もしもヒッポダメイアが優しかったら
夫への愛と、妾と妾の子への憎悪に囚われ、果ては我が子をも巻き込んで破滅への道を進んでいったピサ王妃ヒッポダメイア。
これは、そんな悲劇から外れた「もしも」の世界。ヒッポダメイアが妾の子ことクリュシッポスに対して、子を持つ女性なればこその母性と慈愛を注いだ、優しい世界の物語。
※ペロプスとヒッポダメイアには、アトレウスとテュエステスの他にも多くの子供たちが存在しますが、今作では出番を割愛させていただきます。他の王子たちや王女たちも、この「もしも」のヒッポダメイアの影響を強く受けているはず。
*
pixivさんに同名義・同タイトルで載せているシリーズを、なろうさんにも掲載したものとなります。
学生時代に使っていたUSBメモリから、その頃 夢中になって書いていたギリシャ神話の「もしも」を題材にした小説が出てきて、そういえば当時の私は「ギリシャ神話の悲劇って秘密が原因になっていたり、自制や自律の心や冷静さを失っていなかったら防げるものがわりとあるよね」という思いから、あらゆる「もしもこの人物が神話の悲劇を回避するとしたら」というお話を書き留めていたことを思い出して懐かしい気持ちになりまして。
優しい世界至上主義なのは昔から変わらなかったんだなぁとしみじみしつつ、当時の文章に加筆修正しつつ順繰りに掲載していきます。
【継子・クリュシッポスとの対面】
豪奢な大理石の柱が立ち並ぶピサの宮殿。その広間の片隅で、まだいとけない少年・クリュシッポスは立ち尽くしていた。
幼くとも聡明な彼は、己がこの華やかな世界にとっての『異分子』であることを痛いほどに自覚している。最愛の母・アクシオケを亡くし、他に頼るあてもなかった彼にとって、時折顔を見せに訪れるばかりの父王・ペロプスの住まいである宮殿はあまりにも広大で、そしてあまりにも余所余所しいものに感じられてならなかった。
(……僕がここにいたら、王妃様や王子様たちはきっと嫌な思いをされる。僕のことも、お母様のことも、ひどく疎まれるに違いない……)
年端もいかぬ少年の細い肩は、母を喪った寂しさと、その母を妾として無聊を慰めていた父王を頼るしかない心細さ、そして、見知らぬ継母と継兄が己に対して抱いているに違いない敵意への恐怖で小さく震えていた。
と、そこへ――柔らかな衣擦れの音が響き、一人の女性が姿を現した。
彼女こそがピサ王妃・ヒッポダメイア。クリュシッポスの父・ペロプスの正妻である美しい女性だ。
クリュシッポスはますます身体を強張らせ、控えている侍女も兵士たちも固唾を呑んで、この継母と継子の対面を見守った。彼らもまた、王が他所の女性との間に作った子供を迎える王妃の胸中は、さぞや激しい怒りと憎しみに燃えているに違いないと確信していたのである。
ところが。彼らの予想に反して、ヒッポダメイアの瞳に宿っていたのは、怒りの炎でも憎しみの陰でもなかった。
彼女の双眸に湛えられていたのは静かな微笑み。そして、その微笑を形作った拍子にこぼれ落ちた、優しく煌めく涙のみだった。
ヒッポダメイアはクリュシッポスの前に歩み寄ると、王妃としての威厳など気にしたふうでもなく、その場にそっと膝をつく。
己の目線を幼子の視線と同じ高さに合わせた彼女は、驚きながらも怯えを消しきれずにいるクリュシッポスの瞳をまっすぐに見つめてきた。
「あなたが、クリュシッポスですね。ペロプス様から話は聞いています」
その声は春風のような穏やかな響きで、強張りきった少年の身体と心をそっと揺るがした。
「さぞや遠い道のりだったでしょう。ですが、よく無事で辿り着いてくれました。……怖がらなくていいのですよ」
ヒッポダメイアはその白い手をそっと伸ばすと、緊張と恐怖に冷え切ったクリュシッポスの小さな手を包みこむ。
そうして、驚愕と共に瞠目したクリュシッポスの身体は、ヒッポダメイアの華奢な腕に引かれるままに、その嫋やかで温かな胸の中へと抱きしめられていた。
衣から漂う薫香は、野に咲く花にも似た甘く柔らかな香り。それは心なしか、クリュシッポスが亡き母と共に過ごした森の匂いに似ている気がした。
――己の身体を包みこむ柔らかな温もりも、また同じだった。それは、亡くしてしまった母を思い起こさずにはいられない、深い母性と慈愛に満ちた抱擁だった。
「お母様を亡くされて、どんなに寂しかったことでしょう。どんなに心細かったことでしょう。
……でも、もう心配はいりません。一人で泣く必要もないのです。ここは今日から、あなたのもう一つの家になる場所。そして私もまた、あなたのもう一人の母になりましょう」
張り詰めた背中をさする手の温もりと、自分を心から憐れみ、慈しんでくれる言葉の響きに、クリュシッポスの心の中の堤防は一気に決壊した。
少年は王妃の胸に顔を埋め、声を放って泣き始めた。ずっと巣食っていた恐怖も緊張も、行き場をなくした悲しみも、すべてが温かな涙となって溢れ出していく。
ヒッポダメイアはもはや多くを語らず、ただただこの少年の頭を優しく撫で、涙が涸れるまでしっかりと抱きしめ続けていた。
*
【夫・ペロプスへの二つの『恨み』】
クリュシッポスを存分に抱きしめて安心させ、今日より彼付きとなる侍女と兵士にその身を託して部屋へと送り出した後のこと。
静寂に満ちた夫婦の私室で、ヒッポダメイアは夫であるペロプスと二人きりで向き合っていた。
ペロプスは、長年連れ添った妻と目を合わせることができずにいた。
アクシオケのこともヒッポダメイアに負けないほど真摯に愛したとはいえ、自分のおこないは神の法にも人の法にも触れる『不義』『不実』だ。
