↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
91/106

叶の朝


 夏は猛暑日も珍しくない稲守市だが、紅葉が散る頃には布団から中々出られない日々が続く。


 ピピピピッ! と目覚ましが鳴る午前五時三十分。

 顔の半分ほどまで被った布団から、叶はもぞもぞと手を伸ばした。


「ん……んん……」


 手探りで目覚ましのアラームを止める。

 静かになった部屋で、一度布団をさらに深く被った。


 あと五分。

 そう思ったものの、その五分が十分、十五分に変わっていくのは世の常だ。

 

 ……よし。


 十秒ほどの葛藤の末、叶はなんとか起き上がる。

 目を擦りながら、ベッドから足を下ろした。


 4LDKの柚木家の朝は恐ろしいほど静かだ。


 誰かが階段を下りる音もなければ、台所から朝食を作る音が聞こえてくることもない。

 テレビだって、叶が点けなければ一日中黙ったままだ。


 それもそのはず。

 この家に暮らしているのは、叶ただ一人だからだ。


「さむ……」


 ぽつりと漏らした声が、やけに大きく聞こえる。

 叶は立ち上がって、カーテンを開けた。

 

 まだ薄暗い窓の向こうには、新の部屋の窓が見える。

 もちろんまだ起きていないだろう。

 カーテンは閉め切っていて、なにかが動く様子も見えない。


 それでも、突然カーテンが開いて新と目が合って……。


 そんなことを思っていると、窓にボサボサ頭でパジャマ姿の自分が映った。


 ……こんな格好、見せられないや。


 叶は部屋を出て、洗面所へ向かう。

 顔を洗って、歯を磨き、髪を梳かす。

 一度部屋に戻って制服に着替えると、慣れた手つきで藍色の髪を後ろで束ねた。


 姿鏡で頭を左右に回して確認する。

 問題がないと判断したところで、再び部屋を出て階段を下りた。


 叶には毎朝欠かさず行っていることがある。

 それは居間にある仏壇に手を合わせて両親に挨拶をすることだ。


 仏壇の前で膝をついて、線香に火をつける。

 りん棒を手に取って、御鈴を鳴らす。

 澄んだ音が静かな家中に響き渡ると、叶は手を合わせて目を瞑った。


 お父さん、お母さん、おはよう。

 今日は一段と寒くなったよ。

 そっちはどう?


 叶は目を閉じたまま、ほんの少しだけ口元を緩める。


 今日も新の家に行ってくるね。

 新と紬ちゃんも、怪我が治ってよかった……。

 紬ちゃんはあれ以来、私がいても新に甘えるようになったの。嬉しいような……羨ましいような……そんな複雑な気分。


 線香の煙が、ゆらりと漂う。

 叶の中で両親の声が聞こえた気がした。


『叶も負けてられないね』


 もちろん、本当に聞こえたわけではない。

 それでも二人ならそう言ってくれる気がした。


「……そうだね。私も頑張る」


 叶は目を開く。

 仏壇には一枚の写真が置いてある。

 映っているのは、幸せそうに微笑む両親だ。


 叶と同じ藍色の髪をした母親と、目元がよく似ていると言われた父親。

 叶も写真の二人に微笑み返すと、立ち上がって自室へ戻った。


 朝のルーティンはこれだけでは終わらない。

 時刻は六時。徒歩二十分圏内の学校へ向かうにも、隣の新の家に行くにも、まだ早すぎる時間だ。


 しかし叶のやることは決まっている。

 机に座って、鞄から参考書とノートを取り出し、広げた。

 

 朝の一時間は勉強に使う。

 これも、中学生の頃からほとんど欠かしたことのない習慣だった。


「今日は……数学かな」


 ノートにシャープペンを走らせる。

 カリカリと紙を擦る音が、静かな部屋に響いた。


 決して勉強が好きなわけではない。

 難しい問題に頭を抱えることもあれば、今日は休んでしまおうかと思う日だってある。


 それでも続けている。

 それができたからこそ、難関の瑞穂学園に合格し、新と共に学生生活を過ごせているのだ。


「んー!」

 

 問題の途中で身体をぐっと伸ばしたその時、ふと部屋の棚に置いてあった数枚の写真立てに目が留まる。


 幼い頃の新と叶の写真。

 両親と遊園地に行った時の写真。

 中学生の頃、稲守祭で綿飴を食べる叶と紬。

 瑞穂祭で着た和服姿の叶と御言。


 どれも叶の心を満たしてくれる大切な想い出だ。

 そして、その写真達に囲まれるようにして、もう一つだけ大切に飾られているものがある。


 それは小さな透明の額縁の中に収められたカタバミだった。

 かつて鮮やかだった黄色の花弁は、今ではやわらかな飴色に変わり、ほんの少し傷みが見える。


 けれどどんなにくたびれようと、捨てる気はない。

 幼い頃に新からもらった、叶にとって何にも代えがたい宝物だからだ。


 あの花を見るたびに胸がきゅっと、くすぐったくなる。

 少し弾んだ心は叶の視線を、机の上に置かれた卓上カレンダーへ向けた。


 今は十一月。

 叶は卓上カレンダーの端に指をかけると、紙をつまんで一枚めくった。


 十二月。

 その中で、二十五日だけが赤いサインペンで囲まれている。


 その日は叶の誕生日だ。

 だが、生まれてこの方、自分の誕生日に印などつけたことはない。


 ただ今年は別だ。

 なぜなら……新と二人きりで過ごせる。

 叶にとっては何よりも待ち遠しい一日だったからだ。

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。