じゃあ、あなたは何を与えられるの?
青潟に連れ出された先は、誰もいない叶達の教室だった。
「青潟さん、話ってなに?」
教室の一番後ろ、机が並んでいない空きスペースで叶が青潟の背中に声をかける。
彼女はゆっくりと振り返り、穏やかな表情で口を開いた。
「単刀直入に言うわ。今度の期末、私に順位を譲っていただけない?」
「……え?」
あまりに突拍子もない言葉に、叶は耳を疑った。
「それって……わざと点数を落とせってこと?」
「そういうことになるわね」
青潟は悪びれることなく頷いた。
「どうしてそんなことを……」
「簡単よ。あなたに瑞穂の推薦枠を取られると困るのよ」
「……理由は?」
青潟は笑顔のまま、右手を自分の頬に添えた。
「世の中には世間体という言葉があるの。世界的にビジネスを広げる藤宮家。その懐刀と呼ばれた青潟家の娘が、推薦すら取れず一般受験に回る凡才だと広まれば、面目が立たないわ」
「そんなの……正々堂々と私に勝てばいいだけの話じゃない!」
「ごめんなさいね、私はこう見えて忙しいの。柚木さんと違って、勉強よりも優先しなければならないことが沢山あるのよ」
その言葉に、叶は眉を寄せた。
「だからって、そんな勝手な……」
「もちろん、ただで譲ってもらおうとは思っていないわ」
青潟はそう言うと、制服のポケットから一枚の長方形の紙を取り出し、叶に差し出した。
「はい、これ」
「これは?」
「見慣れないでしょ? 白地小切手よ」
「小切手……」
その言葉で、これがなにを意味するのか、叶はすぐに理解する。
それを見透かしたように青潟は「どうぞ」と言わんばかりに、小切手を更に前に差し出す。
「好きな金額を書いていいわ。青潟家はビジネスとしては藤宮家の一歩後ろを歩くけど、財力はその比じゃないの」
叶は白紙の小切手を見つめたまま動けなかった。
金額欄には何も書かれていない。
自分で書いた数字が、そのまま振り込まれる。
そんな世界が本当にあるのだろうか。
「あなたは身寄りがなく、お一人で生活しているのでしょう? 進学にも、その後の生活にも、お金はいくらあっても困らないはずだと思うけど」
その一言で、叶の表情が強張る。
青潟は悪びれる様子もなく続けた。
「順位を一つ譲るだけで、あなたはまとまったお金を手に入れられる。私は推薦をいただける。お互いに利益のある、ただの取引。なんなら、瑞穂の学費を肩代わりしてもいいわ」
学費。
その言葉が、叶の視線を再び小切手に向かわせる。
叶が推薦にこだわる理由は学費だ。
父母が亡くなり、保険金や蓄えで叶が成人するまでの生活費は問題無い。
だがそれは、あくまで慎ましく生活した場合の話だ。
名門私立である瑞穂学園の、学費、制服代、教材費まで含めれば、卒業する頃には蓄えの大半を失うことになる。
「ほら、遠慮せずに書いて」
急かすように青潟が一歩前に出る。
安定した未来が、更に近づいてきた。
叶が何度も電卓を叩いて頭を悩ませた金額が、そこに書き込むだけで手に入る。
余程のことがない限り、一般入試で落ちることは考えにくい。
次のテストで手を抜く。それだけで瑞穂へ進学できる。
卒業後のことまで心配せずに済む。
——なによりも、新と一緒にいられる。
叶の指がぴくりと動いた。
ほんの僅かに、けれど確実に、その手が小切手へ伸びていく。
そう、この条件を呑めば、むしろ新と瑞穂に行ける確率が高くなる。
このまま、ずっと一緒に……新と……。
頭の中に新の顔が浮かぶ。
そして、叶に笑いかけた。
『叶、頑張ろうな』
自習室で新が叶に送った言葉を思い出す。
小切手に伸びかけていた叶の手が止まった。
