夕を過ぎて
瑞穂祭の準備は一日目から、想像以上にハードだった。
紬が立候補した瑞穂祭実行委員会の打ち合わせは、予定よりも大幅に遅れて終わったが、今日中に終わらせなければならない仕事は、それだけではない。
飲食を扱うクラス。
展示を行うクラス。
教室を使わず、中庭や体育館での発表を希望するクラス。
それに加えて有志発表の申請一覧にも目を通さなければならない。
ひと口に催し物と言っても、必要な申請や確認事項はそれぞれ違う。火気を使うか、音響設備が必要か、食品を扱うなら衛生面の届出も必要になる。
まだ本格的な準備段階ではないのにも関わらず、そのタスクの濃さに、紬は面を食らっていた。
「藤宮さん、遅くまでありがとうね」
「いえ、それではこれで失礼します」
本日最後の作業の完了を担当の教師に連絡した頃には、窓の外は既に淡い藍色となっていた。
紬は少し小走りで玄関へ向かう。
早く帰らないと……きっとお兄様がお腹を空かせて待っている。
新は紬が帰ってくるまで夕飯に手をつけない。
もちろん逆の立場だったら、紬も新が帰ってくるまで待っている。
だからこそ、申し訳ない。
待っていてくれることは嬉しい。
同じ食卓で「いただきます」と声を揃え、共に手を合わせられることは、紬にとって大切な時間だ。
けれど、それは新を空腹のまま待たせていい理由にはならない。
基本、食事は紬が作っているが、紬が遅くなる時は頼まずとも新の手料理が食卓に並んでいる。
本音を言えば、毎日自分の作った料理を食べてもらいたい。
しかし、その我を通したせいで新を空腹のまま待たせてしまえば、瑞穂祭まで藤宮家の夕食は毎日のように遅くなってしまう。
それでは本末転倒だ。
紬が作ることよりも、新にきちんと食事を取ってもらうことの方が大切なのだから。
「……急がないと」
小さく呟き、紬は玄関にたどり着く。
すると、自分の下駄箱の前に一人の生徒が立っていた。
銀色の髪を揺らしながら、こちらを見つけたその少女がぱっと顔を明るくする。
「紬!」
「稲荷坂先輩?」
手を振る御言に、思わず足が止まる。
てっきり新や叶と一緒に帰っているものだと思っていた。
「どうして、ここに?」
「紬を待ってたんだ」
あまりにも当然のように言われ、紬は一瞬言葉に詰まった。
「私を?」
「うん。実行委員会で遅くなるって聞いたから。新が心配してたよ」
そう言って御言は、ニコッと笑った。
「一緒に帰ろ! 紬」
「わ、私と?」
「うん! 早く帰りたいでしょ? 車待たせてあるから、乗ってって」
「で、でも、稲荷坂先輩の家とは逆方向じゃないですか。時間も遅いし」
「何言ってるの? そんなこと気にしない気にしない!」
御言は紬の背後に回って、背中を押した。
「ほらほら、新と叶が待ってるよ!」
「あ、ちょっと!」
半ば強引な御言に連れられ、紬は外履きに履き替えて外に出る。
門の前には黒塗りの車が停めてあった。
後部座席のドアの前で運転手が、姿勢良く立っている。
初老の男性だ。紬と御言が近づくと、静かに頭を下げた。
「お疲れ様でございます。御言様、藤宮様」
運転手に御言が、少し申し訳なさそうに答えた。
「いつもありがとね。助かるわ」
「とんでもございません。稲元家の者として、御言様に仕えることがどれほど光栄か」
「大袈裟」
御言が笑うと、運転手は浅い会釈をして「どうぞ」と後部座席の扉を開いた。
「さぁ紬、乗って?」
ここまできて「結構です」とは言えない。
御言との同乗を拒みたいわけではなく、ただ自分のせいで車を遠回りさせることへの申し訳なさが勝ってしまう。
「本当に、よろしいのですか?」
「もちろん。ほら、乗って乗って」
御言に促され、紬は観念して後部座席へ乗り込んだ。
続いて御言が隣に座ると、運転手が静かに扉を閉める。
車内は外から見た以上に広く、柔らかな革張りの座席からはほのかに甘い香りがした。
「藤宮様のご自宅まででよろしいでしょうか」
「うん。お願い」
「かしこまりました」
車がゆっくりと走り出す。
紬は窓の外へ目を向けた。
校門が遠ざかり、見慣れた通学路が後方へ流れていく。
「あの……ありがとうございます」
紬が礼を言うと、御言は掌をひらひらと振った。
「いいよいいよ……と言いたいところだけど、車は私のじゃないし、偉そうな顔できないけどね」
御言は少し間を開けて、「それにしても」と続けた。
「大変そうだね。瑞穂祭の準備」
「平気です。まだ始まったばかりですし」
「本当に?」
「……はい。それに仮に大変でも、この程度のことで音をあげるわけにはいきません」
「紬は頑張り屋さんだね」
褒められたはずなのに、御言の声はどこか寂しげだった。
「そんなことは……」
「あのね紬。私、紬の気持ちわかるよ」
「え?」
御言は紬を優しく見つめながら続けた。
「たくさんの人に期待されて……それに応えようとするのはとても良い事。でもね……」
御言はそこで一度言葉を切った。
「頑張ることと、一人で抱え込むことは違うよ。誰かに頼ったからって、紬が頑張ってきたことまでなくなるわけじゃないんだから」
「わ、わかってます」
苦し紛れに紬が返すと、御言は柔らかな笑みのまま「うん」と頷いた。
「じゃあ、きつい時は新でも叶でもいいから、頼ってあげてね。なんなら私でもいいよ」
冗談めかして、自分の胸を軽く叩いた御言の言葉は紬の胸の奥へ静かに入り込む。
けれど、素直に頷くことはできなかった。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」
紬は窓の外へ視線を戻す。
反射で映り込んだ自分自身に言い聞かせるように続けた。
「私は藤宮紬。誰かの期待に応え続け、人より前を進むから私なのです」
そう。弱音など吐いていられない。
これしきのことで音を上げていては、夢は夢のままで終わる。
授けられた才能に胡坐をかいて愚行を晒す妹など、お兄様には必要無いのだから。




