイアとクリュシッポスの清らかな母子愛を、獣以下の身勝手な欲望と暴力で穢したライオス。かの者が冒した過ちは、カドモスが犯した「軍神の聖獣の殺害」――すなわち『不敬神(アセベイア)』という大罪の清算を、ライオスから続くすべての子孫へ呼び戻すきっかけとなったのである。


*


 ヘラの意思を受けてまず動いたのは、予言を司る光明神アポロンだった。

 彼は自らの聖地たるデルポイの神殿を通して、ライオスに恐るべき予言を――神罰を下すまでの最後の猶予を突きつける。


 ――お前は実の息子に殺される。そして、その息子は実の母を妻に迎えて子を生すだろう。


 これに恐怖したライオスは、生まれて間もない息子の両足を妻のブローチのピンで貫き、テバイ王家所有の家畜を世話する牧人に命じてテバイの南に位置するキタイロン山に捨てさせた。

 しかし、善良な牧人は赤子を危険な目に遭わせるという罪深い行いに手をつけることができず、偶然にも山中で出会ったコリントス王家に仕える羊飼いに「どうかこの子を遠くに連れて行ってやってほしい」と頼みこんで幼い王子の身柄を託す。

 長らく子供を授かれずにいたコリントス王ポリュボスと王妃メロペは、羊飼いに連れられて王城の敷地に入った赤子に目を留め、これこそが天からの授かりものと信じてその子を引き取り育てていくことを決めた。


 かくして、コリントス王子として成長したテバイ王子オイディプスは、あるとき、自分もデルポイに赴いてアポロンの神託を受けることとなる。


 ――お前は実の父を殺す。そして、実の母を妻に迎えて子を生すだろう。


 アポロンの神託は、直接的な言葉として伝えられる場合もあれば、謎めいた詩の形を取って紡がれる場合もある。しかし、どちらにおいても共通しているのは、その真意を解き明かすには知恵と冷静さが求められるということだ。

 だが、オイディプスは神託の絶対性への恐怖に囚われるあまり、自分の出自をポリュボスとメロペに確かめてみるという落ち着きすら取り戻せないまま、コリントスの王と王妃をこそ実の父母と信じこんで放浪の旅に出てしまう。

「非の打ちどころのない王子と謳われていたのに、肝心なところで思慮を失くしてしまうとは」

 神殿の炉に焚(く)べられた香草の薫香を揺らして、アポロンは哀しげに溜息をついた。


 今このときにこの神託が下された意味を問い直し、己の生まれや育ちについて徹底的に調べてみる勇気や慎重さがあれば、防げる事態もあったのかもしれない。

 しかし彼は、神託の絶対性への恐怖があったにしろ、自らの耳目で捉えられる出来事のみが全てであるという認識に溺れてしまい、ならば遠く遠く距離を置きさえすれば運命からも逃れられると過信したのだ。

 それは、あまりにも小さな芽に過ぎない。しかしその過信こそが、神が忌み嫌う人の『傲慢(ヒュブリス)』へと繋がる悪心だった。



 かくして、実の父と実の息子は、掟の女神が坐すパルナッソス山の膝元・ポキスの山地の三叉路で鉢合わせてしまう。

 山中の狭い三叉路は、馬が牽く戦車一台がようやっと通れるほどの道幅しかない。いずれも戦車に乗っている両者が無事に通行するには、どちらか一方がいったん馬を停め、直前の分岐路まで戦車を押して戻り、もう一方が通り過ぎるのを待つしか手段がなかった。

 しかし、ライオスは横暴だった。テバイに帰国し王位を継いだ後の彼は王権の揮い方を履き違え、妻にも臣民にも無体を働いた結果として神々から更なる怒りを買い、神罰の代行者としてスピンクスという怪物を国内に呼びこんでしまっている――といえば、そのほどがわかるだろう。

