破綻
教室へ足を踏み入れた叶を見た瞬間、青潟の思考は止まった。
「……どうして」
叶は何も言わない。
紬の横に立ち、じっと青潟を見つめている。
「……まさか」
嫌な予感とともに、胸の鼓動が次第に速くなる。
「つ、紬さん! どういうことなの!? どうしてここに柚木さんが……」
余裕を失った青潟が紬へ視線を向ける。
紬は笑みを崩さず答えた。
「あら? 随分察しが悪いんですね」
紬はポケットからスマートフォンを取り出し、画面を青潟に見せつける。
そこには、今も録音を続けるボイスレコーダーの画面が表示されていた。
「今の会話、全て録音させていただきました」
紬の言葉に、青潟の顔から血の気が引いた。
「い、今なんて言ったの?」
青潟は一歩後ずさる。
しかし紬は逃がすつもりなどないように、その距離を詰めた。
「耳まで悪いのですね……じゃあ、わかりやすく言ってあげましょう」
スマートフォンの画面を見せつけたまま、紬は静かに告げた。
「あなたの悪事は全て記録したと言ってるのです」
紬は録音を停止すると、保存された音声を開いて再生ボタンを押した。
『ここの卒業生を二人ほど雇って、夜間の校舎に忍び込ませたの』
教室に響いたのは、先程紬に語った青潟の犯行内容だった。
「や、やめなさい……」
青潟が掠れた声を漏らすが、紬は止めない。
『彼女の筆跡に似せて、解答を書き直させたのよ。一教科だけだと露骨過ぎるから、各科目少しずつね』
「やめて!」
青潟はスマートフォンへ手を伸ばす。
だが紬は素早く身を引き、その手を躱した。
「これが明るみになれば、瑞穂の推薦どころか、高校進学も危ういですね」
「私を……騙したのね」
込み上げる怒りで身体を震わせる青潟は、叶を睨みつけた。
「どうして、紬さんがこんな奴の味方をするのよ!」
「……こんな奴?」
「えぇ! 家柄も、育ちも、何もかも私の方が上なのよ! それなのに、どうしてこんな女を庇うの!?」
「……こんな女」
紬から笑みが消えた。
「どうやら、眼も悪いのですね」
紬は青潟から一歩離れ、叶の隣へ戻った。
「私は料理が得意なんです。しかし、その根本にある味つけや調理方法は全て叶お姉様から教わったものです」
「だ、だからなによ……」
「お姉様は幼少期からお兄様と二人で過ごすことが多かった私の髪を梳いてくださいました。あとは私の服選びを一緒に悩んでくださったり、悩んだ時には一緒に考え、何度も私を支えてくださいました……それが私がお姉様をお姉様と呼ぶ所以です」
紬は青潟に見せつけるように、叶の肩に頭をポンと置いた。
「叶お姉様は今でこそ、学年で三本の指に入る成績の持ち主ですが、小学生の頃は瑞穂を目指すことなど、とても考えられない成績でした。しかし己の未来のために、中学進学と同時にそれはもう必死に勉強しました。放課後も、休日も、わからない問題があれば何度でも解き直して。目を擦りながら何度も、何度も……全ては瑞穂への推薦を得るために」
「そんなの、私だって努力したわ!」
「でも、あなたは叶お姉様に一度も勝てなかったではないですか」
その一言で、青潟の表情が歪む。
頭の中で、何かがぷつんと音を立てた。
「違う……!」
肩を震わせ、唇を噛み締め、爪が食い込むほど拳を握る。
「違う違う違う!」
声が次第に大きくなる。
「私は負けてない! 家柄も! 将来も! 何もかも私の方が上なのよ!」
紬は何も言わない。
ただ静かに見つめる。
その表情をなんとか歪めたかった。
「もし、あなたがそれを公表したら……藤宮家と青潟家の関係はどうなるでしょうね……」
苦し紛れに笑みを浮かべる青潟に、紬は一切表情を変えなかった。
「それが、どうかなさいましたか?」
「は……?」
「それと叶お姉様の答案を改ざんしたことに、何の関係があるのでしょうか?」
「関係あるわよ!」
青潟は食って掛かる。
「そんな女のせいで青潟の娘の将来が潰されたとなっちゃ、父が黙ってないわ! そうなったら両家の関係だって――」
「人を家柄や財力でしか見られない家など、こっちから願い下げです」
遮るように言い切った紬に、青潟は一瞬言葉を失った。
「あ、あなた……自分が何を言ってるか、わかってるの?」
「それはこっちのセリフです。あなたは、藤宮家を何だと思っているのですか? お兄様も、両親も、そのようなことを許す方ではありません。むしろ、真実を知れば真っ先に正そうとなさるでしょう。」
青潟の笑みが、少しずつ崩れていく。
「ふざけんな……こんなこと許されない……」
青潟は肩を震わせながら紬を睨みつける。
その時だった。
「……もう、やめよう」
静かな声が教室に響いた。
紬の隣にいた叶が、一歩前へ出る。
「叶お姉様……」
紬は思わず声を漏らした。
叶は小さく首を横に振る。
「もう十分だよ、紬ちゃん」
その表情には怒りも憎しみもない。
ただ、悲しそうな瞳で青潟を見つめていた。
「もういい。私は瑞穂に行ける……それだけで十分だから」
叶が穏やかにそう告げる。
しかし、その言葉は青潟の耳には届かなかった。
届いたのは、叶の瞳だけだった。
怒りでもない。
勝ち誇りでもない。
ただ、自分を案じるような悲しげな眼差し。
それが酷く癪に障った。
「……そんな目で、そんな目で私を見るな……!」
叶は少しだけ目を伏せた。
「ごめん」
その一言が、青潟の胸をさらに掻き乱す。
「謝るな! 私を可哀想だと思ってるんでしょ!? 勝ったから余裕ぶってるんでしょ!?」
「違う」
叶はゆっくり首を横に振る。
「私は、悲しいだけ。勉強だけを頑張ればいい私と違って、青潟さんは他のことも、凄く頑張ってきたんだろうと思うから……その努力がこんな形で変わってしまうのが……とても悲しい」
青潟は何も答えられなかった。
肩を震わせたまま、叶を睨みつけることしかできずにいると、彼女は背を向けた。
「……行こ、紬ちゃん」
叶が教室を後にする。
後に続こうとした紬は、一度青潟へ向き直った。
「青潟先輩」
青潟は俯いたまま動かない。
「この録音をどうするかは、まだ決めておりません。ですが、あなたの行動次第では迷わず然るべき方へ提出いたします」
一拍置き、紬は静かに頭を下げた。
「どうか、慎重なご判断を」
そう言い残し、紬も教室を後にした。
扉が閉まる。
教室には青潟だけが残された。
「あ……あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ!」
裂くような絶叫が、誰もいない教室に響き渡った。




