お姉様
時は少し戻り、ミーティングルームを飛び出した紬は叶と共に廊下を歩いていた。
「落ち着いた? 紬ちゃん」
「はい……すいません叶お姉様、迷惑をかけて……」
「迷惑なんかじゃないよ。ミーティングルームから紬ちゃんが泣きながら飛び出してきた時は驚いたけどね」
「見苦しいところを……でも、もう大丈夫です」
紬は嘘をついた。
まったくもって大丈夫ではない。
胸の内はこれ以上ないほど苦しく、今まで以上に新の顔が頭から離れなかった。
「お兄様は……私を嫌いになってしまったのでしょうか……」
ぽつりと呟くと、叶は視線を下げて答えた。
「今、御言が事情を聞いてると思うから、すぐにわかると思うけど……私は新が紬ちゃんのことを嫌いになるとは思えないな」
「もしそうだとしたら、どうしてお兄様はいきなり私を遠ざけようとしているのでしょうか……」
「きっと、新なりの理由があるんだよ」
「……だとしても、私は耐えられません」
収まったはずの涙が再び目頭に溜まる。
——紬はそろそろ、兄離れしないとな。
今朝の新の言葉が、何度も脳裏をよぎっていた。
「叶お姉様」
「なに?」
「私はお兄様のことが、世界で一番大好きです」
「うん、知ってる」
「叶お姉様もそうでしょう?」
「え……えぇ!?」
唐突な問いに、叶の声が裏返った。
「ど、どうして急にそんなことを聞くの!?」
「違いましたか?」
「ち、違わないけど……バレてたか……」
「長い付き合いですもの……当然ですよ」
視線を少し下げたまま、紬は立ち止まる。
叶も数歩先で足を止めて、振り返った。
「紬ちゃん?」
「……叶お姉様が羨ましいです」
「私を?」
「はい、私がお兄様に抱く感情は叶お姉様とまったく同種のものです。でも、世の中はそれを良しとしません」
兄と妹だから。
たったそれだけの理由で、紬の想いは世間から間違ったものとして扱われる。
叶が新を好きだと言えば、きっと誰も咎めない。
二人が手を繋いでも、抱きしめ合っても、その先へ進んだとしても、それは恋人同士なら当たり前のこととして受け入れられる。
けれど、自分は違う。
兄の隣にいたいと願うことすら、良く思われないことがある。
「私がお兄様の幼馴染なら……良かったのにと何度も思ったことがあります」
「……私は紬ちゃんが羨ましいなって思ったこと、何度もあるよ」
「え? どうしてですか?」
全く見当のつかない紬に、叶は手を背後で組んで答えた。
「紬ちゃんが言ったように、私は新が好き。ほんとはもっとくっつきたいし、傍にいたい。新の一番の存在になりたいけど、今の関係が壊れるのが怖くて、ずっと踏み出せないまま。だから、好きな人のために全力になれる紬ちゃんが羨ましいって、凄いなって……本気で思うんだ」
叶はなにかを懐かしむように、笑みを浮かべた。
「紬ちゃんが幼稚園の頃、将来の夢は「お兄ちゃんのお嫁さん」って発表したのを覚えてる?」
「はい……でも、幼稚園の頃の夢なんて……誰が本気だと……」
「少なくとも、私は紬ちゃんが本気だと思ったよ。小さい時に新が夢中になってたドラマのヒロインが凄いお嬢様キャラで、その人に近づこうと慣れない言葉遣いを練習したり、苦手な料理を一生懸命練習したり……全部全部、新にとって理想の女の子になるため頑張ってきた紬ちゃんを、ずっと見てきた」
紬は言葉を失った。
全て叶の言う通りだったからだ。
「どうして……知ってるのですか? お兄様にも言ったことないのに……」
「私は、紬ちゃんのお姉様だからかな」
笑みを悪戯っぽいものに変えた叶を見て、紬の胸には込み上げるものがあった。
柚木叶。
彼女を姉と呼ぶようになったのはいつかだろう。
それすらも思い出せないほど、付き合いは長い。
尊敬する女性を挙げるとすれば、真っ先に彼女の顔が浮かぶ。
決して口には出さないが、これまで叶は紬にとって唯一、母親以外に最愛の兄の隣にいることを許せる女性だった。
「叶お姉様は……本当に強敵ですね」
紬は呟くと、叶は頬を掻いた。
「私だけじゃないよ。最近はもう一人、ライバルが増えたから」
頭の中に、銀髪を揺らす笑顔の彼女が浮かぶ。
あの距離の近さ。新へ向ける眼差し。
あれがただ婚約者を演じているだけだと思えるほど、紬は鈍くない。
本来なら由々しき事態だ。
でも御言が新の隣で笑っていても、不思議と嫌ではなかった。
もちろん嫉妬しないわけではない。
新に抱きつけば腹も立つし、必要以上に距離が近ければ引き剥がしたくもなる。
それでも、出会ってまだ数ヶ月だというのに、紬にとって稲荷坂御言が叶に近しい存在になっているのも事実だ。
「……本当に、困った方です」
「御言が?」
「はい、叶お姉様だけでも十分手強いというのに、どうしてまたあんな方まで現れるのでしょうか」
「あはは……新は天然の女ったらしだからね」
「笑い事ではありません」
紬が小さくため息をつくと、叶は再び紬の隣に並んだ。
「じゃあ、御言が新に抱き着く前に止めに行く?」
「……そうですね」
紬は僅かに口元を緩めた。
「お兄様にも、一言申し上げたいことがありますから」
「一言で済む?」
「……善処します」
「絶対済まないやつだ」
叶が苦笑すると、二人は再び歩き出す。
胸の痛みが消えたわけではない。
今朝の言葉を思い出せば、今でも泣きたくなる。
それでも、絶対に納得はできない。
嫌われたのなら、理由を聞く。
遠ざけられるのなら、その理由を知る。
でも絶対、兄の傍からは離れない。
離れてやるもんか。
紬がそう思った、その時だった。
「――きゃああああっ!」
突然、廊下の奥から甲高い悲鳴が響き渡った。