 常日頃の我儘勝手がこの見知らぬ若者にも通じると判断したライオスは「お前が道を譲れ」と言って聞かず、御者に命じてオイディプスの戦車の馬を一頭殺させてしまったのだ。


 それこそが、ライオスの命取りとなった。


 あまりの身勝手さに激怒したオイディプスは、戦車に置いていた杖を振り上げて応戦し、ライオスと御者を打ち据えて谷底に突き落とし、結果として二人の命を奪ってしまう。

 これだけならば、「正当防衛の末の過失致死」として情状酌量の余地もあったかもしれない。しかし、オイディプスの真の罪はその後の行動にあった。

 テバイに辿り着いた彼は、スピンクスの謎を解くことで怪物の脅威を退け――「謎を解かれれば死ぬ」という予言を受けていたスピンクスが谷へ身投げしたからだ――、救国の英雄として前王妃イオカステを妻に迎える際、「テバイへ至る途中にあるポキスの三叉路で、道を譲らずに自分の馬を殺した対向の戦車の主と御者を返り討ちにした」という事実を誰にも言わなかったのである。

 もしもオイディプスが自らの罪を告白していれば、イオカステはそれがライオスの死の状況と酷似していることに気づき、贖罪を終えるどころか始めてすらいない罪人との婚姻を踏み留まれたはずだった。

 自分にとって都合の悪い過去を隠蔽した不実。それこそが、人類の禁忌である『近親相姦(エモミクシア)』を、オイディプスとイオカステの間に成り立たせてしまったのだ。


*


 それから、十数年の歳月が流れたある年のこと。

 川という川の水が干上がり、畑という畑の土が荒れ、麦も野菜も果樹までもが枯れ果てた。その上、未知の疫病までもが蔓延し、国全体が生きながらにして死に絶えていくかの如き地獄の渦中に突き落とされる。

 これこそが、ライオスの『客人保護(クセニア)』の掟破りの罰と、オイディプスの『親殺し(パトロクロニア)』と『近親相姦(エモミクシア)』の罪の贖い――そして、彼らが知らずのうちに起こしている多くの過ちに対する裁きの顕現。天地海のあらゆる神々の意志が一つに束ねられ、冥界より遣わされた復讐の女神エリニュスたちによって執行された厳罰だった。


 ――お前たちの秘め隠した罪によって流された血が、母なる大地を穢している。先王ライオスを殺害した犯人を突き止め、テバイから追放しない限り、この呪詛が解かれることはない。


 嘘偽りを何よりも嫌悪するアポロンの宣告により、オイディプスたちは犯人の捜索に動き出し――そして遂に、その過程ですべての真実が白日の下に晒される。

 すなわち、オイディプスこそがライオスを殺した犯人であり、彼が后として傍らに置いているイオカステが実の母親であるという事実を、当事者のみならず臣下も国民もまた知り及ぶこととなったのだった。

 哀れイオカステは、前の夫の過去の悪行の因果に巻き込まれた果てに、かつて無慈悲に奪われた息子を今の夫として交わってしまった絶望に耐えかね、自らの部屋で首を括って命を絶ってしまう。オイディプスは妻であり、母でもあったイオカステの亡骸の前で身も世もなく泣き崩れ、彼女の衣に留まっていた黄金のブローチを取り外すと、鋭利なピンで自らの両目を突き刺した。



 視力を失い、自らの血に塗れた手を虚空に差し伸べるオイディプスの姿を天上から見下ろしたヘラは、ヒッポダメイアの死からのち険しい色を湛えたままだった眼差しを漸う和らげた。

「これで、すべての罪に対する代価は等しく支払われました。クリュシッポスという子供が流した涙も、ヒッポダメイアという母が流した涙も……オイディプスという子供と、ライオスという父の血によって贖われたのです」

