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入浴時間なのに


「じゃあ新、行ってくるぜ」

 

 夜になり、宿泊するホテルの部屋で智也と他の同室の男子生徒が、新に申し訳なさそうな顔を向けた。

 

「気にするなって、ゆっくりしてこいよ」


 このあと、宿泊研修の楽しみの一つでもある入浴の時間がある。

 軽い低体温症と打撲、あと右足首の捻挫と擦り傷数ヶ所。

 宿泊研修を離脱するまでには至らなかったが、安静を命じられた新は部屋で留守番だ。

 

「じゃあ、お言葉に甘えて行ってくるな」

 

 智也達はタオルと着替えを手に、部屋を出ていった。

 扉が閉まる。

 途端に、さっきまで賑やかだった部屋が少しだけ広く感じた。

 

 新は窓際の椅子に腰かけたまま、包帯で固定された右足を見下ろす。

 包帯には「名誉の勲章」と、落書きされていた。

 

 助けた女子生徒も新と同じようにぬかるんだ地面に足を取られて、あの場所に落ちたらしい。

 怪我こそあれど、大事に至らなかった。新と違って、宿泊研修は続けられなかったが。

 

「さてと……なにして時間潰そうかな」

 

 そう呟いた時、部屋の扉がこんこんとノックされた。

 

「新、いる?」

 

 扉の向こうから聞こえたのは御言の声だった。


「御言?」

 

 松葉杖をついて、扉へ向かう。

 開くと上はTシャツ、下はジャージ姿の御言が立っていた。

 

「どうしたんだよ? 男子の部屋に女子が来るのは駄目なんだぞ?」

「そ、それは教わったよ……新が心配でさ」

 

 御言の表情は笑みを浮かべつつも、少し曇っていた。

 

「……とりあえず入れ。他の生徒に見つかったら面倒だ」

 

 新は松葉杖で身体を支えながら、御言を部屋の中へ招き入れた。

 

「今日はありがとな。それにしても、よく居場所がわかったな?」

「休憩所で待ってたら、窓の外であの子が呼んでたの。ほら、森の中で新と私にしか見えてなかったあの子」

「あいつか」

「うん、葉っぱの傘を差しながら新が怪我してるって伝えてくれたんだ」

「一体何者なんだ?」

「あの子は森の精。あの子がいる森は豊かな証拠なの」

 

 淡々と語る御言は、新から視線を逸らし続けている。

 いつもの明るい人柄は見る影もない。

 

「そういえば……今は入浴の時間だろ? 皆、心配するんじゃないか?」

「用事を済ませてから行くって伝えておいたから大丈夫だと思う……そうだ。後で叶にも連絡してあげて? 新のことが心配で、夕食もほとんど手をつけてなかったから……」

「それは……迷惑をかけたな」

 

 苦笑いと共に新が答えると、御言は「ううん」と首を横に振る。

 そして新の袖口をきゅっと握った。

 

「こうなったのも私のせい。ごめんね新」

「え?」

「新が怪我したのも、私が干渉して歴史が変わったせいだから……」

 

 その言葉に新が目を丸くすると、身体から力が一気に抜けた。

 

「なんだ、そんなことかよ……」

「そんなことって!」

「いやだってさ」


 呆れたように新は笑った。


「俺、本当なら死んでたんだぞ? それが今は人生に一度だったはずの高校二年生を再び謳歌できている」


 新は足に巻かれた包帯の落書きを御言に見せつけた。


「ほら、見ろよこれ。男としての箔も上がったんだぜ?」

「包帯に落書きされて?」

「名誉の勲章らしいからな」


 新が肩をすくめると、御言は口元を緩める。

 それがもっと大きくなるようにと、まずは新がにこっと笑ってみせた。


「だからさ、謝るなよ。俺、感謝してるんだ」

「感謝?」

「御言がいなかったら、俺はここにいない。後悔を抱えたまま叶と紬、家族や智也達ともう会えなかった。それに……」

 

 これから口にする言葉を頭に思い浮かべると、新は少し照れくさくなって頬を掻いた。

 

「生き返らせてくれたとか恩とか関係なく……俺、御言に出会えて嬉しいよ」

 

 そう言うと、御言が黙ったまま少し顔を伏せる。

 やがてその身体がぷるぷると震えている事に気がついた。

 

「み、御言?」

「……好き」

「へ?」

 

 突如御言の頭の上に獣の耳が現れ、腰のあたりから尻尾がぶんぶんと振れ始めていた。

 どちらも、狐のもの。新が初めて出会った御言の本当の姿だ。

 

「新……好き!」

 

 御言は新に飛びついた。

 

「ちょ! 御言……うわ!」

 

 新は布団の上に倒れる。仰向けになったその身体の上に御言がのしかかっていた。

 

「御言! どうしたんだよ!」

「新が悪い! あーもうほんと好き。大好き! 私、神なのに意味わかんないくらい好き!」

 

 御言は新の胸に顔を埋めた。

 

「新の匂いも好き。嗅ぐと安心する!」

「あだだ! ちょっと! 俺、怪我人!」

 

 新の言葉は御言には届いていない。彼女は新の胸元に顔を埋めたまま、ぐりぐりと額を押しつけている。

 頭の上の狐耳はぴこぴこと揺れ、尻尾は布団を叩くほどの勢いでぶんぶん振れていた。

 

「あー好き、ほんと好き。好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き」

 

