思惑通り、いやそれ以上
誰もいない教室で青潟綾乃は窓の外を眺めていた。
「……ふふ」
心はいつになく晴れやかだった。
窓の向こうには、下校する生徒達が歩いている。
各々が今日の試験結果に一喜一憂しながら、言葉を交わしていた。
今の青潟の耳には、そのどれもが心地よく届く。
掲示板に並んだ順位表。
柚木叶よりも上にあった、自分の名前。
それを思い出すだけで、自然と口元が緩んでしまう。
「ほんと……馬鹿な女……」
あの図々しくて、自分の立場も弁えず、いつも新の隣にいた、あの女に勝った。
瑞穂に行けば、あの女はいない。
あの時、青潟の提案を受け入れ、小切手を受け取っていれば、少なくとも叶は瑞穂へ進学できた。
しかし、彼女は目先の意地にしがみつき、自ら差し出された道を捨てたのだ。
そのおかげで叶から推薦を奪うだけでなく、瑞穂から完全に遠ざけることまでできた。
青潟にとって、思い描いていた以上の結果を手に入れたのだ。
「さてと、邪魔者はいなくなったし、これで藤宮君の隣は私の場所に……そうだわ、妹とも早いうちに距離を縮めておかないと」
新の妹である藤宮紬にも、自分こそ兄の隣に相応しい人間だと理解させなければならない。
もっとも、叶と違って藤宮家に生まれた彼女なら、話は早いだろう。
家柄も立場も釣り合わない叶より、青潟家の娘である自分の方が、新のためになる。
少し話せば、きっとわかるはずだ。
青潟がそんな未来を思い描いた、その時だ。
静かな教室に、扉の開く音が響いた。
「失礼いたします」
振り返った青潟の目に映ったのは、たった今思い浮かべていた藤宮紬だった。
「まぁ藤宮君の妹さん!」
青潟は驚きのあまり目を見開いたが、良家の令嬢らしく、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「ちょうど、あなたのことを考えていたところなの」
「私のことを、ですか?」
「ええ。藤宮君の大切な妹ですもの。一度、ゆっくりお話ししてみたいと思っていたのよ」
まるで歓迎するように、青潟は紬へ歩み寄る。
あまりに都合のよい巡り合わせに、先ほどまでの上機嫌はさらに増していた。
「それで、どうしたのかしら?」
「青潟先輩にお祝いとお礼を申し上げようと思いまして」
「はい?」
紬は柔らかく微笑んだまま、両手を前で重ねて頭を下げた。
「このたびの期末試験で、瑞穂への推薦が決定的になったことをお祝い申し上げます」
「……ふふ、ありがとう」
青潟は満足そうに微笑むと、紬は頭を下げたまま続けた。
「そして、柚木叶の瑞穂進学を阻止してくださったことにも、お礼を申し上げたくて参りました」
「……まぁ」
その一言だけで十分だった。
意外過ぎる一言だったが、青潟の口元を釣り上げるには十分過ぎるほどに。
――なるほど、この子はちゃんと賢いらしい。
兄を取り巻く環境を考えれば、柚木叶のような人間が隣に立ってはならないと理解していたのだ。
今すぐ「そうよね!」と飛びつきたい気持ちをぐっと堪え、青潟は静かに首を横に振った。
「感謝されることは何もしてないわ」
「それでも、お兄様のためになりました。お兄様はお優しい方ですから、ご自身では柚木を突き放すことができません。ですから、今回の結果には私もホッとしております」
「あら……藤宮君のためになるのなら、私も頑張った甲斐があったわ」
やはり、この子は自分の味方だ。
兄の将来を真剣に考えているからこそ、柚木叶が邪魔な存在だと理解している。
ならば話は早い。
藤宮家の人間が自分を認めてくれるなら、新との距離も今よりずっと縮まるはずだ。
「紬さんとは、これから仲良くできそうね」
「私もです。青潟先輩は優秀な方ですから、いろいろご教示いただけると嬉しいです」
「そんな大袈裟よ」
「大袈裟ではありません……ただ……」
「何か気になることでもあるの?」
「実は、柚木叶の試験結果について、少々不可解な点がございまして」
その言葉に、青潟の笑みが僅かに強張った。
「不可解な点?」
「はい。柚木叶は試験後、お兄様と自己採点をしておりました。その時に聞いた結果と、今回の点数がどうしても不自然なほど合わないのです」
「……何が言いたいの?」
紬は表情を崩さず、青潟に一歩歩み寄った。
「お気を悪くしないでください。もし、柚木叶の採点がなんらかの理由で修正された場合、その合計点数は順位表に記されていた青潟先輩の点数を上回ることになります」
「そんなこと……あるはずないわ」
「私もできればそうであってほしいと思っております。しかし、万が一にもそうなった場合、青潟先輩が手にするはずだった推薦の枠が柚木叶に渡ってしまいます……そうなる前に!」
紬はもう一歩詰め、青潟の手を両手でギュッと握った。
「どうか、私にもお手伝いさせてください」
「手伝うって……何を?」
「柚木叶が答案の確認を求めた場合に備え、あらかじめ対処しておきたいのです」
紬は青潟の手を握ったまま、真剣な眼差しを向ける。
「私は青潟先輩が推薦であるべきだと思うのです! 家柄の面でも、一般入試を受けることになっては肩身が狭いでしょう。それを柚木叶の悪あがきで邪魔されるわけにはいきません」
「紬さん……」
「お願いでございます青潟先輩! この藤宮紬にあなたのお手伝いをさせてくださらないでしょうか!」
青潟の胸が、喜びに大きく膨らむ。
これほどまでに自分を慕ってくれる紬を、疑う理由などどこにもない。
全てが上手くいっている。その高揚が押さえ込んでいた歪んだ笑みを浮き彫りにさせた。
「……わかったわ紬さん。実はね、柚木さんの答案に細工をしたの」
「まぁ! 厳しい管理下にある答案をどうやって!」
驚きに目を見開く紬に、青潟は得意げに答えた。
「この世の中には、報酬さえ渡せば喜んで手を汚す人がたくさんいるのよ」
「そうなのですね! 具体的には何を頼んだのですか?」
「ここの卒業生を二人ほど雇って、夜間の校舎に忍び込ませたの」
「まぁ、ではその方々に柚木叶の答案に細工をさせたのですね!」
青潟はまるで授業でもするかのように、人差し指を立てる。
「そうよ。この学校のセキュリティはそこまで厳しくないし、答案が入れられた保管庫は簡単な南京錠が掛けられただけ。あとは校内の造りを知っている者であれば、素人でも簡単だったわ」
「答案にはどのような細工を?」
「単純よ。彼女の筆跡に似せて、解答を書き直させたのよ。一教科だけだと露骨過ぎるから各科目、少しずつね」
「なるほど、その手段であれば……」
「そうよ。答案が帰ってきて柚木叶が騒いだところで、後の祭り……自分の答案を見た時のあの女の顔……早く見たいわぁ」
青潟が恍惚とした笑みを浮かべた、その時だった。
「……ふふっ」
目の前の紬は俯いたまま肩を震わせ、くすくすと笑い始めた。
「……ここまで、上手くいくとは思いませんでした」
「紬さん?」
紬は口元を手で隠しながら笑みを整え、ゆっくりと顔を上げた。
「失礼しました。おかしくなってしまいまして」
「ど、どういうこと?」
青潟の問いに、紬は答えない。
ただ、教室の後ろの扉へ視線を向けた。
「もう入ってきても大丈夫ですよ。叶お姉様」
「……は?」
青潟が間の抜けた声を上げたのも束の間、教室に入ってきたのは叶だった。