「そうだな。……ペロプスの一族が憎悪と復讐を捨て、愛と労わりを選んだとき、彼らは神の領域にまた一歩近付いた。

 しかし、ライオスとオイディプスは――否、テバイの王たちは、そのほとんどが我欲と傲慢から最期まで抜け出せなかった。

 ……ならば、これは運命が定めた出来事ではない。彼ら自身の意思による選択への、当然の報いなのだ」

 妻の言葉に頷いたゼウスは、盲目となったオイディプスが娘たちに手を引かれてテバイを去っていく姿を、どこまでも静かな眼差しで見つめていた。




*




厳しい罰の中に、一筋の救いを見たい方へ

【罪深き王の、罪なき妻子へ】


 オリュンポスの神々が一丸となり、罪深きテバイ王ライオスへの断罪の計画を詰めていたとき。

 テバイの祖神の片割れであるアプロディテが、ふと美しい眉を物憂げに顰めた。

「愛欲を笠に着て醜い所業を働いたあの男――ライオスの罪が天を衝くものであるという見解に異論はないけれど、妻となったイオカステには未だ何の罪も穢れもないわ。強いて言うなら、アレスの竜を殺めてしまったカドモスの血の因縁は付き纏っているけれど……神々への礼を失さず、アポロンの神託も真摯に受け止め、予言された未来が現実にならないようにと、非力な女の身で精一杯の努力を重ねたのもまた事実。

 ……わたくしの身内贔屓であることは重々承知よ。だけど、そんなあの子を、夫の罪の道連れとして不幸に引きこむのはあまりに忍びないわ」

「……それについては、俺も同意見だ」

 もうひとりのテバイの祖神たるアレスもまた、苦い顔で頷いてみせる。

「イオカステがライオスに抱かれることを最後の最後まで拒んだのは、偏に夫の身を案じ、国と臣民を守るため。その清らかな心根を我欲のままに踏み躙った挙句、生まれた赤ん坊の足をピンで貫いて捨てさせたのはあの男だ。

 ……子供を傷つけ、女を悲しませた……クリュシッポスとヒッポダメイアを死に至らしめた件を顧みることもなく、徒に一人で罪を重ね続けている。

 そんな罪人への罰に無辜の女子供を巻きこむのは、俺の美学にも反する。俺が司る闘争は、あくまでも戦場で繰り広げられるもの。非戦闘員の流血は、どの戦神も英雄も忌むべき所業だ。そうだろう?」

 親の因果が子に報う――それはこの世界において往々に起こりうることだ。とはいえ、それを理由として子孫のすべてを見放すほど無慈悲になりきれないのがオリュンポスの神々でもある。

 二神の主張にもっともだと頷き、ではこの先の絵図をどのように修正していくべきかと一同が首を捻る中、静かに手を挙げたのはアテナだった。

 常々、アレスともアプロディテとも反りが合わない様子を見せる知勇の女神は、今ばかりは日頃の確執を胸に仕舞いこみ、落ち着いた声で一つの意見を述べる。

「ならば、呪いの成就の形を変えましょう。オイディプスをテバイの王座に就かせる必要も、イオカステをライオスの傍らに留(とど)め続ける必要もありません。

 ……ライオスを、この世で最も残酷な『孤独』の監獄に閉じこめ、彼がペロプスから奪った以上の存在を引き離すのです。妻も子も、親族も、臣下も、民たちも、皆々がテバイから離れていくように。我ら神々の権能を、そのために活かしましょう」

 アテナの妙案はアレスとアプロディテのみならず、此度の神罰を主導するヘラやゼウスをも大いに唸らせた。

 かくして、オリュンポスの神々は当初の想定から過程と結果を移ろわせながらも、標的たるライオスへの狙いはいっさいブレないままの容赦なき制裁の続きに取り掛かったのである。


*


 変更された方針に従っていち早く動いたのはアルテミスとアプロディテ、そしてヘラの三人だった。

 それぞれに『少女の純潔』『恋愛のよろこび』『妻の貞潔』という相容れない要素を司っているがゆえに、常日頃はどうしても拭いきれない緊張感を以て相対する女神たちではあるが、彼女たちの職掌を『女性の一生』という観点に照らし合わせて見れば各々が切っても切り離せない存在となる。

