場所が変わっても約束は約束
紬の部屋に入ったのは久しぶりだった。
兄妹といえ、いや兄妹だからこそむやみにプライベート空間を侵すべきではないというのが、新の考えだったからだ。
しかし今は、そんなことを言っている場合ではない。
新はベッドの横の椅子に腰掛け、膝の上で開いた本のページを捲る。
ベッドの上では、パジャマ姿の紬が眠っていた。
「……ん」
紬の瞼がピクリと動く。
そしてうっすらと目を開けた。
「……あれ……私……」
「おはよ、紬」
新が優しく声をかけると、紬はゆっくりと顔を向けた。
「お兄様?」
「気分はどうだ?」
「……だいぶ良くなりました」
「嘘つけ」
ここまで来てまだ強がる妹に、新は呆れた様子で笑った。
「着替えは叶にお願いしたから安心しろ。心配してたぞ」
「あの……お兄様。今何時ですか?」
「今? もうすぐ昼の一時だけど」
「え……えぇ!?」
紬は大きく目を見開いた。
「早く学校に行かないと……」
身体を起こそうとする紬の肩を、新は優しく押さえた。
「馬鹿、三十九度もあったんだぞ」
「で、でも瑞穂祭の準備が……」
「学校には俺が連絡入れておいたから気にすんな」
「それじゃ皆に迷惑が……あれ?」
紬はなにかに気がついたように、新を見たまま固まった。
「どうしてお兄様もいるのですか? 学校は?」
「こんな状況で、紬を一人にしておけるわけないだろ?」
「でも、明日は瑞穂祭なのに……お兄様にも準備があるでしょう?」
「俺の方は、今日一日抜けてもどうとでもなる」
「私は立場上そういうわけには……」
食い下がる紬に、新はため息をついて読んでいた本をパタンと閉じてベッドの端に置いた。
「もし立場が逆で、高熱の俺が学校に行きたいと言ったら紬は行かせるのか?」
「絶対に許しません」
新は「だろ」と笑った。
「今紬がやるべきことは、そこで横になることだ。俺は傍にいるから安心しろ」
紬はまだ何か言いたそうに新を見つめていた。
しかし、返す言葉は見つからなかったらしく、観念したように身体を横たえ、布団を被った。
「紬、なにか食べたいものはあるか?」
「……いえ、お兄様と一緒のものを……」
「……そうか。リクエストがあったら遠慮なく言えよ」
その言葉に対して紬から返事はない。
表情は浮かないままだ。
「お兄様……私、明日も行けなかったらどうしましょう」
「弱気になるなよ。病は気からってよく言うだろ?」
「でも……」
紬は布団をギュッと握った。
「私が自由に瑞穂祭を回れるのは明日だけなんです。だから、お兄様と一緒にいれるのも明日だけだった……のに……」
その声は掠れ、震えていく。
そして紬の瞳から、雫がこめかみを伝った。
「良い瑞穂祭にしようって……皆の素敵な思い出になるようにって……眠くても、辛くても頑張ってきたのに……なのに大事なところで役に立たない……」
「紬……」
紬の瞳から次々と涙がこぼれる。唇を噛み締め、必死に嗚咽を堪えていたが、一度溢れ出した感情は止められなかったようだ。
「頑張ったのに……どれだけ嫌な気持ちになっても、耐えたのに……お兄ちゃんと……回りたかったよぉ……」
堪えきれなくなり、紬は布団で顔を隠して肩を振るわせる。
押し殺せない泣き声が漏れだした。
新はすぐに声をかけない。
少し嗚咽が落ち着くのを待ってから、口を開いた。
「じゃあもし紬が明日行けなかったら、俺も一緒にいるよ」
「……え?」
「俺も休む。だって紬との約束だからな」
「約束?」
「『文化祭の一日目、お兄様の時間をください』って言ったのは紬だろ?」
紬は顔を隠していた布団をほんの少しだけずらし、涙に濡れた瞳だけを覗かせた。
「でも、それは……瑞穂祭を一緒に回りたいという意味で……」
「わかってるよ」
新は椅子から立ち上がると、紬の顔を覗き込むように身を屈めた。
「けど、場所が学校じゃなくなったからって、約束がなくなるわけじゃないだろ?」
「……お兄様」
