お兄様は覚えてない
夏休みが終わり、二学期が始まる。
どこか寂しく、賑やかだった蝉の声もいつしか数を減らしていた。
照りつける日差しにはまだ夏の名残が残っているものの、朝夕に吹く風には僅かな涼しさが混じり始めている。
そんな中、藤宮家では朝から騒がしい喚き声が響いていた。
「いやぁー! 行きたくなーい!」
玄関の前では、荷造りを終えた愛海が年甲斐もなく新にしがみついている。
その側では真が額を押さえて、ため息をついた。
「愛海、寂しいのはわかるが、そろそろ行かないとフライトの時間が……」
「なんでよぉ〜! なんで休みってこんなにあっという間なのよぉ!」
母、愛海が仕事で再び稲守市を離れる時はいつもこんな様子だ。
新と隣の紬は呆れながら、母のあまり見たくない姿を見下ろしていた。
「母さん、そろそろ離れてくれないかな……」
「そうですよお母様、今生の別れというわけでもないんですから」
「ドライ! 少し見ない間に愛しの我が子達がドライになってしまったわ真!」
助けを求めるように振り返った愛海に、真はいつもの落ち着いた様子で答えた。
「前に家族が揃った三年前も同じ反応だったよ。さぁ行こう」
真の言葉に愛海は渋々新から離れる。
そして靴を履き、キャリーバッグの取っ手を伸ばした。
真が玄関の扉を開く。
一歩外へ出る前に、二人は新と紬に体を向けた。
「じゃあ二人とも、留守を頼むな」
「何かあったらすぐ連絡するのよ」
新と紬が同時に柔らかく微笑んで答える。
それを見届けた二人は背を向けて外へ出ていく。
扉が閉まると賑やかだった空間が一瞬で静まった。
だが、それも束の間の静寂だと新は理解していた。
「さ、さてと……俺は自室で勉強でもしようかなぁ……」
わざとらしくそう言った新が踵を返す。
しかし背後から腕が回され、ぎゅっと新を抱き締める。
その腕はもちろん紬のものだった。
「行かせませんよお兄様。やっと二人きりになれたのに」
「つ、紬?」
そう、この時期恒例とも言えるのがこれだ。
両親が帰省した期間、紬は二人きりの時と違って新との距離感を保つ。
その抑え込んでいた感情が、両親が再び家を空けた時に爆発するのだ。
しかし今年に限ってはそれだけではない。
「お兄様、溜まった分はあとで堪能させてもらうとして……今日の分がまだです。こっちを向いてください」
紬の腕から解放された新は、言われるがまま紬の方へ身体を向ける。
すると、紬は両手を伸ばして新の頬にそっと添えた。
「お兄様、お兄様は誰ですか?」
「藤宮新、瑞穂学園二年一組」
「では昨日の晩御飯は?」
「妹お手製のハンバーグです」
「では、その妹と結婚するというのは覚えてますか?」
「いえ、そんな事実はありません」
新がそう返すと、紬はショックを受けた様子で口を両手で押さえた。
「そんな……まだ本当のお兄様じゃ……」
「なんでそうなる」
稲守祭で新は御言の妹である狐の神、月乃に身体を乗っ取られた。
月乃が新の身体で向かった先には、なんの偶然か紬と叶がいたらしく、幸か不幸かボロが出て企みが失敗に終わったらしい。
もちろん、そんな事情を二人に話せるはずもない。
だから新は、あの日のことを「よく覚えていない」と言い張るしかなかった。
それ以来、紬は毎日のように新の記憶を確認してくる。
だが同時に都合のいい『事実』を新の頭に刷り込もうとしていた。
「何はともあれ、稲守祭でお兄様がおかしかったのは事実。本当に覚えてないのですよね?」
「ま、まぁな……」
頬をぽりぽりと掻く新に、紬は一歩距離を詰めた。
「となれば、やはりあの時のお兄様はお兄様じゃなかった! 病院に行っても異常はなかったし、きっと良くないものがお兄様に宿ったのです!」
「良くないもの?」
「はい! 稲守祭にはたくさんの神がお見えになるという言い伝えがあります! それこそ、お兄様は狐の神に化かされていたのではないですか!?」
よくわかりましたね、その通りです。
とは口が裂けても言えない。
かといって、天才の妹に生半可な言葉は墓穴を掘ることになる。
刹那に慎重に言葉を探していると、紬は両手を腰に当てて頬を膨らませた。
「もう、やはり来月の交流研修会はお兄様を一人にさせてはおけませんね!」
「……交流研修会?」
聞き覚えのない言葉に新は首を傾げた。