 アプロディテが預かる『男女の結び付き』の後に訪れるのは、ヘラとアルテミスが請け負う『子供の誕生と保護・養育』という喜ばしき事象。イオカステの存在も人生も蔑ろにしたライオスに対して並々ならぬ怒りを抱いているのは、つまりは三人とも同じだったのだ。

 この上ないほどに心を一つにした偉大なる三女神によって、イオカステの周囲には神聖な結界が張り巡らされた。それは、ライオスが夫としての権利を押し通せないようにイオカステの身を守るものであるのと同時に、彼女の心に夫への底知れぬ嫌悪と失望しか湧き上がらないよう促すものでもあった。

 元より、神意を無視してまでもうけたはずの我が子を、いざ産まれればやはり恐ろしいからと身勝手に捨てた夫に対する悲しみを抱いていたイオカステである。この結界の効果は覿面だった。彼女の心はライオスの顔を見るたびに冷え切っていき、思いやる気持ちも消え失せ、王の伴侶として並び立つことを拒絶するようになる。

 ライオスがどれほどの権力を揮おうとも、妻の愛という最も近い温もりは永遠に手の届かないところへと消え去り、遂に根負けした彼はイオカステに離縁を言い渡すことになったのだった。



 王国の陰では、アポロンとアテナが積極的に働きかけていた。

 片や理性と秩序の象徴である光明を、片や理知と正義に基づく戦いをそれぞれ司るふたりは、それぞれに手分けしてテバイの文官や将兵、更には一介の侍女に至るまで、宮殿に出仕しているすべての者の脳裏に一つの情景を映し出していく。


 ――お前たちの王・ライオスは、何ら非のない妻を蔑ろにしたばかりか、血を分けた我が子を手にかけた。

   そしてかつては、客人の身分でありながらピサの王子クリュシッポスを略奪し殺め、王子の養母(はは)たる先の王妃ヒッポダメイアを失意のうちに死へと追いやった。


 ――それらの罪を浄めぬままに冠を戴いた不徳の王。それがお前たちの王・ライオスだ。


 ――隠匿されし罪は既に暴かれ、近々、神々の裁定により罰が執行される。巻き添えを喰いたくなければ、一刻も早く此処から離れるように。


 白昼夢と断じるにはあまりにも鮮明な情景。そして、あたかもつい先ほどまで気高き二神が『そこ』にいたかのような名状しがたい感覚に、王家に仕える人々は皆一様に震え上がった。

 おりしもライオスから離縁を言い渡されたイオカステを実家に迎え入れた弟クレオンをはじめ、テバイの統治を支えてきた家臣たちは、病や怪我、高齢による隠居、神の思し召しによる転居を理由に宮殿を後にしていく。



 同時期、弁舌巧みな旅の神であるヘルメスや、千変万化の変身能力を具え持つ演劇の神たるディオニュソスは、仲の良い二人組の旅人に扮してテバイの民の間にとある噂を流し始めた。


「ここから南西のピサやコリントスは平和なもんだよ。何せ、どちらの国も賢い王様や優しい王子様に恵まれているから、将来の心配なんて何一つしなくていいんだ」

「ピサにしろ、コリントスにしろ、王族はみんな天の神様たちの祝福を受けているっていう話じゃないか。それだけ心の美しい人たちなんだろう。あそこで暮らしている人たちは幸せ者だね」

「まったくだ。……それに引き換え、テバイの王ときたら、王妃様にもその弟君様にも見放されたのを皮切りに、最も近しい家臣から暇乞いが始まっているっていう話だから……」


 テバイの行く末に不安を感じた民たちは夜な夜な荷物を纏め、家族と手に手を取り合って国境を越えていく。

 そのうちに農地は荒れ果て、家畜は小屋から解き放たれ、市場は静まり返り、広場に集う者はおろか行き交う者すら誰もいなくなった。ライオスが我が子を遺棄してでも固執し続けた玉座から見下ろす街は、かつての賑わいや活気こそが夢幻であったかのように、抜け殻めいた空っぽの都市と化してしまったのである。