「明日になって熱が下がったら、一緒に瑞穂祭を回る。もし下がらなかったら、俺もここに残って紬と過ごす。それだけだ」
「そんな……駄目です。私のせいで、お兄様まで瑞穂祭に行けなくなるなんて……」
「紬のせいじゃない」
新は布団の端をそっと顎の下まで下げ、露わになった紬の頬に手を添えた。
「俺がそうしたいんだよ」
その言葉を聞いた途端、紬の口元がくしゃりと歪む。
それでも込み上げる嗚咽を飲み込み、震える唇を開いた。
「でも……叶お姉様や、稲荷坂先輩……他のクラスメイトの先輩方に申し訳が……」
「あいつらなら事情を話せばわかってくれる。だから今は、明日の心配じゃなくて、身体を治すことだけ考えろ」
「……本当に、傍にいてくださるのですか?」
「何度言わせるんだよ。紬が学校に行けても、行けなくても一緒にいるよ」
紬の瞳からさらに大粒の涙が溢れ出す。そして、縋るように頬に添えられた新の手を両手で包み込んだ。
「お兄ちゃん……お兄ちゃん」
「紬、よく頑張ったな。もう少し早く俺も動けば良かった……ごめんな」
「お兄ちゃんは……悪くないよぉ……」
「紬は本当に優しいな。その優しさを自分にもわけてやろうな」
「うぅ……うぅ……」
「ほら、今はゆっくり休め」
新が紬の目元の涙を親指で拭うと、紬の両手から力が抜けた。
頬に添えていた手をそっと離し、新が椅子へ戻ろうと身を起こしたその時、紬が服の裾をきゅっと掴んだ。
「……お兄ちゃん」
「ん?」
「紬……ハンバーグが食べたい……チーズの乗ってるやつ……」
勇気を出したリクエストに、新は一瞬目を丸くしてから笑った。
「あぁ、飛び切り美味いのを作ってやるよ」
紬も嬉しそうに頬を緩めて、手を離す。
すると、新のスマホが鳴った。
画面には、叶の名前が映っていた。
「……電話ですか?」
「あぁ、叶だ」
新は通話ボタンを押し、スマートフォンを耳へ当てた。
「もしもし?」
『新? 今、家の前にいるんだけど……入っても大丈夫?』
「家の前?」
新は思わず窓へ顔を向けた。
『うん。ちょうど買い出しに出てたから、その足で紬ちゃんのお見舞いに来たの。御言と智也君も一緒だよ』
「悪いな。ちょっと待ってくれ」
新はスマホを耳から離して、マイクをオフにした。
「紬、叶と御言、それに智也が見舞いに来たけど部屋に入れても大丈夫か?」
「……それは構いませんけど、こんな格好で大丈夫でしょうか?」
「病人なんだから、その格好が正しいんだよ。じゃあ上がってもらうな」
マイクをオンにした新は、スマートフォンを再び耳に当てた。
「お待たせ、上がってもらってもいいか?」
『わかった。じゃあ私が持ってる合鍵でお邪魔するね』
通話を終えてほどなく、一階から玄関の開く音が聞こえた。
続いて、何人かが階段を上がってくる足音が近づき、紬の部屋の前で止まると、控えめなノックが響いた。
「新、入っても大丈夫?」
「あぁ」
扉の向こうの叶の声に新が答えると、扉がゆっくりと開く。
まず見えたのは叶の姿。しかし先に飛び込んで来たのは、その左右にいた御言と智也だった。
「紬! 大丈夫!?」
「稲荷坂先輩、ありがとうございます。成瀬先輩も……」
「紬ちゃん! 大丈夫か!? いろいろ買ってきたぞ!」
智也の両腕には、果物や飲み物の入った紙袋がいくつも下げられている。脇には菓子箱を挟み、右手には小さな花束まで握られている。
それはもう、一人の見舞いに持ってくる量ではなかった。
「智也君、買いすぎだって止めたんだけどね」
最後に部屋へ入ってきた叶が苦笑しながら、新の横につく。
智也は気にした様子もなく、見舞いの品々を下ろし、次々に中身を取り出した。
「りんご食べる!? それとも桃!? ゼリーとプリン、あとスポーツドリンクも!」
「ありがとうございます成瀬先輩。あとでゆっくりいただきます」
病人に気を使わせた智也は、申し訳なくなるどころか、嬉しそうに表情を明るくした。
「遠慮しなくていいからな! そうだ! 夕飯はなにか――」
「いえ、それは結構です」




