隣
ライブは大盛況に終わった。
叶達は控室に戻り各々が余韻に浸っている。
その中で麻はギターをケースに収め、近くの椅子へ力なく腰を落とした。
「お疲れ~。いやぁ……叶を誘って大正解だったよぉ」
「私も出て良かった。誘ってくれて、ありがとう」
「いやいや、こちらこそ。まさか初ライブであそこまで――」
麻がそこまで言った時だ。
控室の扉が、突然勢い良く開いた。
「叶ぇぇぇぇぇっ!」
「えっ?」
叶が振り返ると、御言が大粒の涙を零しながら駆け込んできた。
その後ろには、困ったように笑う新もいる。
「み、御言!?」
「叶ぇぇっ! すっごく……すっごくよかったよぉぉっ!」
御言はそのまま叶の胸へ飛び込み、力いっぱい抱きついた。
「わっ! 御言、どうしたの?」
「だってぇ……叶がすごく綺麗で……歌もすっごくて……みんなが叶を見ててぇ……」
そこまで口にしたところで感情が再び溢れたのか、御言は叶の胸元へ顔を埋める。
「ぶええぇぇぇ! 叶ぇぇぇぇ!」
「そ、そんなに泣かなくても……」
子供のように泣きじゃくる御言を見て、どこか嬉しそうに口角を上げた叶に、新が声をかけた。
「叶、お疲れさん」
「新……ありがと」
あれほど大勢の観客を前に歌えたのに、真正面から新と目が合った途端、叶の胸は再び落ち着きをなくした。
「わ、私の歌、どうだった?」
恐る恐る尋ねた叶に、新は親指を立てて、にっ! と大きな笑みを浮かべた。
「めっっっっっちゃ良かった!」
「……良かった」
何故かその言葉が、叶の胸の内を今日一番に温かく満たしていく。
すると、その様子を見ていた麻が目を細めた。
「あーなんか喉乾いたなぁ……ねぇ藤宮、叶と一緒に飲み物買って来てくんなーい?」
「え? まぁいいけど……」
新が答えると、御言が叶の胸元から涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。
「私も行く!」
「稲荷坂さんはその顔じゃ行けないでしょ~ほらほら、こっちで涙拭こうねぇ~」
麻は立ち上がり、叶に抱きついたままの御言をそっと引き離した。
「んじゃ藤宮、叶、お願いね~」
「あぁ。叶、行こう」
「うん」
叶は新と共に、控室を後にする。
控室があるのは、来場者で賑わうエリアから少し離れた場所だ。
人通りはほとんどないが、一歩進むごとに泣きじゃくる御言の声は廊下の向こうの生徒や教師、来場者の声にかき消されていった。
もう……麻ちゃんたら……余計な気を回さなくてもいいのに。
そう思う一方で、新と二人きりになれたことを喜んでいる自分もいる。
ふと、新の横顔を見る。
何度も見てきたはずなのに、今日はいつもより眩しく見える。
……顔、あっつい。
叶は頬の熱を測るように、包帯の巻かれた右手を添えた。
「叶、さっきから気になってたんだけど……その手、どうしたんだ?」
「こ、これ!?」
頬に添えられた叶の右手を……いや、正確にはそこに巻かれていた包帯を新はじっと見つめていた。
「こ、これ? これはえーと、食器落として割れちゃったの! それで切っちゃって……」
「なにやってんだよ……気をつけろよ?」
呆れた新は少し間を置いて、続けた。
「それにしても……ほんと凄かったな」
「凄いのは麻ちゃん達だよ。日頃からバンドを組んでるだけあって、指示も的確だった」
「それはそうかもしれないけど、俺は叶も十分凄かったと思うぞ?」
「そうかな……」
「あぁ、少なくとも俺は今日の叶の歌を一生忘れないと思う」
その言葉に、抑えきれない笑みを浮かばせた叶はもう一度、新の横顔を見た。
そう、この距離で一緒に歩きたいから私は——。
心の中で呟いた時だった。
「藤宮君!」
叫ぶような声に叶の肩がビクッと跳ねる。
叶と新の行く先に、白いブラウスと紺色のロングスカートを身に纏い、小さな鞄を肩に掛けた青潟が立っていた。
「……青潟さん」
叶が彼女の名を呼ぶと、包帯の下の傷が、ずきりと疼いた。
「青潟? 来てたのか」
中学時代のクラスメイトと再会した新に、もちろん警戒の色はない。
一方の青潟は、まるで憐れむような目で新を見ていた。
「藤宮君……お願い。もう目を覚まして」
