歌声はあなたへ
開演まで、あとわずか。
ざわめきが消えない客席とステージを隔てる幕は、まだ下りたままだった。
その内側のステージでは、叶達が本番前の最終調整を進めている。
麻や他のバンドメンバーが機材や立ち位置を確かめる中、叶は舞台中央のマイクスタンドの前で唇を軽く閉じ、一定の息を送り込みながら細かく震わせた。
麻から教わったボーカルトレーニングの一つ、リップロールだ。
唇を震わせたまま、低い音から少しずつ音程を上げていく。
ただその音よりも、叶の胸の鼓動の方が大きい気がする。
大丈夫。たくさん練習したし……。
そう言い聞かせても、鼓動はなかなか収まってくれない。
頬の筋肉も、強張ってる気がする。
もう一度、最初の音からやり直そうと息を吸い込んだ、その時だった。
「うそぉぉぉぉ! めちゃくちゃ混んでるよぉ! 最前列で見たいのにぃ!」
聞きなれた悲痛な叫びが、客席のざわめきを突き抜けてステージまで響いてきた。
声の主を間違えるはずがない。
叶はぽかんと目を丸くしたあと、堪えきれずに小さく吹き出した。
「ふふっ……もう、御言ったら」
もちろん御言の姿は、幕に遮られて見えない。
それでも、涙目で人混みの後ろから背伸びしている姿が、ありありと浮かんだ。
胸の鼓動は、まだ速い。
けれど、先ほどまでの息苦しさは消え、強張っていた肩からも自然と力が抜けていた。
やがて、舞台袖から開演の合図が出る。
叶はマイクの正面に立ち、もう一度ゆっくりと息を吸い込んだ。
今度は、胸の奥まで真っ直ぐに空気が入ってくる。
開演のブザーが鳴る。
麻達と目を合わせ、互いに小さく頷くとステージと客席を仕切っていた幕がゆっくりと上がり始めた。
幕が上がるにつれ、待ちわびていた観客達の歓声が大きくなっていく。
そして叶達の姿が完全に露わになると、割れんばかりの拍手と歓声が会場を包み込んだ。
予想を遥かに超える熱気に、叶の鼓動が大きく跳ねる。
「叶ぇぇ! かぁぁぁぁなぁぁあえぇぇぇっ!!」
観客達の中段で御言が、一際大きな声で叶を呼び、両手を上げて飛び跳ねる。
その隣には、新もいた。
新……。
一瞬、あたりが静かになった気がした。
まさか、自分がステージの上で歌うとは……中学の頃には思いもしなかっただろう。
瑞穂に進学した目的は新以外の何物でもない。
不純だと言われれば、言い返せない。
でも、だからこそ頑張れたのも事実だ。
新の傍にいたいから……あそこまで必死になれた。
そうじゃなかったら……青潟の取引に迷いなく応じていただろう。
客席の新が、胸の前で拳を握ってみせる。
「頑張れ」
歓声に掻き消され、声は聞こえない。
それでも、その口の動きだけで十分に伝わった。
叶は柔らかな笑みを返し、小さく頷く。
その時、背後でドラマーがスティックを構えた。
叶達の視線が重なる。
シンバルの乾いた音が三つカウントを刻んだ。
パンッ、パンッ、パンッ。
四拍目は短いフィル。
ドドンッ!
それを合図に、一斉に演奏が鳴り響いた。
イントロに合わせて会場のボルテージが上がっていく。
叶は息を吸って、最初の歌声を解き放った。
『――ラムネ瓶の硝子玉がころころと』
叶の澄んだ歌声が、楽器の音色と共に会場を包み込む。
何度も読み返した歌詞。
身体に染みつくまで練習した音程。
『――少しは鈍感なあなたも、気づいてくれるかな? まだかな?』
どれだけ大勢の人がいても、新の姿だけは見失わない。
それどころか、新だけを残して、周りの輪郭が淡くぼやけていくようだった。
『――君との歩幅が揃うだけで、特別のような気がするの』
新……今、貴方の目に私はどう映ってる?
『風靡くさらさらと――』
輝いて見える?
上手に歌えてる?
『君と他の人が話すのを見るだけで――』
もっと私を見て。
ずっと……ずっと……。
『――夏めく今、この時に歌う』
青潟に問われてから、ずっと答えを探していた。
自分が新に何を与えられるのか。
守ってもらった分、何を返せるのか。
新から受けた恩に見合うものも返せず、それでも傍にいたい。
そんな自分が我儘に思えた。
けれど、御言が気づかせてくれた。
何かを返せなければ、傍にいてはいけないわけじゃない。
誰かと比べて、自分の価値を証明する必要もない。
私は新が好き。
だから、傍にいたい。
その想いがあったからこそ、私は諦めずに瑞穂へ来られた。
そして今、麻達とこの舞台に立ち、御言達に背中を押されながら、新の前で歌っている。
『――かけがえのないものと鳴れ!』
胸の奥に残っていた迷いまで、すべて歌声に変えて解き放つ。
我儘だって言われても良い。
釣り合わないって思われても良い。
新が笑ってくれる限り、その隣は私の居場所だ!
『――硝子玉かざす午後三時』
新……大好きだよ。




