鬼
小鬼が地面を蹴る。
肌など簡単に切り裂くであろう鋭い爪が灯に迫った。
「グガアアアッ!」
「灯ちゃん!」
考えるより先に、新の身体が動く。
地面を蹴り、小さなぬいぐるみの身体で灯の身体を突き飛ばす。
直後、鬼の爪は新を右肩から引き裂いた。
「ぐああああっ!」
引き裂かれた体から、右腕が離れる。
これはもう駄目だと察した。
「……あれ?」
予想に反して、痛みはどこにもない。
所詮綿が敷き詰められた布の身体。痛みを感じる神経もない。不幸中の幸いだ。
そう安堵したのも束の間、鬼の大きな手が伸びてきた。
「ぐっ!」
逃げる間もなく身体を掴まれ、新はそのまま軽々と持ち上げられる。短い手足をばたつかせるが、引き剥がすことなど毛頭叶わない。
「くそっ、離せ!」
「グルル……」
小鬼はすぐに襲いかかってくることはなかった。
何かを確かめるように鼻をひくつかせながら、新の身体を顔の前まで近づけた。
「カンジル、カンジルゾ。オマエ、カスカニカミノチカラヲヤドシテルナ?」
「……いろいろ訳ありでな」
新がそう返すと、鬼はニタリと笑った。
「ナラバ、オマエモワガカテニシテヤロウ」
そう言うや否や、小鬼は大きく口を開いた。
「は? ちょっ!」
鬼は新の言葉を待たずに左腕へ食らいつく。
そしてブチブチと乱暴に食いちぎった。
両腕を失った新に出来るのは、残った足をばたつかせてもがくことだけ。
すると、鬼は咥えていた新の左腕を吐き出した。
「ヤハリタマシイヲクラワナケレバダメカ……イヤ、ソレヨリモ」
鬼は未だ腰を抜かしたままの灯を見た。
「ニゲラレルマエニオマエカラクッテヤロウ」
「あ……嫌……」
目の前の鬼を見上げ、涙をポロポロと零す灯は小さく首を横に振る。
その着物の裾がじわりと濡れていく。
けれど、今の灯にはそれを恥ずかしがる余裕すらなかった。
「灯ちゃん逃げろ! 早く!」
「ダマレ」
鬼は新の右足を引き千切り、新と一緒に投げ捨てた。
「オマエハソコデ、コイツガクワレルノヲ、ミテイロ」
「やめろ! 喰うなら俺を喰え!」
四肢のうち三本を失った新は、その場でモゾモゾと動きながら必死に声を上げる。
もちろん鬼が耳を傾けるわけもなく、ただゆっくりと灯に近寄り、手を伸ばす。
灯も必死に腰を抜かしたまま後ずさる。
だが、すぐに背後の木にぶつかった。
「やだぁ……やだぁ……!」
首を横に振り続ける灯の顔に鬼の手の影がかかる。
——その時、その手がボッと青白い炎で燃え上がった。
「ギャッ!」
驚いた鬼は懸命に手を振って、炎を消そうとする。
しかし炎は消えず、燃え広がることもなく鬼の腕だけを焼き落とした。
「ガ……ガガァ……」
鬼が苦痛に顔を歪めると、少し離れた木々の隙間から聞き慣れた声が聞こえた。
「二人から離れなさい」
動けない新が顔を向けると、薄闇の中からゆっくりと姿を現す者が一人いた。
「御言!」
新が呼びかけた御言の表情には、普段の優しさはどこにもない。
普段隠していた狐の耳と尾を出し、恐ろしささえ感じさせる鋭い金の瞳でゆっくり鬼へと近づいていく。
「哀れな邪鬼よ。己が分も弁えず、我らに爪を立てるか……その愚かさ、身をもって知るがよい」
御言は鬼との距離を一歩、また一歩と詰める。
明らかな格の違いを鬼も感じ取ったのか、その顔からは余裕が消えていた。
だが、そう思えたのは僅かな時間だ。
御言がある程度近づくと、鬼は再びニタリと笑った。
「フ……フフフ……オロカナノハオマエダ!」
鬼が叫ぶと、辺りの木々が一斉に騒がしくなる。