夫はただ一人の妻を愛し、妻はただ一人の夫を愛する。それこそが、結婚の女神ヘラが守護するこの世界の掟なのだから。
自分の過去のおこないが、ヒッポダメイアの妻としての誇りをどれほど傷つけたことだろう。そして、一人の女性として、どれほど怒り、そして悲しんだことだろう。後悔してもしきれなかった。
しかし、ペロプスの恐れに反して、ヒッポダメイアの眼差しには夫を責めるような色は微塵も含まれていなかった。
彼女はどこまでも穏やかな、それでいてどこか悪戯っぽい光を含んだ瞳で彼を見つめ、形良い唇を静かに動かし始める。
「ペロプス様。わたくしはね、ただ二つだけ、あなたのことをお恨みしていることがあるのよ」
その言葉に、ペロプスはびくりと肩を揺らし、覚悟を決めたような面持ちでヒッポダメイアに向き直った。
彼女は先ほどクリュシッポスにそうしたように、その繊手を伸ばして夫の手を包みこみながら、一つ目の『恨み』を告げた。
「一つは、あんなに可愛らしい子に、お母君ともども長らく肩身の狭い思いをさせたことです。
わたくしはあなたの妻。あなたの家を守り、あなたの家族を育む者です。あの子もあなたの子ならば、わたくしにはわたくしの産んだ子供たちと等しく、あの子のことも守り育む義務があったのに……。
もっと早く、わたくしの許へ連れてきてくださればよかったのです。頼れる者があなたしかいなくて、クリュシッポスたちがどれほど寂しく心細い思いをしたことか」
その言葉を耳にした瞬間、ペロプスは目を見開いた。
妻の恨みとは、自分への怒りや悲しみに因るものでも、妾と妾腹の子に対する妬みや憎しみが含まれたものでもなかった。
愛人という不安定な立場に縋るしかなかったアクシオケと、そのアクシオケが産んだクリュシッポスがこれまで強いられてきた孤独と不自由さを思いやり、ペロプスが彼女たちの身辺に関わるいっさいを一人で抱えこんでいたことに歯がゆさやもどかしさを感じたことから生まれ来た、あまりに温かなものだったのである。
「そして、もう一つは……」
ヒッポダメイアはここでいったん言葉を切った。切なげに眉を顰め、静かに嘆息し、まっすぐに据えていた視線を微かに落とす。
「あの子のお母君に……アクシオケさまに、生きてお会いできなかったことです。
もちろん、アクシオケさまは少なからず、正妻であるわたくしに対する引け目を感じたかもしれません。それでもわたくしたち、時間をかけてお話すれば、きっといいお友達になれたはずだわ。あなたを愛して、あなたの子供を産んだ女同士、楽しいことでも苦労したことでも、おしゃべりの種は尽きなかったでしょう。
……今際の際、アクシオケさまはきっと不安でいっぱいだったはずです。遺していく我が子を、愛した人の正妻に……顔も知らない女に託さなければならなかったのですから。
先ほどのクリュシッポスの様子を見れば、わたくしが自分たちを憎んでいるものと疑っていなかったことがわかって、……そんなことはないのですと、そう伝えられれば良かったと……ペロプス様の息子として、我が家の子供として、大切に育てますと……だから安心してほしいと、……その言葉だけでも、届けたかったのです」
ペロプスの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
ピサの先王オイノマオスとの命を懸けた戦車競走に挑み、敗者の末路への恐怖を潜り抜けて勝ちを収め、先王の圧政からこの国を解放し王位に就いた英雄として名高いペロプス。しかしそんな彼は今、目の前にいる妻のえもいわれぬほど深い慈悲の精神を前に、ただの不甲斐ない一人の男として深く頭を垂れることしかできなかった。
「ヒッポダメイア……私は自分という人間の器の小ささが恥ずかしい。君がこれほどまでに大きな愛で、私を、そして我が子たちを包みこんでくれていたとは」
涙に濡れたままの瞳を上げて、ペロプスはヒッポダメイアの手を強く握り返す。妻の手はどこまでも華奢で嫋やかで、それでいて、彼を苛んでいた後ろめたさや罪悪感をおおらかに洗い流していくような、強靭な芯の通った温かさに満ちていた。
「ありがとう。本当に、ありがとう。
これからはもう、君に何も隠しはしない。君と共にクリュシッポスを、アトレウスたちを……我が家を、なんとしてでも守り抜いていこう」
ヒッポダメイアは嬉しそうに微笑むと、もう片方の手を伸ばして、ペロプスの頬を伝う涙をそっと指先で拭う。
神々の思惑が交錯し、時に人々の呪いが混じり合うギリシャの世界。
しかしこのピサの宮殿においては、一人の女性が発揮した底知れぬ慈しみの心によって、永久に消えることのない温もりが灯されていたのだった。
*
【結婚の女神・ヘラの新たなる寵児】
そもそもペロプスは幼い頃に一度死の淵を見たものの、神々の慈悲によって蘇生を遂げ、海神ポセイドンから授かった不死なる有翼の馬と黄金の戦車を見事操ってオイノマオスの圧政を打ち破り、一人娘であるヒッポダメイアの婿となってピサの王位に就いたという、類稀なる幸運と篤い神助に恵まれた男だった。
それゆえに、神界を挙げての寵児というべき存在が働いた『不貞』という行いは、天界の女王にして結婚の女神たるヘラから凄まじい怒りを買ったという。
「我らからあれほどの祝福を受け、正妻であるヒッポダメイアをその腕に抱きながら、外では妾を囲って子までもうけるとは! 結婚の制度を、婚姻の掟を、唯一無二なる配偶者を何だと思っているのですか!