「……っ、ぁ、あああぁああぁあぁぁっ!!」

 愛する者も、意見を求められる者も、言葉交わせる者も誰一人いなくなった広間で、ライオスは狂ったように叫んだ。しかし、返ってくるのはあまりに虚しい木霊だけ。

 生きながらにして世界から孤立させられた不徳の王は、やがて、誰からも顧みられることのないまま息絶えることとなる。


*


 一方、神々の陰なる導きによってテバイから穏便に連れ出されたイオカステは、弟であるクレオンに守られながら、大地の中心たるデルポイの神殿へと向かっていた。

 狂気を深めていく夫の許から離れられたとき、彼女の胸に真っ先に浮かんだのは、産まれて間もなく彼の手で奪われた息子のことだった。

 もはや生きてはいないだろう。ならばせめて、子の受胎とその宿命が告げられたかの地で、ようやくライオスの手中から抜け出したことの報告と共に、改めて冥福を祈ろうと――ただ、その一心で。


 同じ頃、コリントスのポリュボス王とメロペ王妃の子供として何不自由なく育っていたオイディプスもまた、デルポイを目指す旅の途上にあった。

 少し前、おしゃべり好きな使用人が「私たちの王子様は拾い子だけれど」と話しているのを耳にしたのが妙に引っ掛かり――その使用人に問うたところ、顔をさっと青くして知らぬ存ぜぬを通されてしまったので、真実のみを物語るアポロンの口から自分の出生に纏わる事実を教えてもらおうと心に決めたのだ。


 ――奇しくも二人が行き着いたのは、私たちの知る神話において、ライオスとオイディプスが血の惨劇を起こすはずだったポキスの三叉路だった。

 しかし、今ここにライオスの傲慢な馬車はない。旅の疲れと古傷の痛みに片足を引きずり、不安と緊張に張り詰めた面持ちをした青年と、哀愁を帯びた横顔で馬車の揺らぎに身を任せる女性がいるだけだ。


「! クレオン、停めてちょうだい。……そこのあなた。旅の御方。足を痛めていらっしゃるのですか?」

 先に声をかけたのはイオカステだった。

 静かに停止した馬車から僅かに身を乗り出し、見るからに苦痛に耐えるような不自然な歩みを重ねている青年を気にして声をかけたとき。

 こちらを顧みた彼の面差しを認めたその瞬間、彼女はハッと息を呑んだ。

 先頃別れた夫と同じ色の髪に、若き日の彼と似た形を描く鼻筋や輪郭。自分と同じ色をした瞳。

 そして、何よりも――彼が引きずる片足の踵の部分に刺さったままの金の輝き。そこに刻まれているのは紛れもなく、エキオンの氏族の紋章だった。当代では自分やクレオンや、クレオンの息子たちが用いている、竜の牙から生まれた勇将の血を引く者だけが飾ることを許された特別な印。

「あなた……その足は……そこに刺さっている、……ブローチは……」

 イオカステは転がるように馬車から降りた。キトンの裾が山道の土埃に汚れることも厭わず、ただ一心不乱に青年の許に駆け寄り、膝をついてその足元をあらためる。

 果たしてそれは、十数年前、産まれたばかりの我が子と共に手元から失われたブローチ。泣き喚く息子の小さな足に、その実の父たるライオスの手で無慈悲に穿ちこまれた、エキオンの子孫たるイオカステに受け継がれた家宝だった。


「ああ……ああ、間違いないわ……! このブローチ……ここに刻まれた、エキオンの紋章……!

 あのとき、やっと目が開いたばかりだったのに……髪はあの人と同じ色で、だけど瞳の色は私とおそろいなのだと……『この子の瞳は、あなたを想う私と同じ色をしているのです』と……

 だからあの人にも、ちゃんと向き合ってほしかった……それだけ、ただそれだけだったのに……!

