時間は刻一刻と
夕食を終えた新は、一人旅館の外へ出ていた。
「……さむっ」
昼間はそれほど気にならなかった冷気も、陽が落ちると一気に肌へ染み込んでくる。
新は羽織ってきた上着のポケットに両手を突っ込む。
口からは僅かに白い息が出た。
別に散歩がしたかったわけではない。
夕食の間、水瀬や白石に質問攻めにされて、その度に叶や御言、果ては紬の顔色を伺いながら答えたため、少し一人の時間が欲しかった。
「交流が目的なのに……」
ぼやきながら、宿泊施設前の庭を適当に歩く。
敷地内には等間隔に小さな照明が並び、その淡い光に紅葉した木々がぼんやりと照らされている。
まぁ……新しい交流なんて、俺には必要ないのかもな。
何気なく立ち止まって紅葉を見上げた新がそんなことを考えた時だった。
「新君」
背後から聞き覚えのある男性の声が新を呼ぶ。
振り返ると、そこには青潟勇が立っていた。
「青潟さん? どうしてここに?」
「このイベントはうちが出資させてもらってね、少し見物に来たんだ」
「なるほど、大きなスポンサーって青潟さんだったんですね」
「まあ、そんなところだ」
勇は庭に置かれたベンチに腰かけた。
「よかったら少し話さないか?」
「俺でよければ」
新が隣に腰掛けると、勇はおもむろに口を開いた。
「最近、調子はどうだ?」
「おかげさまで充実していますよ」
「なら良かった。この企画はうちの会社から各学校に持ちかけたものなんだ。今は技術が発達して、どこにいても万国の人々と連絡がとれる。だが、こうして顔を合わせて言葉を交わす機会は昔より減っているように思えてね。画面やスマホ越しではなく、実際に相手の顔を見て、声を聞いて、同じ時間を過ごす。そこからしか得られないものがあると私は考えているんだ」
「まだ十数年しか生きてない俺が言うのもあれですけど、同感です」
「むしろその年の君が同じ考えを持ってくれるのは、私としても嬉しいな。学生時代という限られた時間は貴重だったと歳を重ねるほどに痛感するよ。今では昔の馴染みと顔を合わせることもめっきり少なくなってしまった」
どこか寂しげに呟いた勇は、夜空を見上げた。
「時間というものは残酷だ。それまで当たり前だったものが、傍を離れてから初めて、どれだけ貴重だったのか気づかせる」
「……そうですね」
その言葉は、新の胸の内へ深く染み込んだ。
そう、時間は残酷だ。
ましてや、自分には終わりの時がわかっている。
これから葉が落ち、冬が来る。
年をまたげば、またこの森も新緑に覆われるだろう。
そして、次の夏が終われば叶や紬、両親や智也達と過ごす時間も終わる。
わかっていたことだ。
季節が一つ進むたび、その時が近づいていることを嫌でも実感させられる。
一度目の人生で新が死んだ後、紬はその後を追い、叶も心を壊した末に自ら命を絶った。
そんな悲惨な未来を変えるため、御言がこの時間を与えてくれた。
だが、自分がいなくなるという結果だけは変わらない。
御言は言っていた。「二人のことは私がなんとかするから、新はそのまま過ごしていて」と。
けれど、本当にそれでいいのだろうか。
御言にすべてを押しつけ、自分だけが残された時間を何も変わらず過ごしていいのだろうか。
徐々になんとも言い表せない感情が、膝の上で拳を握らせた。
「新君?」
「え? あ、すみません。ちょっと考え事を……」
勇は一度、新の握られた拳へ目を落とした。
「悩みごとかい? 私でよければ聞くが」
「いえ、大丈夫です。まだ自分の中でも整理できてなくて……」
「整理できていたら、悩みとは呼ばない。まぁ無理にとは言わないが」
勇はポケットからスマートフォンを取り出した。
「私も君くらいの頃には色々と悩んだものだよ。もっとも、私の場合は恋という浮ついたものだったがね」
スマートフォンの画面を眺めながら、勇の目元が和らぐ。
画面になにが映されているのか、新の目にも入り込む。
柔らかな表情をした若い男性と女性の写真だ。
男の方は勇だろう。今新の目の前にいる本人の面影がある。
会話の内容と、彼の表情を見れば女性は誰なのか、すぐに察することができた。
「もしかして、奥さんですか?」
「ああ。青潟麻子……素敵な人だった」
「だったってことは……」
「十年前に事故でね」
新は言葉に詰まる。
勇は画面の中の妻を見つめたまま続けた。
「麻子は私にとって太陽のような、なくてはならない人だった。彼女が亡くなった当時は後を追うことも考えるほどにね」
その言葉に新は目を見開いた。
この人は叶や紬と同じように、残された側なのだと。
「……辛いことを思い出させますが、どうやったら乗り越えたんですか?」
「乗り越えた?」
勇は鼻で笑った。
「乗り越えてなどいない。今でも毎日、麻子の笑顔や過ごした時間を思い出す。きっと私は死ぬまで、呪いのように彼女との時間に縛られ続けるんだろう」
「死ぬまでですか?」
「あぁ。時間がこの傷を癒してくれるなど、私は信じていない」
勇が言葉を紡ぐたび、新の胸がぎゅっと締め付けられていく。
まるで自分に言われているようにすら感じた。
お前が消えたあとは、少なくとも数人が目の前の男と同じ傷を抱えたまま生きていくのかもしれないのだと。
「時に新君、君はこの街の隠された伝承を知っているかい?」
「隠された伝承?」
「そうだ。この土地の神は、この世に起きた出来事そのものを書き替える力があったらしい。望まぬ未来を回避するため、過去へ戻って歴史を作り直す。もちろん御伽話だが、大切な人間を失うと、そんな話にすら縋りたくなる時がある」
新の胸がどくりと跳ねた。
初耳だが、決して御伽話などではない。
自分自身が、その力によってここにいる。
しかし、それを勇へ話すことはできない。
口にすればきっと目の前の男は、妻に会うためにその方法を必死に探すだろう。
そうなれば御言に迷惑がかかる。
しばしの沈黙が流れる。
やがて勇はスマートフォンをポケットへしまい、ベンチから立ち上がった。
「ほとんど私の独り言になってしまったな……身体も冷えてきた。そろそろ戻ろうか」
「いえいえ、俺も色々と考えるきっかけになりました」
新も立ち上がる。
施設に戻ろうとした青潟が新に背を向ける。
だが歩を進めるまえに、背中越しに新に語りかけた。
「最後に、少しだけ続きを話させてくれ。……たまに思うんだ。人生には必ず別れがあり、早いか遅いか、その違いしかない。だからもし、自分を大切に思ってくれる人を残して遠くへ行かなければならないのなら、その人が、自分がいなくなった後も前を向いて生きていけるように。今のうちに、できることをしておくべきなのかもしれないとな」
「……それはいずれ来るその時がわかっても、わからなくてもですか?」
「ああ。失ってからでは、どうにもできないこともあるからね……いや、すまない。なぜか今日は饒舌だ。なぜか君には話しやすくてね」
それだけ言うと、勇は「では」と施設に戻っていく。
新はその場に立ち尽くしたまま、遠ざかっていく背中を見つめる。
まるでこちらの事情を知っているかのような勇の言葉は、胸に重く残っていた。