あの裏切り者! 恩知らず! かくなる上は、一族もろとも永劫に呪い続けてやりましょうか!」
オリュンポスの玉座の間。神々の女王のために設えられた豪奢な椅子の上で、ヘラは孔雀の羽根をあしらった扇をへし折らんばかりに握りしめて怒り狂っていた。
その傍ら、神々の王のために据え置かれた椅子に座したゼウスはといえば、非常にばつの悪そうな顔をしている。
なにしろゼウス自身、浮気に関しては天上のどの男神よりも、地上のどの人間よりも前科がある身だ。后の怒気を前に肩身が狭いのも無理からぬことだろう。
「ま、まあ待っておくれ。ヘラよ。人間とはその短き生ゆえに、時には過ちを犯す生き物だ。今は……そう、今はまだ、ペロプスを裁く時ではない。ここはじっと耐えて、機が巡り来るのを待とうではないか」
――といった具合に言葉を濁しつつ、だましだまし妻を宥めるのが関の山である。
仮にも神々の王たる夫の「今ではない」という言葉を聞くたびに、ヘラは不承不承の体で引き下がりつつも、「大神たるあなたの日頃の振舞いこそが、地上の死すべき男たちを増長させるのではないですか」と棘のある言葉を投げかけるのを忘れない。
ゆえにここ十年近く、天界の玉座の間にはまさしく一触即発の重苦しい空気が漂い続けていた。
しかし、その緊迫した日々は、誰もが予想だにしない形で唐突に終着を迎えることとなる。
あるときは神が望むままに、またあるときは気まぐれに、地上の様子を鏡のように映し出す天界の泉。
その日、件の水面に浮かび上がったのは、亡き妾の遺児という立場ゆえの不安と恐怖をいっぱいに抱えながらピサの宮殿に連れてこられた、まだまだいとけないクリュシッポスの怯えきった面差し。そして、妾とその子供を誰よりも憎み恨んでいいはずのヒッポダメイアが見せた、一人の『母』としての慈愛に溢れた行動だった。
――もう心配はいりません。一人で泣く必要もないのです。
――ここは今日から、あなたのもう一つの家になる場所。そしてわたくしもまた、あなたのもう一人の母になりましょう。
嫉妬と憎悪に怒り狂うどころか、幼子と目線を合わせるように膝をつき、寂しさや心細さで震えていたその身を優しく抱擁しながら紡がれた王妃の言葉。
それを耳にした瞬間、ヘラはさながら雷霆に撃たれたかのような凄まじい衝撃を受けた。
ヒッポダメイアが示した深く清らかな愛情と、血の繋がりを超越した『母』と『子』の絆の始まりの尊さに、彼女の美しい瞳からは大粒の涙がどっと溢れ出す。
「……なんて……なんて良い子なのかしら……!! なんて健気で愛情深い子なのかしら……!!
夫の不実を赦すに留まらず、あの幼く哀れな子に『母』としての愛を注ぐだなんて! 地上にこれほど美しく、これほど気高く、これほど優しい家庭の守護者がいるなんて……!!」
ヘラは人目を憚ることなく、幼い少女のようにわんわんと大声をあげて号泣した。
当然ながら、天界の女王の突然の落涙は神々の間に動揺と困惑を広げ、オリュンポスは蜂の巣をつついたような大騒ぎに見舞われた。
「は、母上?! そんなに泣かれて……いったいどうなされたのですか!?」
「誰に泣かされたんだ?! 今すぐ教えてくれ、俺がそいつをぶっ飛ばしてきてやるから!!」
松葉杖をついたヘパイストスがおろおろと歩み寄り、アレスは慌てふためきながらも母を慰めるようにその手を力強く握りしめる。
更にはエリスが「お母様のためなら私たちが力になるわ!」と両の拳を握り締め、エイレイテュイアが「どうかお心を落ち着けてくださいませ……!」と母の背をさすり、ヘベは神酒がなみなみと注がれた杯を差し出しながら「わたしたちはみんな傍にいます、全員がいつだってお母様の味方です」と温かな声をかけた。
更には、その騒ぎを聞きつけたヘラの継子たち――前妻の子であるアテナやホライ、愛人の子であるアポロンとアルテミス、ヘルメスたちが、この気位高き義母のあまりの泣きように大いに戸惑いながらも、ヘラの実子たちの外側に集まりながら彼女を気遣う声をかけ始めた。
「ヘラ様、どうかそれ以上お嘆きにならないでください」
「何かお気に障ることがあったのでしたら、私たちがその憂いの種を取り払えるよう尽力いたしますから」
「さぁ、涙をお拭きになられてください。せっかくの美しいお顔が台無しですよ」
日頃の遠慮も配慮も忘れ、ただ純粋に自分を案じる継子たちの声にヘラは胸打たれ、涙を収めるどころかますます大泣きする始末である。
天上の宮殿の広大なる玉座の間は、神々の女王の涙によって、すわ二度目の大洪水が起こるのかと誰かが案じるほどの有様となったのだった。
やがて、存分に涙を流し終えたヘラは、眦に残る雫をきゅっと拭うと、未だかつてないほど確固たる意志を秘めた瞳で居並ぶ神々を見渡す。
「わたくし、決めましたわ。今ここに、神々の女王ヘラの名において宣言します。
わたくしは何が何でも、あの慈悲深きヒッポダメイアに、地上の死すべき女たちが受けられる限りの最高の祝福を与えます! 彼女の育む家庭には永遠の恩寵を齎し、その血と心を受け継ぐ子々孫々には、彼女の名に恥じない不滅の栄誉を与えます!
