向けられるもの
瑞穂祭の準備が始まって一週間。
初日に感じた忙しさなど、ほんの序の口だった。
準備が本格化し、午前の授業が終われば昼食を取って放課後まで瑞穂祭の準備となる。
昼休みを知らせる鐘が鳴ると、クラスメイト達はいつものように弁当や購買で買ったパンを口に運び始めた。
しかし紬は違う。
昼休みが始まるや否や、鞄から弁当箱を取り出すこともなく、席を立って教室の出口へ向かった。
「藤宮さん、お昼食べないの?」
背後から一人の女子生徒が紬に声を掛ける。
立ち止まって、いつものように柔らかな笑みを向けた。
「瑞穂祭の仕事が溜まっていて……それを終わらせてからいただきます」
「そんなこと言って、昨日も一昨日も食べてなかったじゃん。ちゃんと食べなきゃ駄目だよ?」
「ありがとうございます」
女子生徒に背を向けて、紬は教室を後にする。
まずは職員室へ、瑞穂祭の書類を渡しに行く。
しかし、動き始めているのは紬だけではない。
「藤宮さん、一年六組の申請書なんだけど、調理器具の欄が空白になってる」
「確認して、クラスの担当者に連絡しておきます」
「藤宮さん。体育館のリハーサル時間、吹奏楽部から変更したいって」
「変更後の希望時間は聞いていますか?」
「藤宮さん、これってどこに提出すればいい?」
「私が預かります」
職員室へ向かう途中、すれ違う度に声をかけられた。
そのたびに紬は、足を止めて微笑みながら対応する。
ようやく職員室に着いたころには、教室から持ち出した書類より預かった書類の方が何倍も多くなっていた。
こんなことがほぼ毎日起きる。
「失礼します。一年三組、藤宮紬です」
紬が提出した書類に、教師はさっと目を通して、「うん」と満足そうに頷いた。
「藤宮さんがいてくれて、本当に助かるわ。瑞穂祭ってここらじゃちょっとした名物だから、毎年かなりの人が来るの。その分、生徒達の気合も入って他校の文化祭と比べて、準備も大変なのよ」
「私もこの街の生まれですから、瑞穂祭に携われるのをずっと楽しみにしてました」
「それなら今年の瑞穂祭はもっと良い物になるわね。なにせ、入学したばかりでこれだけ動ける実行委員がいるんだもの」
「そんな、大袈裟です」
「大袈裟じゃないわ。先生達の間でも評判よ。藤宮さんに任せておけば安心だって」
謙遜しつつも、紬の中では確かに高揚するものがあった。
褒められた。
今回も期待に応えられた。
ならば、次も応えなければならない。
それを続ければ続けるほど、理想の藤宮紬が形成されていく。
「あぁそうだ。帰る間際にもう一つ頼んでもいい?」
「もちろんです」
教師は机の脇に置かれていた分厚いファイルを持ち上げ、紬へ差し出した。
「藤宮さんの負担にならない範囲で構わないんだけど、このまま一年生全クラスの取りまとめをお願いできないかな」
「一年生、全クラスですか?」
「うん。瑞穂祭の申請書類って教師の私から見ても複雑でしょ? これが各クラスから提出された企画書と各種申請書なんだけど、まだ記入漏れや不備が多くてね」
差し出されたファイルは、紬が両手で抱えなければならないほど分厚く、大量の付箋が挟まれている。
「本当は各クラスの実行委員が自分のクラスを担当するんだけど、まだ慣れていない子も多くてね。藤宮さんが一度目を通してくれると助かるんだ」
教師は申し訳なさそうに続ける。
「もちろんその作業も一人では大変だと思うから、そこは各クラスの実行委員会と分担して――」
「いえ」
紬はファイルを受け取った。
腕にずしりと重みが加わる。
「私一人で十分かと思います」
「え? 一年生全部となると相当な量だよ?」
「問題ありません。確認項目はほとんど共通していますから、私が一括して処理した方が早いと思います」
「……そう、ならお願いしようかな。でも無理はしないでね」
「わかりました」
分厚いファイルと他の書類を抱えた紬は、出口の前で「失礼します」と礼をして職員室を出る。
その直後、視界の外から声をかけられた。
「あ、いたいた! 藤宮さん!」
声のした方へ振り向くと、一人の男子生徒が小走りで駆け寄って来る。
制服の襟につけられた学年章は、紬と同じ色だ。
「一年一組なんだけど、うちの申請書ってもう確認してくれた?」
「……すいません。順番に確認中で」
「えーでも、早く経費の承認してくれないと困るんだよね」
「お気持ちはわかりますが、他のクラスも同じです。提出された順に処理してますので……」
男子生徒は不満そうに眉を寄せて、短く溜め息をついた。
「じゃあ、今日中にお願いね。あとこれ、夜間使用の申請書」
男子生徒は一枚の申請書を、紬が抱えるファイルの上へ乗せて帰って行った。
「……さてと」
紬が歩き出そうとした、その時だった。
「藤宮さん、ちょっと待って」
今度は背後から女子生徒に呼び止められる。
振り返ると、二人組の女子生徒が不機嫌そうな表情でこちらへ歩いてきた。
「うちの申請書、戻ってきたんだけど」
女子生徒は一枚の用紙を、紬の目の前へ押し付ける。
申請書には、赤い付箋がいくつも貼られていた。
企画内容の記載不足。
必要経費の計算間違い。
担任が押す承認印もない。
「こちらは、記入に不備がありますので――」
「それは見ればわかるよ」
紬の説明を遮り、女子生徒は苛立ったように腕を組んで靴の爪先で床を小刻みに叩いた。
「これくらいそっちで適当に直してくんない? こっちも忙しいんだけど」
「……すいません。でも規則ですので」
「規則、規則ってさぁ」
女子生徒は舌打ちを挟んだ。
「ちょっと書き直すだけじゃん。藤宮さんが直したって、誰にもわからないでしょ?」
「申請内容は、各クラスの担任が確認したうえで提出する決まりです。こちらで勝手に変更することはできません。不足している項目を記入して、担任から承認印をいただいてから再提出してください」
決して柔らかな表情は崩さず、紬はやさしく申請書を差し返す。
少し間を置いた後、女子生徒は申請書を乱暴に取り上げ、紬に背を向けた。
「……行こ」
そう言って二人の女子生徒は来た道を戻っていく。
「マジで調子乗ってるよね。うざ」
背中越しに、吐き捨てるような声が確かに紬の耳に届いた。