 まさか、こうして会えるなんて……、……生きていてくれたなんて……! ずっと、ずっと……会いたかった……私の子……!!」


 見るからに高貴な身分にあるとわかる女性が目の前で泣き崩れたことに、オイディプスは当初ひどく困惑した。

 しかし、すすり泣きの合間にこぼされる言葉に耳を傾けるうちに――そして、涙を流す彼女の瞳の色を確かめた瞬間に、彼の胸の奥でずっと満たされずにいた疑問が氷解していく。

 尊敬する父ポリュボスとも、敬愛する母メロペとも異なる色をした自分の瞳。幼い頃は父方の祖父(おじいさま)がその色の目をしていたのだと言い聞かせられて納得していたが、使用人の洩らした「拾い子」という言葉を耳にしたことで違和を覚えた要素の一つ。

 だが、今ここにいる女性の双眸は、自分と鏡映しの如く同じ色で。のみならず、赤子の頃の不慮の事故で刺さったままなのだという金のブローチの、自分や両親すらも知らない謂れを淀みなく口にしていて。よくよく見れば、彼女が羽織ったヒマティオンを留めるブローチは――色こそ違えど、まったく同じ紋章が刻印されていて。

「……私は……コリントスのポリュボス王とメロペ王妃の息子だと……ずっと、そう思って生きていました。

 時に厳しくも、温かく優しく育まれて……ですが、お二方との親子の縁の内に血の繋がりは含まれていないのではないかと……そう思うような疑問が、次々に浮かんできて……。

 ……ご婦人……もしかして……あなたは、……あなたは、……私の……?」

「ええ、……ええ、そうです……! 私が……あなたの、母です……! ああ……神様、なんというご慈悲を……!」

 長年積もりに積もった悲しみと切なさと、それらを沈めてなお余りあるほどの歓喜を胸に、女性は――母親(イオカステ)は、立派な青年に成長した息子(オイディプス)をしっかりと抱きしめた。



 オリュンポスの神々が垂らしたひとしずくの慈悲により、オイディプスは眼前に提示された謎に対する答を探るだけの慎重さと冷静さを失わずに済んだ。そしてその結果として、ずっと探し求めていた自分の出自という真実を、生母との再会という形で一息に手繰り寄せることができたのである。

「……これで良いのです。罪深き者は己の闇に溺れましたが、罪無き者は光の許に繋ぎ止められる。

 人間が他者を思いやる愛を忘れない限り、わたくしたちもまた、このような奇跡を導き合わせてあげられますわ」

 遥か天上で母子の様子を見守っていたヘラは、満足そうに微笑み、眦に滲んだ涙をそっと拭うのだった。



*



厳しい罰の中に、一筋の救いを見たい方へ。ささやかなおまけ。

【それは、類稀なる奇跡】


 最愛の息子・オイディプスの身を案じ続けていたコリントスの国王夫妻――ポリュボスとメロペの許に、王子の帰還の報が飛びこんできたのは、彼が姿を消して数日ほど後のことだった。

 取るものもとりあえず玉座の間へ駆けこむと、そこには果たして、旅装を解かぬままの愛息の姿があった。その隣には、初めて目にする――されど、ただならぬ気品と共に深い憂愁を湛えた女性が寄り添っている。

「オイディプス! 無事だったのか! 『私の求める真実を知るまで国には帰りません。まずは、デルポイの神託を受けに行きます』という書置きを見つけたとき、私とメロペがどれほど心配したか……!」

「ああ、オイディプス……オイディプス……!! 帰ってきてくれて良かった……!」

 ポリュボスとメロペが涙ながらに駆け寄ろうとしたとき、オイディプスと、彼が伴ってきた女性――テバイの元・王妃イオカステは、二人に向かって静かに頭(こうべ)を垂れた。

「父上、母上。王子という立場にも関わらず、勝手に国を飛び出し……お二人にたいへん心配をおかけしたことをお許しください。ですが私は、デルポイへ向かう途上、神々の大いなる導きによって、探し続けていた真実に辿り着くこととなったのです」

