膨らんだ想いは、別れの準備へ
交流研修会二日目の朝。
昨日と同じような澄んだ空気の中、少し早めに目を覚ました新は、宿泊施設の付近を一人で歩いていた。
別に、朝の散歩がしたかったわけではない。
昨夜からあまり眠れず、落ち着かなかっただけだ。
「どーすっかな……」
白い息を吐きながら、足元に転がる小石を軽く蹴った。
昨夜からずっと、同じことを考えている。
自分がいなくなった後のことを。
叶はどうするのだろう。
紬は。
父や母や、智也達は。
考え始めれば始めるほど、知っている顔が次々と頭に浮かんでくる。
皆になんと言えばわかってくれるだろうか。
来年の夏、俺はいなくなる。
そんなことを突然告げて、納得してもらえるはずがない。
じゃあどうする?
そこで思考が止まるのをずっと繰り返していた。
新はもう一度、小石を蹴る。
このまま何も言わないままでいいとも思えない。
何も知らないまま、ある日突然自分がいなくなる。
それではあまりにも無責任だ。
けれど今伝えて、仮に信じてもらえたとしても。
きっと、それから先の日々を純粋に楽しめなくなる。
クリスマスに修学旅行、そして最後の夏休みもだ。
一緒に過ごすたびにあと何日、と数えさせることになる。
ならば、御言に頼って最後の日までのうのうと暮らすのか……。
それでは、やはり気が済まない。
「……はぁ」
大きく溜め息をついた新は、昨夜勇と言葉を交わしたベンチに腰掛ける。
すると、背後から声が掛けられた。
「お兄様」
すぐさま振り返る。
だが、その呼び方で振り返らずとも誰かはわかっていた。
「紬、おはよう」
「おはようございます」
「紬こそ、どうしたんだ?」
「起きて窓の外を見たら、お兄様がいたので」
紬は新の左隣に腰を下ろす。
だが、服装は明らかに気温と合っていない。きっと新を見つけるや否や急いで出てきたのだろう。
「まったく、風邪ひくぞ」
新は上着を脱ぎ、紬の肩にかける。
紬は嬉しそうに目を細めると、肩に掛けられた上着の襟元をそっと手繰り寄せた。
「お兄様の香りがします……」
「俺の匂いなんて、たいしていいもんじゃないだろ」
「そんなことありません。どんな時も私を安心させてくれる、世界で一番好きな香りです」
紬はもう一度上着の襟元へ顔を寄せる。
その表情は、見ているこちらまで頬が緩みそうなほど幸せそうだ。
それも来年の今頃は消えてしまっているのだろうか。
「この香りがあれば、お兄様がすぐそばにいるみたいで安心します」
「……そうか」
小さく答えた新の頭に、先ほどまで考えていたことが再びよぎった。
来年の夏が終われば、ここまで自分を想ってくれている可愛い妹に残るのは、こんな上着や自分が使っていた物くらいだ。
今は幸せそうに頬を寄せているその香りも、いつかは薄れて消えてしまうだろう。
「お兄様? どうしたのですか?」
「え?」
先ほどまで幸せそうにしていた紬は、新を心配そうに見つめていた。
「何か元気がないように見えたので……紬に話してください。兄妹に隠し事はなしですよ」
紬は両手で新の左手を包んだ。
「紬はなにがあろうとお兄様の味方です。お兄様がそばで笑ってくれれば、紬はどんなことでも頑張れますから」
包み込まれた左手の温もりが心地良い。
なのに胸の奥はきゅっと苦しくて、冷たかった。
……きっとこのまま、紬が俺を第一に考えたままなら、俺がいなくなった時には、これとは比べものにならないほど苦しい思いを……。
なら、紬が俺以外の支えを見つけられるようにするのも……俺の役目なのかもしれない。
——そうだ。これは大切な者の前から消える俺の責務だ。
「……なぁ紬」
「なんですか?」
「紬はそろそろ兄離れしたほうがいいかもな」
返事はすぐに返ってこない。
言葉よりも先に、新の左手がさらに強く、ぎゅっと握られた。
「……どうして、そんなこと言うの?」
か細く、震えた声が聞こえると、新は紬を見た。
信じられないといった様子で、目を見開いた妹の顔はショックを隠せずにいた。
「紬、お前は一人の人間として本当に立派だと思う。だからこそ、俺なんかに縛られないでもっと他の——」
「嫌っ!」
静かな朝に鋭い声が響いた。
「どうしていきなりそんなことを言うの!? そんなこと、紬が知ってるお兄ちゃんは言わないよ!」
「紬、お前も高校生になったんだ。俺ばかり見てないで、もっと周りを——」
「やめてっ!」
紬は身体を新に向け、逃すまいと腕にしがみついた。
「お兄ちゃん、紬、確かに最近はあまり構ってもらえなくて寂しかったから、少し意地が悪かったかもしれない! そのことで怒ったなら謝るから!」
「違う……違うんだ紬……」
「嫌だ嫌だ! 今日はこのまま家に帰ろ? お兄ちゃんの好物たくさん作るから……」
駄々をこねる幼子のように我を忘れた紬の瞳には涙が溜まっている。
彼女の言葉、仕草、表情全てが新の心をぎゅっと締め付けていた。
そんな紬に、返す言葉はすぐ思い浮かんだ。
俺が悪かった。紬の好きにしていい。
俺は紬のそばにいる。
そう伝えれば紬は安心するだろう。
だが、その言葉はどうしても声にならない。
いや、声にならないんじゃなくて、口にしてはいけないのだ。
「紬……」
新は自分の腕にしがみつく紬の手を取り、ゆっくりと引き離した。
「もう戻ろう、風邪ひくぞ」
新は立ち上がり、紬に背を向ける。
すると、背後から紬が服の裾を掴んだ。
「待ってお兄ちゃん! 紬、嫌だよ!」
「……この話は一旦終わりだ。離してくれ」
「嫌だ! 今の言葉を撤回するまで離さな——」
「——いい加減しろ!」
自分でも驚くほど強い声が出た。
背後が、しんと静まり返る。
「……ご、ごめんなさい」
消え入りそうな声と共に服の裾を掴んでいた手が離れると、新は歩き出す。
振り返って謝りたかった。
泣いているであろう妹を、今すぐ抱きしめたかった。
それでも振り返らず、紬から距離を取っていく。
「お兄ちゃん……待って……」
縋るような声を背中に受け、胸の奥が締め付けられる。
でも紬はもっと苦しいはずだ。
自分だけがこの苦しみから逃げるわけにはいかない。
「お兄ちゃん……お願い……」
今はこのまま振り返らず、背を向け続けろ。
この苦しみを受け続ければ、きっと紬は自分がいなくても大丈夫なくらいの支えを見つけるはずだ。
そう思わなければ、足を止めてしまいそうだった。