――もちろん、異存はありませんわよね? あなた?」
ヘラが決然たる双眸でゼウスを仰ぎ見ると、神々の王はその凄まじい気迫に呑まれかけながらも「む、無論だ」としっかり頷いてみせる。
そうして彼は心密かに、深い安堵をこめて胸を撫で下ろした。
(やれやれ……ともあれ、これ以上、私の過去のあれこれに飛び火することもあるまい……)
かくして、地上の一介の王妃が示した無償の愛は、至高なる天界の女王の心をも溶かし、不死なる神々の総意として『絶対の加護』をその血族に引き寄せることとなったのである。
*
【某日、親愛溢れし宮殿にて】
それから数年の月日が経ち、ピサの宮殿は、ギリシャでも一、二を争うほどに、温かな笑顔と和やかな笑い声に満ちた場所になっていた。
慈悲深き王妃・ヒッポダメイアの母なる愛に包まれて育まれたクリュシッポスは、かつて恐怖も露に宮殿の門をくぐった日が夢だったかのように、心身共に健やかな美少年へと成長を遂げていた。
「クリュシッポス、構えが甘いぞ。その姿勢では戦場に出たが最後だ。敵の剣の一突きでやられてしまう」
そう言ってクリュシッポスの背後に立ち、剣の握り方を教えているのはピサの第一王子、ヒッポダメイアの長男・アトレウスだ。
父ペロプスの英雄としての気風を受け継いだ彼は、生まれながらに戦士の気質を具え持ち、体躯も同年代の青年に比べて頭一つ抜きんでた逞しさを誇っている。異母弟に剣術の手ほどきをする口調は厳しかったが、その瞳には最も幼い弟の行く末を案じ、万が一戦いに巻きこまれたときには身を守れるようにと願う真摯な優しさが満ちていた。
「もう、兄上ってば。そんなに厳しくしなくてもいいんじゃないかな。クリュシッポスは私に似て、武術や馬術や戦車操縦よりも、詩歌や音楽の方に興味があるみたいですから」
そんな言葉を挟みつつ木陰からひらひらと手を振ったのはピサの第二王子、ヒッポダメイアの次男・テュエステスである。
武芸よりも文芸の方に造詣を深めながら育ったこちらの王子は、母ヒッポダメイアの思いやりの心を引き継いでか、家族でも臣民でもその人の望むところを察することができる思慮深い青年に育っていた。時に厳しくなりがちなアトレウスの指南に横槍を入れたのも、腹違いの末弟の根底に息衝く、誰かを傷つけることを厭う優しさを見抜いているからである。
「ふふっ……ありがとう、テュエステス兄上。でも大丈夫だよ。僕はアトレウス兄上のような強い戦士にもなりたいし、テュエステス兄上のような優しい賢者にもなりたいんだ。だから、剣術や馬術の鍛錬も、学問や音楽の勉強も、どちらも頑張っていきたいんだ」
ようやくアトレウスの納得がいく構えを取れたクリュシッポスは、訓練用の木剣を握りしめたまま輝くような笑顔を向けた。
無邪気に兄たちを慕う瞳を向けられては、アトレウスもテュエステスも目元を緩ませずにはいられない。二人の兄はささやかな議論を打ち切り、親愛なる弟に微笑み返すのだった。
私たちの知る神話であれば、この美しい異母弟を妬み、憎み、やがては王位を脅かしかねない存在として命を奪うはずだったアトレウスとテュエステス。彼らの辿る運命もまた、この物語ではまったく異なるものに変化している。
ヒッポダメイアの生んだアトレウスとテュエステスにとって、クリュシッポスは「父の不義の子」「母に対する不実の証」などではなく、「同じ父を持つ兄弟」であり、「力を合わせて守るべき末弟」となっていた。
それは偏に、あの対面の日を前にヒッポダメイアから説き聞かされた言葉が、彼らの心に深く根差していたからだ。
――アトレウス、テュエステス。あの子・クリュシッポスは、あなたたちのもう一人の兄弟です。
――お父様が愛した人の、たった一つの大切な忘れ形見。そしてわたくしが、この家の『母』として守り育むと決めた宝物なのです。
――その強い腕で、あのか弱い弟を支えなさい。その賢い頭で、あの幼い弟を導きなさい。そして、その優しい心で、今日まで心細い思いをしてきたあの子を愛しなさい。
――さすれば我が家は、この世界に存在するどんな呪いをも撥ね退けられるほどに、深く固い結束で結び合わされるのですよ。
ヒッポダメイアの言葉を胸に刻んだアトレウスとテュエステスは、それこそが母の心に適うことならばと、クリュシッポスに対して誠実に向き合い続けた。そしてその結果、同じ父を持つこの三人は互いの長所や美点を尊敬し合い、相手の人柄を慈しみ合える、たいへんに仲睦まじい兄弟になっていたのである。
次代のピサの王座も、彼らの前にあっては争いの種にはなり得ない。彼らは既に「皆でこの国を守り、ここから広がる血脈のすべてを支える」という大望を共有していたからだ。