「……いらない」
「……は?」
予想外の返事だったのか、青潟の笑みが僅かに引き攣った。
「どういうこと?」
「お金なんていらない。私は自分の力で推薦を勝ち取って――」
叶のエメラルドのような瞳が、真っすぐ青潟を捉えた。
「――正々堂々と瑞穂に行く」
数秒の沈黙の後、青潟は不快そうに溜め息をついて小切手を破った。
「そう、せっかく穏便に済ませてあげようと思ったのに」
青潟の表情からは、穏やかさが消えていた。
「素直に受け取っておけばいいものを……本当に目障り」
「あ、青潟さん?」
「いつもいつも、金魚の糞みたいに藤宮君に纏わりついて……あぁ、そうか」
青潟はにやりと笑う。その目は、叶を蔑むように冷めていた。
「孤児だから、必死なのね。藤宮君の家に取り入っておけば、将来も安泰だもの」
「違う! 私はそんなつもりで新と一緒にいるんじゃない!」
「口ではいくらでも言えるわ。幼馴染という立場に甘えて、いつまでも傍に纏わりついて。いずれは藤宮家の一員にでもなるつもり? いい機会だから教えてあげる」
一拍置いて、青潟はまた叶へ一歩距離を詰める。
叶は思わず、一歩後ろへ下がった。
「藤宮君は、ただあなたが可哀想で目をかけてるだけ。あの人の隣にふさわしいのは、この私。ようするに身を弁えなさいってこと」
「……勝手なこと、言わないで……」
「勝手じゃないわ。藤宮家と青潟家、双方がより密接になれば、今以上に大きな利益を得られる。私なら、藤宮君の隣に立つだけで、あの人の力になれるの」
青潟はそこで言葉を切り、叶を値踏みするように見つめた。
「それで、あなたは?」
「……え?」
「あなたは藤宮君に、何を与えられるの?」
叶の唇が、わずかに開く。
しかし、すぐには言葉が出てこなかった。
「家もない。財も、後ろ盾もない。あの人に守ってもらうばかりで、何一つ返せないでしょう?」
「そんなこと……」
「ないと言い切れる?」
青潟は逃げ道を塞ぐように、一歩ずつ叶へ近づいてくる。
その度に叶は一歩ずつ後ろへ下がる。
「寂しい時には傍にいてもらって、困った時には助けてもらう。それを大切にされていると勘違いして、いつまでも藤宮君の優しさに縋りついている」
「新は、そんなふうに思ってない……」
「ええ、あの人は優しいもの。たとえ重荷になっていても、可哀想なあなたには絶対に言わないでしょうね」
叶の胸を、見えない刃が深く抉っていく。
下がり続けた叶の背中が、壁にぶつかる。
青潟は逃げ場を失った叶の耳元へ顔を寄せた。
「藤宮君があなたを必要としているんじゃない。あなたが藤宮君なしでは生きられないだけよ」
叶は言葉を返さず、そのままへたり込む。
それを見下ろした青潟は、くすっと笑った。
「まぁいいわ。勝負は一週間後の期末試験……そこで嫌でもわかるでしょう……」
青潟は叶の横をすり抜け、そのまま教室の出口へ向かう。
「藤宮と青潟の関係が悪くなれば、多大な損失が出るわ。藤宮家に迷惑をかけたいのであれば、告げ口してまた守ってもらえばいいわ」
そう言い残して、青潟は教室を出ていった。
扉が閉まる。
遠ざかっていく足音を聞きながら、叶はその場で膝を抱いた。
青潟の言葉が頭の中で何度も響く。
『あなたは藤宮君に、何を与えられるの?』
『あの人に守ってもらうばかりで、何一つ返せないでしょう?』
言い返せなかった。
なぜなら、一瞬だが彼女の言う通りかもと思ってしまったからだ。
だが……そんなこと、絶対に認めたくなかった。
「……違う……違うもん」
抱いた膝に顔を埋めて、叶は震える声で呟いた。