 完全にご乱心の狐の神様になす術は無い。

 そんな時、扉が再びノックされた。

 

「御言、誰か来た!」

「え! どうしよ!」

「とりあえず、耳と尻尾しまえ!」

「一度出したら五分は戻らない」

「なんで出したんだよ!」

「新が嬉しいこと言うから出ちゃったの!」

「俺のせいかよ! こうなったら布団の中に隠れてろ!」

「ちょっ! うわ!」

 

 御言に布団を被せた新は「はーい!」と言って、扉へ向かう。

 ドアノブを回して開くと、そこには叶が立っていた。

 

「か、叶!?」

「き、来ちゃった……」

「来ちゃったって!」

 

 予想外だ。

 御言ならともかく、優等生の叶まで来るとは思わなかった。

 

「ど、どうしたんだよ?」

「あ、新が……心配で……」

「大したことない! ただの捻挫だし!」

 

 叶は扉の前に立ったまま、心配そうに新を見上げていた。

 急いで入浴を終えてきたのか、藍色の髪はまだ少し湿っていて、頬が赤く染まっている。

 

「ほんとに大丈夫だから、早く戻れ。こんなところ見られたら……」


「――杉江先生! 教師ミーティング始まってますよ!」

「くそ! どうしてホテルのビールってこんなに高いんだ!」


 突如廊下の角から、誰かの話し声が近づく。

 生徒ではない。教師の声だ。

 

「やばっ」

 

 新は反射的に呟く。

 直後、叶が新の身体を押し込むようにして部屋へ入り込んだ。

 扉が閉まる。叶は両手を新の胸元に置いたまま、身体を預けるようにして固まっていた。

 

「か、叶!?」

 

 呼んでも叶は身じろぎひとつせず答えない。

 ほのかに石鹸の香りがする。

 その身体は風呂上がりの熱をまだ残していた。

 

「新」

「な、なんだ?」

「……ちょっとでいいから、一緒にいたい」

 

 叶は新の胸元をきゅっと掴んだ。

 

「どうしたんだよ……」

 

 叶はまた答えない。

 そんな彼女に「帰れ」とは言えなかった。

 

「……わかったよ。少しだけだぞ?」

「……うん」

 

 二人は、並べられていた布団の端に腰を下ろす。

 叶は新のすぐ隣に座った。

 肩が触れそうで、触れない距離。

 けれど、さっき密着したせいか、妙に遠く感じた。

 

「怪我のこと、紬ちゃんに言ったの?」

「帰るまで秘密にしておく。あいつが知ったらここまで看病しに来そうだ」

 

 叶は「ふふ」と、ようやく笑ってくれた。

 

「確かに、紬ちゃんならやりかねないね」

「だろ? 今日だって、凄い量のメッセージが来てるんだ」

「帰ったら、ご機嫌とってあげないとね」

 

 新は「だな」と言って、ふと右足の包帯を見る。

 正直、このまま帰ったら紬がどうなるか、想像しただけで気が重い。

 

「そうだ! 叶、家に帰る時、一緒にいてくれないか?」

「新の家に?」

「あぁ!」

 

 家に帰って、この右足を紬が見れば取り乱すのは目に見えている。

 きっと、一人で立ち上がることは許されず、就寝も一緒……いや、入浴にまで付き添ってくるかもしれない。

 その場に叶がいれば、彼女は素を見せることはできず、最低限の距離を保ってくれるはずだ。

 

「なんなら泊まってくれてもいい!」

「と、泊まる?」

「あぁ! 紬に土産話でも!」

「別に家は隣なんだから、泊まらなくても……」

 

 そう言いかけた叶は、ふと口を閉じる。

 一瞬だけ視線を逸らし、それから嬉しそうに微笑んだ。

 

「わかった。じゃあ泊まりに行く」

 

 その言葉の直後、二人の傍で膨らんだ布団が少し動く。

 すると、叶は立ち上がろうと膝を立てた。

 

「さてと……そろそろ行かないと」

「だ、だな!」

 

 新も慎重に立ち上がろうとする。しかし途中で、出来るだけ庇っていた右足に鋭い痛みが走った。

 

「うっ!」

 

 重心が流れ、新の身体が傾く。

 

「新!」

 

 叶が咄嗟に手を伸ばして新の手を掴む。だが、叶もまだ中途半端に腰を浮かせた姿勢だったせいで、新を支えきれず二人揃ってバランスを崩した。

 

「きゃっ!」

 

 どうする事も出来ず、二人の身体はそのまま膨らんだ布団の上へ倒れ込んだ。

 

「むぎゅっ!」

 

 布団からは絶対に聞こえない音が聞こえた。

 のしかかった布団の下には、確かに人の感触がある。

 もちろん、それは叶にも伝わっていた。

 

「……むぎゅ?」

 

 叶が布団を捲る。

 そこにはもちろん御言がいた。

 狐耳も尻尾もない。叶と話している間に五分が経ち、隠せるようになったのだろう。

 けれど、布団の中に御言がいるという事実だけで、状況は十分すぎるほど最悪だった。

 

「い、稲荷坂さん?」

「や、やっほー叶!」

 

 御言はぎこちなく片手を上げる。

 叶は一度、新を見る。

 次に御言を見る。

 そして、もう一度、新を見た。

 

「……へえ」

 

 その声は、とても静かだった。

 新は悟った。

 今夜は、右足よりも胃の方が痛くなりそうだ。

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