かくして存分に剣術の鍛錬で汗を流し、合間には木陰で涼みながら書物に目を通し、日が傾き始めた頃を見て宮殿の広間に戻った三人を出迎えたのは、今日の執務を終えたペロプスと、息子たちの汗を拭く亜麻の布を侍女から受け取ったヒッポダメイアだった。
「今日も今日とて、武術にも学問にも熱心に励んでいたようだな。私の息子たちよ」
ペロプスが満足そうに目を細めるのに、アトレウスとテュエステスは照れくさそうに笑って軽く頭を下げる。
クリュシッポスは無邪気にヒッポダメイアの許へと駆け寄り、母が差し出す亜麻布を受け取りながら声を弾ませた。
「母上、母上! 今日はアトレウス兄上に、剣の構えと素振りを見てもらったんです! まだまだアトレウス兄上ほどたくさんの回数は振るえませんでしたけれど、姿勢がとてもきれいだったってテュエステス兄上に褒めてもらいました!」
「まあ、それは素晴らしいわ。……アトレウス、クリュシッポスをよく導いてくれましたね。テュエステスも、あの子のことをよく見ていてくれてありがとう」
ヒッポダメイアは三人の息子たちを等しく見つめ、その頭を順繰りに優しく撫でていった。
彼女の手の温もりも、眼差しの優しさも、クリュシッポスが宮殿にやってきた数年前のあの日から何一つ変わっていない。
ピサの王家を血塗られた系譜に成すはずだった憎悪の苗床は、一人の女性の優しさによって取り払われ、そこには愛の絆という種子が瑞々しい芽を吹いていた。
この三人の王子が、やがてこの神と人とが共に生きるギリシャの歴史に名を刻むとき。そこに悲劇の影はなく、ただただ祝福の光がその行く先を照らし出していくのである。
*
【木洩れ日の下、広がる絆】
時は流れて――ここはミュケナイの宮殿の庭。
そこには「ペロプスの息子を王とせよ」との神託によって王位を継ぐこととなった、かつてのピサ第一王子・アトレウスの息子たちが、いつぞやかのアトレウスとクリュシッポスのように木剣を手に爽やかな汗を流す姿があった。
「いきますよ兄上! 僕の剣、受け止めてみてください!」
元気いっぱいに声を張り上げたかと思えば、素早く地を蹴る勢いのままに鋭い一撃を放ったのは、アトレウスの次男・メネラオスだ。まだ成長途中の少年であるがゆえに力は熟しきっていないものの、小さくすばしっこい身体の強みを生かしたその突きを、アトレウスの長男・アガメムノンは手にした木盾を掲げて真正面から受け止めてみせる。
「見事だよ、メネラオス。だが、もう少し腰を落としてから踏みこめば、腕の力をより多く乗せることができる。さあ、もう一度だ」
「はい!」
いずれはミュケナイの第一王子として父の後を継ぐことになるアガメムノンは、ヒッポダメイアの薫陶を受けて育った偉大な父王アトレウスの厳しくも優しい眼差しに見守られ、父の治世を助ける叔父テュエステスにはきょうだいの長兄としての悩みによくよく耳を傾けてもらい、二人の兄に代わってピサの王位を継いだクリュシッポスからは祖母譲りの慈しみを注がれた、たいへんに将来有望な青年だった。尊敬する父や叔父たちの気高さや誠実さを色濃く受け継いだ彼は、自国の平和と周辺諸国との調和を保ち、愛する家族を守り抜くことを目指して研鑽に励む、誠実で度量の広い若者へと成長していたのである。
そんなアガメムノンが弟メネラオスの鍛錬に付き合っている様子を、木陰の長椅子から温かな眼差しで見守る壮年の男性がいた。彼こそがアガメムノンの尊敬する叔父の一人――兄たちの招待を受け、妻子や両親と共にミュケナイを訪れているピサの国王クリュシッポスだ。
少年の頃の輝きを面影として残しつつ、美しく歳を重ねた彼の周りには、アガメムノンとメネラオスの妹姫アナクシビアや、テュエステスの愛娘ペロピアと愛息アイギストス、そして彼らと同じ年頃のクリュシッポスの子供たちが集まり、彼の物語る古い神話に目を輝かせながら聞き入っていた。
「いいかい、アガメムノン、メネラオス」
存分に木剣を打ち交わして駆け寄ってきた甥たちを、クリュシッポスは他の幼子たちと同じように傍に手招いた。
「お前たちの強さは、誰かを屈服させるためのものではない。私たちがこうして一緒に過ごすことができているのは、ヒッポダメイアおばあさまの御心を継いだアトレウス父上やテュエステス叔父上をはじめ、家族や親族全員が互いを信じ、支え合い、労わり合ってきたからなんだ。そのことを忘れてはならないよ」
「はい、クリュシッポス叔父上!」
アガメムノンとメネラオスは、声を揃えて深く頷いた。
お前たちの父上やテュエステス叔父上をはじめ――と言われたが、二人にとってはクリュシッポスもまた、父たちと同じように心から尊敬する親族の一人だった。
かつてヒッポダメイアがアトレウスとテュエステスに説き聞かせ、彼らがクリュシッポスを弟として慈しむ心を芽生えさせたきっかけの言葉――「強い腕で支え、賢い頭で導き、優しい心で愛すれば、我が家はどんな呪いをも撥ね退ける結束で結び合わされる」という教えは、世代も国も越えた今でもなお、一族の家訓のように息衝いていたのである。