その直後、御言の頭上から木々に隠れていた数匹の小鬼が一斉に飛びかかった。
「グガアアアッ!」
四方から振り下ろされる棍棒や石斧。
御言に逃げ道など無かった。
「御言!」
新が叫ぶ。しかし、御言は振り返ることすらなかった。
「――鬱陶しい」
僅かな苛立ちを見せた彼女の尾がゆらりと揺れる。
すると、襲いかかっていた鬼達の身体が一斉に青白い炎に包まれた。
「ギャアアアアッ!」
「グギャアアッ!」
悲鳴は短く、鬼達は炎の中へ消えていく。
襲いかかっていた全てが、地面に落ちることなく灰一つ残さず消え去った。
「す、すげぇ……」
新が思わず呆けた声を漏らす。
一方、新達を襲った鬼は勝機を完全に失ったと悟ったのか、すかさず背を向けた。
「あっ! 逃げるな!」
新が鬼の背に言葉を投げる。
もちろん鬼は立ち止まるわけもなく、森の奥へ続く薄闇に紛れようとしたその瞬間。
「どこへ行くつもり?」
「グッ!?」
鬼の足が止まる。
その進行方向。新からも見える少し先の木の陰から、紫苑がゆっくりと姿を現した。
「紫苑さん!」
新が声を上げる。
紫苑の瞳が転がる新に向く。
両腕と右足を失ったぬいぐるみの姿を目にした瞬間、紫苑は目を僅かに細めたが、その瞳はすぐに鬼へ戻った。
「鬼を見るのはいつぶりかしら。お前達の大将はどこ?」
「グ……グググ」
紫苑の問いには答えず、鬼はただ唸るだけだった。
逃げ場はない。そう悟ったのか、残った片腕を振り上げ、紫苑に襲い掛かった。
「ガァ!」
「……小鬼如きが」
酷く呆れた紫苑が指を鳴らす。
彼女の身体は鬼の爪が届く前に、青白い炎に包まれた。
「グガ!?」
先程自分の腕を焼き落とした炎に鬼は動きを止める。
青白い炎はすぐに消える。
そして御言と同じように狐の耳と尾を生やした紫苑が姿を現した。
「ふふ……たまにはね」
紫苑はもう一度指を鳴らす。鬼の身体がボッと燃え上がった。
「ギャアアアア!」
鬼は全身を炎に包まれながら、その場を転げ回る。
その炎は他の鬼を焼いた御言のものとは違って、確かに長く鬼の身体を蝕んでいた。
「タ、タスケ――」
「五月蠅い」
紫苑が冷たく言い放つ。
次の瞬間、炎が一際大きく燃え上がった。
「ギャアアアアアアッ!」
断末魔のような叫びが森に響き渡る。
程なくして炎が消えると、地面には焼かれた鬼の影だけが残り、周囲には静寂が広がった。
神の力を目の当たりにした新は、言葉を失う。
すると、傍で腰を抜かしていた灯が泣き始めた。
「う、うぅ……うわーん! 怖かったよぉ~!」
そこに紫苑が歩み寄る。泣きじゃくる妹の小さな身体を優しく抱き締めた。
「よしよし、怖かったねぇ。でも大丈夫」
「し、紫苑お姉ちゃあん……!」
灯は紫苑の胸元へ顔を埋め、その着物をぎゅっと掴む。
先ほどまで震えていた身体をあやすように、紫苑は何度もその背中を撫でた。
その光景を見て、新もほっと安堵の声を漏らした。
「良かった……うわっ!」
不意に体が持ち上げられる。
橙色の着物の裾が視界に入り込んできた。
「新!」
「御言、ありがと——ぐっ!」
新を持ち上げたのは御言だった。
彼女は四肢のほとんどを失った新を両腕で掬い上げると、そのまま胸元へ強く抱き締めた。
「御言、苦し――いや、今は別に苦しくないけど」
「……ごめんね」
その声が僅かに震えていた。
新が顔を上げる。
先ほどまで鬼達を睨みつけていた金の瞳には、もう恐ろしいほどの怒気はない。
代わりに今にも泣き出しそうなほど潤み、滲んでいた。
「……ごめんね」