 オイディプスは顔を上げると、傍らに佇むイオカステの手をそっと取りながら、万感の思いをこめて二人を見上げる。

「こちらの方は、テバイの元・王妃イオカステ様。……私の、実の母です。

 今から十数年前、テバイの不徳なる王によってキタイロン山に捨てられた私を、父上と母上が拾って育ててくださったのですね。実の子となんら変わりなく……おそらくは、それ以上の愛を以て」

 その言葉に、ポリュボスとメロペは揃って息を呑んだ。


 いつかはこの日が来ることを、夫婦共に覚悟はしていた。オイディプスが何らかの拍子で自らの出自に疑問を持ち、調べ、訊ねて、そうしてすべてを突き止める日を。

 そして、それが達せられたそのときには、自分たちの傍を離れて実の家族の許へ帰ってしまうのではないかと。そんな不安はいつだって、二人の胸の奥底に横たわっていた。


 しかし、二人の不安の原因――オイディプスの生母たるイオカステは嫋やかな所作で顔を上げると、コリントスの王妃と王へ手を差し伸べる。


「メロペ様、ポリュボス様……私は、いくら言葉を尽くしても言い尽くせないほどの感謝を、どうしても直接お伝えしたく、こうして参上した次第です。

 私はあの日、夫であった者の残酷な所業によって、我が子と共に過ごす幸福な時間も、一人の母親としての希望ある未来も……すべてを奪われました。

 ですが……底知れない悲嘆と絶望の中で十数年を過ごしてきた私が、こんなに立派に育った息子に再び出会うことが叶ったのは、お二方の親としての愛ありてこそなのです」

「……イオカステ様……」

「私は確かにこの子を産みましたが、私がこの子に贈ったのはその命一つきり。この子がこれほどまっすぐに育ったのも、優しさと思慮を兼ね備えた王子と成ったのも、他でもないあなた方の薫陶を受けたからです。

 この子の……オイディプスにとっての『まことの親』は……紛れもなく、あなた方です」


 イオカステの両手が、メロペの手を優しく包みこむ。その温もりに、その言葉に、メロペの瞳からは堰を切ったように涙が溢れ出した。

 オイディプスが成長するにつけ、これほど素晴らしい息子を手離すことになった実の母の悲哀や後悔は如何ばかりかという思いも、メロペの心の内では着実に募っていた。それだけに彼女は、結果的に子供を奪ってしまったことになる己が嫉妬や憎悪を向けられ、その果てに息子を奪い返される未来が訪れることも心密かに覚悟していたのである。

 そんなメロペにとって、純粋な感謝と経緯に満ちたイオカステの言葉は何よりも救いとなった。

 彼女は涙を流したまま片方の手を伸ばし返し、もう片方の手を包むイオカステの手を強く握り返す。二人の母が手を取り合う様子に微笑みながら、オイディプスもポリュボスの前まで歩み寄り、その手を両の手でしっかりと握りしめた。

「父上。母上。私の血が、どこの誰から続くものであろうと、私があなた方の息子であることは生涯変わりません。

 私を育ててくださった父上と母上、私を生んでくれた母上。かくも偉大な父と二人の母とを、私がこの両腕で生涯守り抜くようにという神々の思し召し……それこそが、私の辿り着くべき真実だったのだと、ようやく気付けたのです」

「……よくぞ言ってくれた、オイディプス……我が息子よ。私とメロペの自慢の息子であり、イオカステ殿の素晴らしき愛し子よ……!」

 親を思う子としての愛に溢れたオイディプスの言葉に、ポリュボスもぼろぼろと涙を落としながら、強く逞しく、優しく育った息子の肩を強く抱きしめた。


 私たちの知る神話においては、血に塗れ、呪いの影に苛まれ続けるはずだったオイディプスの宿命。

 しかしその結末は、生母の清らかな心と、養親たちの無償の愛――そして、三人の親の精神を強く受け継いだ息子の聡明さと誠実さによって、世界で一、二を争うほどに美しい『二つの国の絆』へと昇華されたのだった。


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