その日の夜、宮殿の大広間では、一族が一堂に会する賑やかな宴が開かれた。
上座に近い席にはアトレウスとテュエステス、クリュシッポスが集まって座り、少年の頃のような仲の良さで葡萄酒を酌み交わしている。
そして、今宵の主賓として上座に招かれ、ひときわ上等な長椅子に並んで腰を下ろすのは、老いてもなお衰えない慈愛の光を湛えたヒッポダメイアとペロプスだった。ピサの先王夫妻は「今日はいとこが勢揃いだね!」と無邪気に笑ってごちそうを囲む孫たちの姿に相好を崩し、それから、互いに顔を見合わせて微笑み合う。
「ペロプス様。今日の宴は、なんと楽しいのでしょう」
「私も同じことを考えていたよ、ヒッポダメイア。これほど美しく、平和な光景を、いまだかつて見たことがあっただろうか」
私たちの知る神話において、ここは、アトレウスとテュエステスがミュケナイの王位を巡って争い合い、後には自分の子供たちをも巻き込んで復讐の刃を突き付け合う舞台となるはずだった場所。
しかし、かつてヒッポダメイアが孤独に震えるクリュシッポスに差し伸べた優しさが、悲劇を呼びこむ運命の輪を止める力となり、呪いの系譜は世界のどこにも見当たらない架空の話となり果てたのである。
*
【愛は絆を幾重にも成し】
爽やかな初夏の風が吹き抜けるミュケナイの宮殿のテラスで、二組の夫婦が円卓を囲んでいた。
「もう、アガメムノンったら。そんなに真面目なお顔ばかりなさらないで。今日から三日間、我が国は楽しい祝祭が開かれるのですから、少しは肩の力を抜いてくださいな」
優しく諭す言葉と共に、ミュケナイ王アガメムノンの杯に極上のワインを注いだのは、彼の后であるクリュタイムネストラだった。王妃に相応しい凛とした気品と風格の中に、家族を思う深い慈愛を豊かに湛えた彼女は、民を思い国を憂いて日々の務めに励む夫の最高の理解者である。
「む……ああ、すまない、クリュタイムネストラ。喜びと祝いに賑わう民の顔を見ればこそ、彼らの輝きを曇らせることのないよう、このミュケナイの平和をより盤石にせねばとつい考えてしまってな。……だが、そうだな。私にはお前や、メネラオスたちがいる。皆が付いていてくれれば、私はどんな難局も恐れはしない」
アガメムノンは差し出された杯ごと妻の手を握り返し、心からの笑みを浮かべた。クリュタイムネストラもまた、安らぎを取り戻した夫の顔にほっとしたような微笑みを返す。
一方、その差し向かいの席では、スパルタ王メネラオスが手ずから林檎の皮を剥き、手際良く切り分けた一切れを傍らの妻に差し出していた。
「さぁヘレネ、今年もミュケナイの夏林檎は最高の出来だそうだ。君がこの国の果実を気に入ってくれて、私も夫として、この国で生まれ育った者として本当に嬉しい。ほら、口を開けてごらん」
「うふふ、ありがとうメネラオス。……もう、あなたったら、何年経ってもわたしを甘やかしてばかりね」
そう――彼女こそが、メネラオスを婿として迎えたスパルタの姫君。地上一の美女との誉れ高き王妃ヘレネだった。彼女は夫の優しさを極上の微笑みを以て受け止めながら、彼の差し出す林檎をさくりと口に収める。途端、ほど良い歯応えと共に口内に広がる甘酸っぱさに、彼女は無邪気な少女のように瞳を輝かせた。
「わたくしもアガメムノンに誰より愛されている自負はあるけれど、ヘレネの様子を見ていると、メネラオス様の普段の溺愛ぶりが目に浮かぶようだわ」
「そうなのよお姉様。随分前にトロイアのパリス様が使者として訪れたときなんて、メネラオスったら夜を徹してわたしの自慢話ばかりしていたそうなのよ。……まあ、そのパリス様もすっかり乗せられて、オイノネ様がいかに素晴らしい奥様かを話すだけ話していかれたらしいけれど」
給仕を務めていた侍女から伝え聞いたという懐かしい夜の出来事を、ヘレネは姉夫婦に対して心底おかしそうに語ってみせた。終いには愛妻家という共通項から友情が芽生え、夜が明ける頃には固い握手を交わし合ったという弟と異国の王子の喜劇じみた一幕に、アガメムノンとクリュタイムネストラも声をあげて笑い出す。
「わたくしたちは、本当に幸せね」
「ええ、とっても幸せだわ」
笑いを収めてもなお微笑みを残したまま、クリュタイムネストラとヘレネが顔を見合わせた。
兄弟姉妹水入らずの時間を過ごすテラスの向こう。ミュケナイの宮殿が誇る美しい庭では、アガメムノンとメネラオスの父アトレウス、叔父であるテュエステスとクリュシッポスが、先頃生まれたばかりのアガメムノンとクリュタイムネストラの孫――彼らの次女エレクトラが父方の従兄にあたるポキスの王子・ピュラデスに嫁いで産んだ息子を、代わる代わる抱き上げてあやす姿があった。
