瑞穂祭前日
いよいよ瑞穂祭を明日に控えた朝。
新はいつもより一時間以上も早く、ベッドから起き上がった。
階段を降りる。
その途中で良い香りが鼻腔を擽った。
新は小さく溜め息をつく。
いつもなら安心するこの香りも、最近では新の悩みの種になっていた。
一階に降りた新が最初に向かったのはキッチン。
そこには制服にエプロンをつけた紬の後ろ姿があった。
「おはよ紬」
「おはようございますお兄様」
そう言って紬は振り返る。
声はいつもと同じに聞こえるが、その表情は違う。
いつものように柔らかな笑みを浮かべているつもりだろうが、目元には酷い隈がある。
頬もやつれ、心なしか痩せたように感じた。
「紬、瑞穂祭が落ち着くまで家事は俺がやるって何度も――」
「大丈夫です」
遮るように紬はそう言った。
「お兄様、今日は卵焼きが上手く焼けたんですよ」
菜箸で卵焼きを弁当に詰めていく紬に、新は距離をゆっくり詰める。
「……無理するな」
「無理などしていませんよ? それよりもお兄様、遂に明日は本番ですね」
「紬……」
「紬、お兄様と一緒に回るのを楽しみにしてたんです。いろんなところを回りましょうね」
「紬、話を――」
「そうだ! 午後の部の叶お姉様のライブは舞台袖で見れることになったんです! 本当ならお兄様の隣で見たかったのですが……見れるだけでもラッキーだと思わなきゃいけませんね」
明るく弾んだ声とは裏腹に、紬の手元がおぼつかない。
卵焼きを挟んだ菜箸が震え、弁当箱の縁に小さくぶつかった。
新はそれ以上何も言わず、菜箸を握る紬の手首を掴んだ。
「お、お兄様?」
「俺がやる。休んでろ」
「で、でも……」
「いいから」
有無を言わせず、新は紬から菜箸を取り上げて、手首を離す。
紬は少し俯いて、一歩下がった。
「できたぞ。あとは朝飯食って、少しでも休め」
「ですが、まだお味噌汁が……」
「それも俺がやる」
先回りするように答えると、紬は困ったように視線を彷徨わせた。
「で、ではお願いします。私は瑞穂祭の仕事を……」
「学校に行くまで触るな」
「ど、どうしてですか?」
「紬」
少しだけ強く名前を呼ぶ。
紬は口を噤んでリビングのソファに座った。
二人分の弁当を包み終え、味噌汁を作るため水を張った鍋を火にかけると、新は紬のもとへ向かう。
紬はソファに浅く腰掛け、近づいてくる新を不安そうに見上げていた。
新はその前で腰を曲げて、紬と目線の高さを合わせる。
そして両手で紬の頬を挟み、もにもにと揉み始めた。
「ひゃ、ひゃにするんでしゅか……おにーしゃま」
「大切な妹を労わってる」
「お、おにーさま」
戸惑いを隠せない紬だが、新の手を剥がそうとはしない。
その頬から伝わる熱に、新は眉を寄せた。
「紬……」
「はい?」
頬から片手を離し、今度は紬の額に手を当てた。
「やっぱり熱い……熱があるな」
「そ、そんなことありません。きっとさっきまで料理をしていたから……」
「それだけでこんな熱くなるか。とりあえず、体温計は……」
新は立ち上がって体温計を探す。
その背に紬が慌てて声をかけた。
「だ、大丈夫です! なんともありませんから!」
「それは体温を測ればわかる」
「も、もし熱があったら?」
「休ませるに決まってるだろ」
「そんな!」
紬は勢い良く立ち上がった。
「瑞穂祭は明日……今日、紬が休んだら多くの人に迷惑が……」
「だからといって、『じゃあ行ってらっしゃい』と言うと思うか?」
「で、でも! 紬は大丈夫ですから!」
紬は急いで鞄を左肩にかけた。
「もし心配なら今から学校へ行って、早く帰れるように仕事をしてきます!」
「紬!」
「大丈夫ですお兄様! 少し疲れが溜まってるだけですから……万が一のために薬も持っていますから!」
早口で言い切った紬は、新の返事を待たずに踵を返した。
そのまま逃げるようにリビングを出て、玄関へ向かう。
「おい、紬!」
「行ってきま――」
その時だ。
突如、紬の足が止まった。
肩に掛けた鞄がずり落ち、床に鈍い音を立てた。
「……あ、あれ?」
直後、紬の身体がぐらりと傾いた。
「紬!」
新が駆け寄ると同時に、紬の膝から力が抜ける。
床へ崩れ落ちる寸前、小さな妹の身体を新が両腕で受け止めた。
「おい……大丈夫か!」
紬は苦しそうに顔を歪めたまま、浅い呼吸に合わせて肩を上下させていた。
「お兄様……つ、紬は……大丈夫、ですから……」
安心させようと紬は笑う。
しかし、力なく持ち上がった口角はすぐに崩れ、耐えかねたように新の胸元へ頭を預けた。




