青潟綾乃という女
柚木叶、稲荷ヶ丘中学三年の時だった。
すっかり冷え込んだ十一月下旬。
雪こそまだ降っていないが、外は制服だけでは心許ない日々が続いていた。
「か、叶……私はもう駄目だ……」
昼休み、叶の机で共に二学期の期末テストの追い込みをしていた麻が力尽きたように突っ伏した。
「期末は来週だよ麻ちゃん」
「そうは言ってもさぁ〜点Pがじっとしてくれないんだよぉ〜」
恨めしそうに問題集を睨む麻に、叶は優しく微笑んだ。
「ほら、一緒に瑞穂に行くんでしょ? もう一回、一緒に頑張ろ」
「うぅ……いいな〜叶は。あの瑞穂に推薦でしょ?」
「まだ決まったわけじゃないよ。ここで油断して点数を落としたら、推薦だってどうなるかわからないんだから」
「叶なら、一般でも余裕っしょ〜」
「そういう問題じゃないの」
叶は首を横に振った。
「孤児の私に瑞穂の学費を払う余裕なんて無いから、学費が免除される特待生推薦じゃないと、瑞穂には進学できないの」
「そっかぁ……でも、そこまでしてどうして瑞穂に……って聞くのは野暮かぁ」
机に突っ伏したまま、麻はちらりとある方向へ目を向けた。
その先には、窓側から二列目の席で智也と話す新がいる。
麻は意味ありげに笑うと、再び問題集へ顔を戻した。
「私は点Pよりも、叶の恋路の動向が気になるなぁ」
「もう! いいから続きやるよ! 麻ちゃんも瑞穂落ちたらバンドやめさせられるんでしょ!」
「あ、話逸らした」
誤魔化すよう、叶が問題集に再びペンを走らせようとした時だった。
「柚木さん」
聞き慣れた声に振り返る。
そこには同じクラスの女子生徒、青潟綾乃が立っていた。
「青潟さん?」
「勉強中にごめんなさい。実は柚木さんに聞きたいことがあって」
「え? なに?」
「突然なんだけど、藤宮君のことで聞きたいことがあるの」
「あ、新のこと?」
叶は一瞬、新を見る。
青潟は「そう」と言って、にこっと微笑んだ。
「藤宮君の好物を教えてくれない?」
「新の……好物?」
「うん。藤宮君の進路って瑞穂学園に推薦じゃない? 成績も学年一位、うちの学校のふた枠ある瑞穂推薦の一つは確実に藤宮君だと思うの」
青潟は胸の前で両手を合わせた。
「そこで私も、藤宮君と一緒に推薦で瑞穂に行けたら素敵だなって!」
まるで、二人で進学することがすでに決まっているかのような言い方に、叶はすぐに言葉を返すことが出来なかった。
だが、青潟は別に叶の返事を待っているわけでもなく、そのまま続けた。
「それで、今のうちに藤宮君のことをもっと知っておきたくて、今度、藤宮君の好物でお弁当を作ってきてあげたいの。あとは好きな食べ物だけじゃなくて、好きな色とか、よく読む本とか、休日にどこへ行くのかとか。知ってることがあったら、全部教えてほしいのよ」
青潟は屈託なく微笑んでいる。
叶の胸の内は瞬く間に締め付けられていった。
「それはどうかな?」
不意に、机へ突っ伏していた麻が顔を上げた。
「紅林さん?」
青潟が笑みを崩さないまま首を傾げる。
「叶は藤宮の取扱説明書じゃないんだけど」
「そんなつもりで聞いたわけではないのよ。ただ、仲の良い柚木さんなら詳しいと思っただけ……でも、気を悪くしたのなら謝るわ」
「ふぅん」
麻は頬杖をつきながら、青潟をじっと見つめた。
「でもさぁ、そう簡単にはいかないと思うよぉ?」
「え?」
「叶も瑞穂の推薦を目指してるもん」
「まぁ……そうだったの」
青潟は叶を一瞥すると、さして気に留めた様子もなく、静かに髪を耳へかけた。
「なら、お互いに頑張りましょうね」
青潟はふと新の方へ視線を向けた。
「今の件は忘れて? 藤宮君には私から直接聞くから」
そう言って青潟は、新のもとへ歩いていった。
「藤宮君、ちょっといい?」
青潟が声をかけると、新も気さくに応じる。
その様子を遠くから眺めることしか、今の叶にはできない。
楽しそうに笑い合っている。
胸の内に焦燥感が渦巻く。
そんな叶の向かいで、麻も新と青潟の会話を眺めながら口を開いた。
「青潟の家ってあれでしょ? 藤宮の家と昔から付き合いのある会社のトップなんだよね?」
「うん。かなり大きな取引先だって、新から聞いたことがある」
「ふーん……随分と陰湿だねぇ……」
「な、なにが?」
「なんでもぉ……」
そう言って麻はペンを握った。
「さ、勉強の続きしようか。叶の推薦のためにも」
「……そだね」
叶もペンを握り直す。
けれど、さっきまで解けていたはずの問題が、なぜか少しも頭に入ってこなかった。




