傍にいる理由
「――あの件で、青潟さんは志望校を瑞穂から別の街の高校に変えたの」
叶はそこで言葉を切った。
保健室には静寂が流れる。
「御言?」
返事がないことを不思議に思い、叶は顔を上げる。
御言は俯いたまま、小さく肩を震わせていた。
「え……えぇ!?」
御言の金の瞳から大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちていた。
「御言!? どうしたの!?」
「ふぇ……うぇぇ……」
御言は子供のように涙を拭い始めた。
「叶は……なにも悪くないじゃん……なのに、なんで叶がそんなに苦しまなくちゃいけないの?」
「御言……」
「叶は優しすぎるよ……」
御言は鼻をすすりながら、叶の怪我をした右手を両手で包み込む。
「こんな怪我までして……それでも庇うの? むかつかないの?」
「も、もちろんそういう気持ちがないわけじゃないよ! でも、私自身が答えを見つけられてないの」
叶は視線を少し下げて続けた。
「結局あの時、紬ちゃんに助けてもらえなかったら私はここにいない。また守ってもらって、未来を与えてもらって……私はなにが返せるんだろうって……そしたら何も浮かばなくて……青潟さんが言ったことも間違いじゃない気がしちゃって……」
「でも守られることは――」
「わかってるよ。守られることは悪いことじゃないし、人は一人じゃ生きていけない。でも、答えを見つけられないのは気持ち悪くて、見て見ぬ振りしてたのも事実」
言葉にするたびに、右手の傷の痛みがズキズキと増していくような気がした。
「瑞穂祭の初日に青潟さんと再会して、また思い出して、結局先延ばししてたせいで、また何もわからなくて……私、多分心のどこかでそのうち、気にならなくなるって思ってるのかもしれない。そんな自分が……凄く嫌」
「叶!」
御言は叶の言葉を遮り、包み込んでいた右手をきゅっと握った。
「なにうじうじ考え込んじゃってるの!? 叶は新が好きなんでしょ!? どうしようもなく大好きなんでしょ!?」
あまりにも真っ直ぐな問いに、叶は一瞬息を呑んだ。
けれど、その答えだけは迷うまでもなかった。
「……うん」
「じゃあそれでいいじゃない! 好きだから傍にいたい。私だってそう!」
御言は涙を拭うことも忘れ、金色の瞳で叶を真っ直ぐに見つめた。
「なにも与えられない、返せないからその人の隣にいちゃ駄目なんてこと、絶対にない! 新だって、叶に何かを返してもらうために一緒にいたんじゃない!」
「それは私もわかってるけど……」
「それなら!」
御言は叶の右手を離すと、今度はその両頬を包み込み、俯きかけた顔をぐっと持ち上げた。
「もう答えは決まってるじゃない」
御言の手から、心地良い温もりが叶の頬へ伝わった。
「叶は胸を張って、新の傍にいていい! 叶は叶であいつはあいつ! どっちが何を持っていて、なにを持ってないかなんて関係ない! 比べる必要なんてない! 叶がやるべきなのは『お前なんて眼中にない』って、あの女に言ってやること!」
叶は目を丸くする。
けれど、あまりにも御言らしい励ましに、やがて小さな笑みが零れた。
「ありがと、御言」
「やっと理解した? もぅ……」
御言は呆れたように息を吐くと、頬に残った涙を手の甲で拭った。
「あーあ……人って、いつの世も変わらないんだね。立派な家柄とか、財力でその人の価値を決めてしまう人って一定数いるんだから」
「なに? そのずっと昔から生きてきたような言い方」
叶の言葉に御言は、はっとして腕をブンブンと振った。
「そ、そんなわけないじゃない!」
「ははは」とどこかぎこちなく笑った御言は、次にどこか遠くを見るように続けた。
「でも、やり方は間違っていたけど……あの子もあの子なりの幸せに向かって、必死だったんだろうな」
「青潟さんのこと?」
「うん。家柄や財は確かに人を豊かにする。でもそれと同時に、その人を縛り付ける。恵まれているんだから誰より優れていなきゃいけない。家にふさわしいものを手に入れなきゃいけない。そんなふうに思い続けていたら、自分が本当は何を望んでいたのか、わからなくなることだってある」
御言はどこか寂しげに目を伏せた。
「……きっとあの子には、叶とは違う、あの子にしかわからない苦しみがあるんだろうね」
「御言……」
「ま、叶を傷つけられたのは、ほんっとうにむかつくけどね!」
御言はむっと頬を膨らませる。
自分のために怒りながら、それでも青潟の苦しみにまで目を向けられる。
そんな心の持ち主である彼女を、叶は羨ましく思った。
「御言は凄いね……それに比べて私は……」
「あっ! またそうやって駄目な方に考える!」
御言はばっと立ち上がった。
「叶、起立!」
「え……え?」
「いいから、立つ!」
御言に急かされ、叶はわけもわからないまま椅子から腰を上げた。
「背筋を伸ばして、胸を張る!」
「こ、こう?」
「そう! 今から私の言うことを復唱して」
「復唱……?」
「私、柚木叶は可愛い!」
「へっ!? そ、そんな……」
「早く!」
「わ、私柚木叶は可愛い……」
「声が小さい!」
「私、柚木叶は可愛い!」
「頭もいい!」
「頭もいい!」
「性格は最高!」
「せ、性格は最高!」
「よし、全部まとめて!」
「え、えぇ……」
「じゃないと叶が五百グラム太ったこと、新に言うよ!」
「ど、どうしてそれを!?」
「言われたくなかったら早く言って!」
「わ、私は可愛くて、頭もよくて、性格も最高!」
叶の声が保健室に響き渡る。
御言は満足そうに何度も頷く。一方の叶は、耳まで真っ赤にして両手で顔を覆った。
「な、なに、この時間……」
「叶に正しい自己評価を教える時間」
「こんなの、自分で言うことじゃないよ……」
「でも、どう? 少し自分が大きくなった気がしない? 五百グラムくらい」
「その話はもういいから!」
声を上げた叶に御言は、悪戯気に笑う。
叶の胸の中を蝕んでいたものは、確実に小さくなっていた。
「でも……なんかふっきれたかも、ありがと御言」
「どういたしまして」
二人が笑い合っていたその時、保健室の扉が開く。
姿を見せたのは麻だった。
「おーいたいた叶~」
「麻ちゃん」
「探したよぉ我らが歌姫……まもなく本番だから準備行くよぉ〜」
「え、もうそんな時間?」
保健室に掛けられた時計は、麻の言う通り有志発表の準備に取り掛かり始める時間をやや過ぎている。
そして叶は、御言へ向き直った。
「御言、本当にありがとう」
「ううん。頑張って、叶! 私、誰よりも大きな声で応援するから!」
「うん!」
今は素直に練習してきたことを出したい。
自分の歌声を……頑張ったんだよという思いを、新に届けたい。
叶は背筋を伸ばして胸を張ると、晴れやかな笑顔で告げた。
「行ってきます!」




