全ては掌の上
「それで……怪我をしたと」
宿泊研修が終わり、新が帰宅した藤宮家では早速、紬による事情聴取が始まっていた。
リビングのソファに座らされた新の右足には、まだ包帯が巻かれている。
そのすぐ正面の紬は、笑みは崩さずとも両腕を組みながら立ち、異様な圧を放っていた。
「お兄様」
「はい」
「何故すぐにご連絡してくださらなかったのですか?」
「大したことない怪我だったから……いいかなって思ってさ」
「数日松葉杖が必要な怪我が大したことない?」
紬の纏う空気が変わった。
「す、すまなかった! これからは気をつける!」
「……まぁこのことは、あとでゆっくり話しましょうか」
すでに兄と妹という立場は完全に逆転している。
だが、状況的にはマシな方だ。
二人きりの時は、こうはいかない。
紬が素だったら今頃、自分の意思で歩くことすら制限されていたかもしれない。
しかし今の彼女が淑女の仮面を剥がさないのは、新のそばにいる叶の存在だ。
紬がもっとも心を許す同性とはいえ、叶がいれば新と二人きりの時のような本性を曝け出すことはない。
そうなれば、紬が一線を越えることはない。
だから宿泊研修の夜に叶を誘ったのだ。
これで今夜は、安心して寝床につける。
新の計画は概ね予定通り、ただ一点を除いてだが。
「それで……不可解なことがあるのですが……」
紬の視線は新から外れる。
その先には、リビングを見渡す御言がいた。
「ここが……新の家……新の匂いでいっぱいだ」
恍惚としたように呟く御言に、紬の微笑みがぴたりと固まった。
「お兄様? 叶お姉様はともかく、なぜ稲荷坂先輩までいらっしゃるのですか?」
「今日、叶が泊まりに来るって聞いたら『私も行く』って言って聞かなくてな」
「……そうですか」
短く返した紬は、御言から視線を逸らす。
理事長の稲元から、新と御言の婚約が仮初であるという嘘の説明を受けてホッとしていたが、だからといって御言への警戒を解いたわけではないだろう。
一方で、宿泊研修を通して叶と御言の距離は想像以上に縮まっていた。
なにがあったかは知らないが、叶から御言に話しかけることが増え、よく笑い合うようになっている。
新としても、二人が仲良くなったことはとても嬉しい。
そこに紬も入ってくれればと、淡い期待を抱いていた。
「紬ちゃん、もし嫌だったら私達は大丈夫だよ? 私は御言と一緒に私の家で寝るから」
少し眉を下げた叶は、紬が兄離れできていないことを知っている。
紬の本性までは見たことないが。
「御言も、それでいいかな?」
叶が御言へ視線を移すと、御言の顔からさっきまでの明るさが引いていった。
「うん。ごめんね紬」
御言は申し訳なさそうな笑みを浮かべた。
「紬が新をとても良く慕ってるの、二人から聞いてたよ。せっかく新が帰ってきたと思ったら怪我してるし、おまけに私がいたら迷惑だったよね」
「わ、私は……」
「いいのいいの! 今度はちゃんと一言伝えてからお邪魔しにくるね!」
御言は立ち上がり、荷物のリュックを肩にかける。
その背に、紬が立ち上がって声を掛けた。
「ま、待ってください! 私は別に帰ってほしいなんて思ってません!」
「え? そうなの?」
「当たり前です! これじゃ私が嫌な女みたいじゃないですか! ただ、稲荷坂先輩が来て驚いたというか……」
少し視線を彷徨わせた紬は、頭を下げた。
「ごめんなさい。確かに稲荷坂先輩のことは警戒してますけど、だからといって邪険にしたかったわけじゃ……」
「それじゃ……私はいていいの?」
紬は「はい」と頷いた。
「稲荷坂先輩が悪い人じゃないのはなんとなくわかります。そうじゃないと、叶お姉様がそこまで心を許さないでしょうから」
紬は恥ずかしそうに視線を逸らして、続けた。
「きっと、私が知らないだけで素敵な方なんだと思います。だから私も、今日を機に少しずつ稲荷坂先輩のことを知っていけたら……嬉しいです」
紬の言葉に御言は一拍置いて、にんまりと笑みを浮かべた。
「つ、紬ー!」
「きゃっ!」
御言は紬に抱き着いた。
「前から聞いてたけど、本当にいい子! もう食べちゃいたいくらい愛でたい!」
「く、苦しい……というより食べたら愛でられない……」
二人のやり取りを見て、新は叶と目を合わせる。
叶が微かに笑うと、紬と御言に視線を戻した新も口角を上げた。
どうやら……俺の思い過ごしだったようだな。
胸の内で呟いて、ソファに体を預けた。
「じゃあ、叶と御言は客間が空いてるからそこを使ってくれ」
これで今夜は紬の暴走を食い止められ、穏やかに眠れる。
そう安堵した時、御言に解放された紬が少し困った様子で眉を下げた。
「お兄様、実は今晩は客間が使えないんです」
「え? どういうことだ」
紬は眉を下げたまま、右手を頬に添えた。
「お兄様が不在の間に、衣替えで春服と夏服の入れ替えを客間でしていたんです。それが思った以上に進まない内にお兄様から今晩の件を聞いて……散らかったままなんです」
「なら急いで片付けないとな。一人でやらせてごめん」
新が立ち上がろうとすると、その肩を紬が押さえた。
「いえ、その必要はございません」
「なんでだ? 二人の寝る場所を用意しないと」
「はい、ですから私の部屋を叶お姉様と稲荷坂先輩に使ってもらおうと」
「三人じゃ少し狭くないか? やっぱり客間を片付けて――」
「私の部屋で寝るのは、叶お姉様と稲荷坂先輩だけですよ?」
「……え?」
嫌な予感がした。
それはすぐに確信に変わる。
紬の表情は先程の困ったものから一変して、新だけに見えるように口元を三日月状に吊り上げていた。
「私はお兄様と一緒に寝ます。兄妹ですし、問題ないでしょう?」
不気味とすら思える笑みに、新は心の中で叫んだ。
藤宮紬! 妹でありながら、俺は見誤っていた! 全て……全てこの天才の掌の上!
きっと帰ってきた俺が叶を連れて一定以上の距離を保とうとしていたことを読んで……じゃなければあの几帳面で完璧主義の紬が散らかしたまま客人を迎えるなどあり得ない!
「紬……お前はじめから……」
「なにがですか?」
とぼけるように首を傾げる紬に、新は食い下がった。
「さ、流石に紬のベッドに二人は狭いんじゃ?」
「そう、そこが不思議なのです」
紬が手をぱんと叩いて続けた。
「なんの偶然か、来客用の布団を一時的に私の部屋に置いておいたんです。天日干ししたのでお日様の匂いがして気持ち良いでしょう」
藤宮紬! こいつ、やはり!
もはや足掻いたところで無駄。
諦めた新に紬は「ふふふ」と勝利の笑みを浮かべた。




