ざわめき消えた午前九時
ざわついた心を抱えたまま、叶は休日でも校舎にいた。
受験を控えた三年生に限って、開放される学校の自習室でただ一人、ひたすらにペンを動かす。
ふと、時計を見る。
まもなく午前九時。
午前七時に入って、既に二時間が経とうとしていた。
ふと、ペンが止まる。
頭の中には、先日の青潟と新が会話している光景が蘇った。
その時だ。
自習室の扉が開き、聞き慣れた声が耳に入った。
「おっいたいた」
弾かれたように顔を上げた叶の瞳には、新が映った。
「新……どうして?」
「ここに叶がいると思ってな」
新は叶の向かい側に椅子を引いて、腰を下ろした。
「最近、根詰め過ぎだぞ? 昨日も遅くまで勉強してただろ」
「だって……」
「焦るのもわかる。いくら正念場とはいえ、少しは肩の力を抜く時も作らないと」
「それは……そうだけど……」
新の言っていることは理解できる。
けれど、自分が休んでいる間にも、青潟は机に向かっているかもしれない。そう思うと、問題集を閉じることなどできなかった。
今ある差は、ほんのわずかだ。
少し立ち止まっただけで、追いつかれてしまいそうな……そんな焦燥感が毎日叶のペンを走らせている。
「……私が休んでいる間にも、青潟さんは勉強してるかもしれないから」
叶の言葉を聞き、新は机に広げられたノートへ目を落とした。
「青潟か……確かにあいつも推薦希望だったな」
「うん。少しでも気を抜いたら抜かれちゃうから……」
一瞬迷った後に、叶はペンを握る力を強めた。
「新、昨日青潟さんと、どんな話をしてたの?」
「どんなって……推薦の対策を教えてほしいとか、好きな食べ物……あと、明日一緒に図書館に行きませんかとか」
「明日ってことは今日ってことだよね……それじゃ、このあと一緒に図書館に行くの?」
叶が考えるより先に問い返すと、新は目の前に広げられた叶の問題集へ視線を落としたまま、すぐに答えた。
「断ったよ」
「……え?」
「だって、俺は叶を応援してるから」
叶は目を瞬いた。
「青潟さんより、私を?」
「当たり前だろ」
「ど、どうして? 家同士の付き合いとか、あるんじゃないの?」
「んなこと俺には関係ねぇよ。親の仕事と、俺が誰を応援するかは別だろ」
新は腕を組んで、苦い表情を浮かべた。
「それに青潟と話すと、どうにも落ち着かないんだよ。何を話してても家柄とか両家の付き合い方とか、そういう話になるし……なーんか気が疲れるんだよな……あっ! これ内緒な!」
人差し指を口元に立てる新の言葉に、叶の胸の中でなにかが溶けていくように、じんわりと温かくなる。
そして新は叶の目を見て笑いかけた。
「だから叶、頑張ろうな」
その瞬間、叶の胸の奥が大きく跳ねた。
この笑顔が、先程までの不快なざわめきを吹き飛ばしてくれる。
同時に違った感情が、叶の心を満たした。
――やっぱり、私は新が好き。
風通しの良くなった胸の内で呟いたその時だ。
自習室の扉が再び開いた。
「……あら?」
聞こえてきた声に、叶の肩がわずかに強張った。
艶のある茶色い髪を揺らしながら、青潟が自習室へ入ってくる。その視線は新を捉えたあと、向かいに座る叶へと移った。
「青潟。おはよう」
「藤宮君、それに柚木さんもおはよう。昨日は藤宮君に図書館へのお誘いを断られたから、今日は忙しいのかと思ったわ」
「悪いな。でも、叶と勉強する予定だったんだ」
「……そう」
短く答えると、青潟は叶の隣から一つ離れた席へ鞄を置く。
中から問題集を取り出そうとすると、何かを思い出したかのように手を止めた。
「ああ、そういえば私、柚木さんに少し相談があるの」
「私に?」
「ええ。女子にしか聞けない悩みだから、できれば場所を移して二人きりでお話させてもらえないかしら?」
青潟は新を一瞥してから、自習室の外へ視線を向ける。
「勉強の邪魔にならないよう手短に終わらせるから」
「……うん。わかった」
何の話だろう。また、新のことかな?
胸に小さな不安を覚えながら、叶は椅子から立ち上がる。
そして一度新と目を合わせてから、青潟と共に自習室を後にした。