「どういうことだ?」
「はっきり言うわ……その女はあなたの傍にいるような人間じゃない」
その言葉に、新の顔には明らかに不快の色が滲んだ。
「再会早々、随分な物言いだな」
「だって、あなたが気づかないから私が言うしかないの! その女といると、貴重な藤宮君の高校生活が無駄に終わってしまうわ!」
「無駄?」
「そう! 家柄も財もない女なんかと一緒にいて、何の得があるの? 付き合う人間を選ばないと、藤宮君の箔が落ちてしまうのよ!」
新は言い返さない。
彼が家柄や財産で人を判断するような人ではないことくらい、叶は誰よりもよく知っている。
青潟の言葉に頷くはずがない。そんなことを思っているはずもない。
それでも沈黙が続くほど、胸の奥で不安が膨らんでいく。
「藤宮君、今からでも遅くないわ! その女から離れて! あなたの傍にいるべきなのは私なの! 家柄も財もなにもかもあなたを満たせるわ!」
「……叶じゃ、俺は満たされないのか?」
「そうよ! その女がいなければ瑞穂に行っていたのは私! あなたの高校生活ももっと色づいていたはずなのよ!」
青潟は両手を広げた。
「藤宮君、私のもとへ来て! 学校は離れちゃったけど、私……毎日来るわ! あなたを本当の幸せに導いてあげる!」
青潟の言葉に、新の身体がぴくりと動く。
同時に、叶の膨らんでいた不安が胸を激しく締め付けた。
「あ、新……」
呼び止めるように叶が新を呼ぶ。
その次の瞬間、叶の肩に新の腕が回った。
「えっ……わっ!」
ぐい、と力強く引き寄せられ、叶の頬が新の胸元へ触れる。
新が動いたのは、青潟のもとへ行くためではない。
叶を自分の傍へ抱き寄せるためだった。
「なっ! なにしてんのよ!」
青潟の顔が酷く歪む。
今にも掴みかかりそうな彼女に臆することなく、新は叶を胸元へ抱き寄せたまま、口を開いた。
「なぁ青潟、さっきの叶のライブ見た?」
「ラ、ライブ? 見てないわよそんなの!」
「あーあ、もったいない」
新は青潟を憐れむように笑った。
「ステージの上の叶、めちゃくちゃ綺麗だったんだぜ?」
「……それが、何よ」
「お前、叶がいなければ俺の高校生活はもっと色づいてたって言ったよな」
「ええ、だから――」
「逆だ」
新は迷いのない声で、青潟の言葉を断ち切った。
「叶がいてくれたから、俺の毎日はこんなに色づいたんだ。今日だって、一生忘れられない景色を見せてもらった」
叶の胸が、どくんと大きく鳴る。
新は青潟を見据えたまま、叶の肩を抱く腕にわずかに力を込めた。
「お前がいなくても……俺は叶に十分満たされて、幸せだから」
その言葉が叶の胸に深く染み込む。
同時に目頭が熱くなった。
今わかった。
自分はこの言葉が新の口から欲しかったのだと……。
視線の先で、青潟は歯を食いしばっている。
そんな彼女に、叶は見せつけるように新の身体に腕を回した。
「ごめんね青潟さん……」
「なっ! ふざけんな! この泥棒猫!」
「なんとでも言えばいい。でもね……どれだけ傷つけられようと、罵られようと……私は新の傍にいる! それだけは絶対譲らないから!」
「あ……ああああぁぁぁ!」
両手で頭を掻き毟りながら、青潟は膝をつく。
そして、鞄へ手を突っ込んだ。
取り出されたのは、カッターナイフだった。
「あんたさえ……あんたさえいなければ!」
立ち上がった青潟はカッターナイフの刃を出し、その先を叶に向けて一歩踏み出す。
すると、新が恐怖で固まりかけている叶の身体を庇うように更に抱き寄せる。
その時、青潟の背後から声が飛んできた。
「何をしている!」
その声と共に、巡回中の教師二人が青潟へ駆け寄っていた。
状況を見るや否や、ただ事ではないと察して、すぐに彼女の腕を掴んだ。
「いやっ! 触らないで!」
暴れる拍子に、カッターナイフが床へ落ちる。
青潟は必死に抵抗するが、大人二人に押さえられてはどうすることもできない。
「離せ! 離してよおおぉぉぉ!」
青潟の叫び声は、教師達に連れていかれるにつれて遠ざかっていく。
ただ、叶の心を支配していたのは恐怖心ではない。
新の言葉が与えてくれた、どうしようもないほどの幸福だった。