アガメムノンたちの妹を介してペロプスの血を伝えたポキスの次代を担う赤子は、歳を重ねるごとに優しさに磨きをかける彼ら兄弟の父や叔父の腕の中、今はすやすやと健やかな寝息を立てている。
「すべては、私たちの祖母・ヒッポダメイア様が父上たちに伝えてくださった愛のおかげだ」
今の幸福をしみじみと噛みしめるようにアガメムノンが言えば、メネラオスも穏やかな眼差しで深く頷いてみせる。
罷り間違えば呪いじみた宿怨によって引き裂かれるはずだった一族は、今やギリシャで一、二を競うほどに強固で温かな絆の象徴となっていた。結婚から時を経ても睦まじい二組の夫婦の語らいは、夜が更け、星々がまたたき始めてもなお、途切れることなく続いていくのだった。
*
そして、その翌日。ミュケナイの宮殿は、一族の歴史において最も輝かしい光に包まれていた。
アガメムノンとクリュタイムネストラの息子、ミュケナイ王子オレステス。メネラオスとヘレネの娘、スパルタ王女ヘルミオネ。従兄妹として、幼馴染として、そして婚約者として、ペロプスの一族の深い愛の中でまっすぐに育った二人の結婚式が、女神の祝福を映し出したかのような晴天の下で執り行われたのである。
親兄弟をはじめとする親族一同の温かな笑顔と優しい涙と、割れんばかりの拍手と歓声の中で、壮麗な婚礼衣装に身を包んだ若き二人は、生涯を共にする誓いを厳かに交わし合う。
「ヘルミオネ。これからは僕が、いつでも君の心に寄り添おう。君の喜びは僕の喜びで、君の悲しみは僕の悲しみだ」
「オレステス……わたしは、世界で一番の幸せ者だわ。だってわたしはこれから、あなたの優しさに守られて生きられるのだから」
交わされる視線にも言葉にも、憂いや迷いは微塵もない。ただただ、伴侶に対する純粋な愛と信頼が満ち溢れていた。
そんな二人に対して、いちだんと深い祝福をこめて拍手を送る若い夫婦の姿があった。オレステスの次姉エレクトラと、彼女の夫ピュラデス――彼ら姉弟の父方の従兄であり、オレステスにとっては幼い頃からの親友でもあるポキスの王子だ。
そしてその隣で、二人の間に生まれたばかりの幼子を優しく抱擁するのが、オレステスとエレクトラの姉・イピゲネイアだった。一族の祖ペロプスとヒッポダメイアの代から齎される神の祝福に深く感じ入った彼女は、幼い頃よりミュケナイの神殿に巫女として仕え、その高潔な姿勢と祖母譲りの慈愛に満ちた精神を神々に愛され、天の奇跡に通じるさまざまな知識や技芸を授かった。先頃のエレクトラの出産においても、安産を恵む出産の女神としての相を持つアルテミスから学んだ助産の業を活かし、妹夫婦の助産師としての役を見事果たしたばかりだ。
そうして生を享けた甥ストロピオスの柔らかな手の平を指先でくすぐってあやしながら、イピゲネイアは立派に成長した弟と従妹の姿に目を細める。
「この子を見ていると、小さかった頃のオレステスをよく思い出すわ。それが今ではこんなに立派になって……」
「ええ、お姉様。きっとあの子たちも、これまでも……そしてこれからも幸せであり続けるでしょう。二人の笑顔を見ていると、そう確信できるの」
「今日からは夫婦になるあの二人も、遡れば私とエレクトラのように、従兄妹同士で、仲の良い幼馴染で……そこから婚約の話が持ち上がったんだったね。
……たくさんの愛の縁に束ねられた上で、更により強い絆で結ばれる。これが幸せにならないはずがないな」
両親と伯母の会話に同意するように、ストロピオスも小さな手を伸ばして愛らしい笑い声をあげた。ピュラデスもエレクトラも、イピゲネイアも、一族の幸福を言祝ぐような赤子の声になおのこと顔を綻ばせる。
新郎新婦の両親として上座に腰かけたアガメムノンとクリュタイムネストラ、メネラオスとヘレネは、立派に成長した己の子供たちの晴れ姿を眩しげに、そしてこの上なく愛おしそうに見守っていた。
「見よ、クリュタイムネストラ。我が家の愛、我が一族の絆は、こうして次の世代へと繋がっていくのだな」
「ええ、あなた。今日この日を迎えて、改めて確信できましたわ。わたくしたちは、これほどまでに大きな幸福に包まれていたのですね」
宮殿の窓から差し込む陽光は、この場に集うすべての人々の心までもを黄金色に染め上げている。
かつて彼らの祖たるヒッポダメイアの胸に熾った慈愛の灯火のような、誰もが心を解かずにはいられない温かな光。そしてそれは今や、いくつもの王家に枝分かれした血縁という名の大樹をとこしえに育み続ける、かけがえのない輝きとなっていたのだった。
*
【愛の灯火は、時を越えて】
ミュケナイの王子とスパルタの王女の結婚。その慶事に伴い執り行われた祝祭の賑わいも落ち着いた、温かく穏やかな黄昏時のことだった。
