最大の懸念
夕食と入浴、そして短い談笑の時間が過ぎ、気がつけばあっという間に就寝時刻となっていた。
二階へ続く階段を登ると、まず紬の部屋がある。
その先が新の部屋だ。
「じゃあ二人とも、おやすみなさい」
紬の部屋の前で叶がそう言うと、隣の御言が興奮した様子で「おやすみ!」と続く。
「おやすみ」
新が返すと、隣にいた紬もにこりと笑う。
「おやすみなさい。叶お姉様、稲荷坂先輩」
紬の言葉に軽く手を振った二人が、部屋に入っていく。
「では私達も寝ましょうか。お兄様」
「あ、あぁ……」
ここまで来たらもうどうすることもできない。
覚悟を決めて、自室の扉を開く。
まずは新が中に入って、すぐに続いた紬が扉を閉めると、彼女は扉の鍵をガチャリと閉めた。
「お兄様? 明かりをつけていただけますか?」
言われるがまま照明のスイッチをオンにする。
照らされた空間は、いつもとなにも変わらない自分の部屋だ。
それが問題でもある。
「……なぁ紬?」
「なんですか?」
「お前の布団が無いのは、やっぱりおかしいよな?」
「ふふふ、なにをご冗談を。今まで一緒に寝る時は同じ寝床だったじゃないですか」
「いや、そうだけど……それに鍵を閉める必要だって……」
「もう……お兄様は、紬のあんなにはしたない姿を見られても良いのですか?」
少しムッとした紬に、返す言葉を慎重に選んだ。
「そうじゃなくて、鍵なんか閉めなくても勝手に入ってくることはないんじゃないか?」
「万が一に備えませんと、あんなふしだらな姿、見られたら紬……恥ずかしくてお嫁に行けません。まぁ、お嫁に行く相手は一人しかいないですし、その方は紬の全てを知っているので問題ありませんが」
クスッと笑った紬はベッドに腰を下ろした。
「そんなことよりも、さぁお兄様」
紬が左隣をポンポンと叩く。
新はため息をついて、そこに腰を下ろす。
右肩に紬が、頭をぽんと乗せた。
「お兄様……紬、寂しかったのですよ?」
「しょうがないだろ? 学校の行事なんだから」
「そうですけど!」
紬がぎゅっと新の右腕を抱いた。
「一泊とはいえ、お兄様が帰ってくるのを十分単位で数えていたのですよ? 帰ってきた時に紬が普段よりも甘えてくることを予期したお兄様が、叶お姉様達を連れてくることは想像できましたが、ここまで思い通りだとそれそれで思うところがあります!」
「悪かったよ。怪我もしちゃったから、余計取り乱すと思ってな」
頬を掻く新に紬が頬を膨らませた。
「それです! なぜに帰ってくるまで黙っていたのですか!」
「妹に『怪我したよー!』って連絡する兄なんていないだろ! 第一、お前のことだから連絡したら宿泊所まで駆けつけてきそうだし」
「当たり前じゃないですか! とりあえず寝ますよ!」
紬は立ち上がって明かりを消すと、すぐベッドへ戻ってくる。
そして新を押し倒した。
「のわっ! 紬!」
「さぁお兄様……寝ましょう?」
そう言う紬の顔は、ご馳走を目の前にした子供のように、にんまりと緩んでいる。
「つ、紬……寝るんだよな?」
「もちろん……あぁ、お兄ちゃん……一日ぶりのお兄ちゃん……あぁ最高……」
紬がうっとりと呟くと、新の胸に頬を押し当てた。
「紬、これじゃ俺が眠れない……」
紬は少しだけ考えるように黙った。
「じゃあ降りる代わりに、紬のお願いを聞いてくれますか?」
「じょ、常識的なことなら」
「文化祭の一日目、お兄様の時間を紬にください」
「一緒に回りたいってことか?」
紬は胸の上できゅっと拳を握り、「はい」と頷く。
正直言ってどんな要望が飛び出すかと思ったが、身構えた自分が馬鹿らしく思えた。
「なんだよそんなことか。いいに決まってるだろ」
即答すると、紬は嬉しそうに頬を緩めた。
「じゃあ今日のところは大人しく寝ます」
紬は新の胸から右側へころんと転がり、ベッドの空いたスペースに身体を収めると布団に潜り込んだ。
「お兄様」
「なんだ?」
「事情は聞きましたが、無理はしないでください」
暗がりに慣れた視界に映る紬からは、微笑みが消えていた。
「怪我のことか?」
「はい。お兄様にもしものことがあったら……紬は生きていけません」
すぐに返事は出来なかった。
この言葉は決して大げさなんかじゃない。
現に紬は事故でこの世を去った新を追って、自ら命を絶った。
しかし、紬の目の前から消えることは運命であり、変えられない。自分がいなくなった後の妹の事を考えると、胸が痛む。
「紬、もし俺がどうなろうと……俺はずっと紬を想っているよ……」
沈黙が流れる。紬から返事はない。
「紬?」
紬の方を見ると、彼女は目を閉じ、微かな寝息を立てていた。
「……さてと……」
新は一度深呼吸をして、身体を強張らせた。
なぜならここからが新が最も警戒すべき時間だからだ。
新が紬と一緒に寝ることに対してここまで気を張るのは、なにも相手が思春期の妹で、狂気染みた兄への愛をぶつけて来るからだけではない。
最大の問題は、寝た後だ。
「……そろそろ来るか?」
ぼそりと呟いた時だった。
――ドスッ!
新の脇腹に、痛烈な蹴りが入った。
「ぐえっ!」
衝撃で新はベッドから落ちる。
身体を起こすと、ベッドの上では幸せそうに眠る紬の左脚が布団からはみ出している。
そこにいつも端麗な淑女の姿は無い。
いつのまにか、紬の身体はベッドを斜めに占領し、枕は床に落ち、被っていた布団はほとんど役目を果たせていない。
「お兄ちゃあん……」
「まったく……今日の調子だと、二時間眠れればいい方だな」
なら、別の場所で眠ればいい。
そう思って昔リビングのソファで眠ったこともあったが、もう二度と試そうとは思わない程度の目に遭った。
「……高校生になっても、紬は紬だな……」
新は落ちた枕を拾い上げ、ため息をつきながら紬の頭の下へ戻す。
静かにベッドに戻る。
数秒で蹴り出される。殴られる。
これが朝まで繰り返された。