宮殿の広間に設えられたふかふかの長椅子で、此度結び合わされた二つの王家の祖として子や孫に――そして、彼らがもうけた子供たちに尽きせぬ慈愛を注ぎ続けたヒッポダメイアは、己の末裔の一人であるストロピオスを自らの膝の上に抱いて過ごしていた。
「ふふ……こんなに小さくて、温かくて……可愛くて……。
本来、生命とは、そういうものだと……あなたは改めて、わたくしに教えてくれるのね」
色こそすっかり真白くなり果てたものの、若き日のつややかな美しさは微塵も衰えない髪を揺らしながら、ヒッポダメイアは小さな玄孫の顔を慈愛溢れる眼差しで覗きこむ。
ストロピオスは頬をくすぐる長い髪にくすぐったそうに笑いながらも、そっと差し出された高祖母の指をぎゅっと握り返した。その幼い温もりは、かつてピサの宮殿で孤独に震えていたクリュシッポスの手を包みこんだ日の思い出へと、彼女の意識を優しい波のように運び出していく。
「……あなたも……あなたに続く、すべての子たちも……なんて愛おしいのでしょう……」
最愛の夫ペロプス。血を分けた愛息アトレウスとテュエステス、血の繋がりなき愛児クリュシッポス。誇らしく成長した愛すべき孫アガメムノンとメネラオス、愛に満ちた系譜を繋いでくれた曾孫エレクトラ、小さな身体と心のすべてで愛しさを与えてくれた玄孫ストロピオス――愛する者たちは数えきれないほど。
誰もが憎むことではなく愛することを語り、道を分かつことではなく絆を繋ぎ合わせることを選んで生きてくれた。一人一人の顔が脳裏に浮かんでは、生命の鼓動を刻む胸の深奥を温もりで満たしていく。
「わたくしは……本当に、幸せでした……」
愛する家族の笑顔の面影に包まれながら、愛しい末裔の手の温かさに安らいだまま、ヒッポダメイアは静かに瞼を下ろす。
そうして、彼女の呼吸と鼓動が穏やかに静止したとき。そこには、痛みの影も苦しみの色もなかった。
すべての役目を喜びのうちに全うし終えたかのような――あるいは、幸せな夢を見て眠りについているかのような満ち足りた微笑みだけが、その尊く美しい顔に残されていた。
「――母上……? !! 母上っ!」
「お祖母様……!」
異変に気づいたアトレウスとテュエステス、クリュシッポスやアガメムノンたちが慌てて駆け寄り、――しばしの後、宮殿は深い涙の幕の内に包まれた。
しかし、それは悲しみの涙でこそあれ、絶望の涙では決してない。彼女が遺した計り知れないほど大きな愛へと捧げられる、強い感謝と深い敬意をこめた、それはそれは美しい涙たちだった。
*
――そして。
天上の神々に愛されるほどの高徳と、地上の人々に敬されてやまない慈愛に満ちたヒッポダメイアの魂は、冥界の西の端、地上と地下とが果てる処に広がる楽園・エリュシオンに送り届けられた。
常春の明るさと温かさが保たれ、心地良いそよ風が吹き、美しい花々が咲き誇り、甘美な果実がたわわに実る、いっさいの苦痛も悲哀もない至福の野。かの地でヒッポダメイアを迎えたのは、彼女が会いたいと切望していた二人の人だった。
「ヒッポダメイア、待っていたよ」
「ペロプス様……!」
驚きと喜びと共に駆け寄った彼女を抱きしめて迎えたのは、名残惜しくも数年前に先立っていた夫・ペロプス。
そして、彼らから少し離れたところに佇むのは、生前の彼女がついぞ会うことの叶わなかったクリュシッポスの生母・アクシオケだった。
数年ぶりに包まれた夫の腕の中で顔を上げたヒッポダメイアは、曇りのない笑顔で夫婦の再会を見守るアクシオケの眼差しに、万感の思いをこめた涙を流す。
「……あなたが、アクシオケさま……やっと……やっと、お会いできましたね」
「はい、ヒッポダメイア様。わたしの愛するあの子を、あんなにも立派に……愛をこめて育ててくださって、本当にありがとうございました」
かつてヒッポダメイアがそう望んだ通りに。ペロプスの愛した女性たちは、死者との再会という奇跡が叶う野原で、手に手を取り合って微笑み交わした。
エリュシオンに湧き出でる澄んだ泉の面には、地上で愛と繁栄の血脈を広げる彼らの子孫の姿が映し出されている。
アトレウスもテュエステスも、クリュシッポスも、アガメムノンもメネラオスも、エレクトラもオレステスも、ストロピオスも。誰一人として憎しみや悲しみに狂うことなく、互いを支え合い、慈しみ合って、今もなお幸福に暮らしていた。
「わたくしの愛しい子たち……旅立つときには悲しませてしまったけれど、きっともう大丈夫ですね」
ペロプスの肩に寄り添い、アクシオケと手を繋ぎながら、ヒッポダメイアは地上の子孫の輝かしい未来を信じて微笑んだ。
一人の女性の優しさによって、一つの呪いの種が潰えることとなったギリシャ神話の世界。
そこに満ち溢れた祝福の光は、至福の野から注がれる彼女の温かな眼差しに乗せて、その血と心を受け継ぐ子たちの未来をいつまでも優しく照らし続けていくのだった。




