死後の世界?
目を開けた、のだと思う。
けれど、そこには何もなかった。
空もない。
地面もない。
雨の音も、叶の悲鳴も聞こえない。
ただ、どこまでも暗い場所に新は一人で立っていた。
「ここは……」
声は出た。
それも少しだけ不思議だ。
さっきまで、自分は唇も動かせなかったはず。
人体の構造に反する方向へ曲がっていた足は綺麗に真っ直ぐ体を支え、潰れていた腹も胸も問題ない。制服に赤は見当たらない。
潰れていた左目の前で手を動かす。ちゃんと追える。
今度は両手を見る。
すると、掌には残っていた。
叶を突き飛ばした。あの感触が。
それで察することができた。
「俺……死んだのか……」
ぽつりと呟いた時だった。
「そう、君は死んだの」
背後から、女の声がした。
弾かれたように振り向くと、暗闇の中に一人の少女が立っている。
細身ではあるが幼く見えるほど小柄ではなく、背丈は叶と変わらない。
肩より少し上で整えられた髪は、月明かりを宿したような銀。
瞳は琥珀色の宝石を埋め込んだような、透き通った金。
一目見て、美しい女性だと感じた。
ただそれよりも、目を引いたのは彼女の頭の上だ。
「……耳?」
思わず漏れた声に、女の頭上でぴんと立っていた獣の耳がぴくりと動く。
「なーに? 頭の上に耳がついてたら変?」
「そりゃ……そうだろ」
現実離れしたその姿を見て、新は自分の死をさらに実感できた。
「俺……本当に死んだんだな」
「そ、幼馴染を庇ってね。男としてはかっこいい最期だったと思うよ」
「そっか……叶は? 叶は大丈夫なのか?」
獣耳の女は少し困ったように眉を寄せた。
「んー見た方が早いかな」
女はパチンと指を鳴らす。
音は何度も反響して、暗闇に広がっていった。
「まず幼馴染どうこうの前に、君が死んだ後の現世を見せるね」
たちまち暗闇だった空間に輪郭が縁取られていく。
最初に浮かび上がったのは、白い花だった。
一輪ではない。数えきれないほどの白い花が一定の空間に敷き詰められている。
周りに椅子が並び、黒い服を着た人影が現れていく。
煙のようにぼやけていた輪郭はしっかりと定まり、やがてひとつの場所を作り上げる。
それは葬儀場だった。
「……これは……俺?」
花の真ん中に一人の遺影がある。
映っていたのは新の顔だ。
いつの間にか、周囲の者達の顔もはっきりしていた。
クラスメイト。
小、中、高の教師。
近所の人達、親戚もいた。
皆、黒い服か制服を着ている。
誰かがハンカチで目元を押さえていた。
誰かが唇を噛んで、俯いていた。
誰かが小さな声で「あんないい子がどうして」と呟いていた。
これは新自身の葬式。
特に心がざわつくこともなく、新は周囲を見渡す。
その中で獣耳の女が、いつの間にか棺の前にいた。
「ほとんど原型を留めていなかったのに、出来る限り綺麗にされているわ」
新は棺の中を覗く。
骸となり、顔の左側を隠された新が眠っている。
「じゃあ、少し時間を飛ばすよ」
女はまた指を鳴らす。
葬儀場の光景がぐにゃりと歪む。次に映ったのは、遺体が出棺される時だ。
酷い雨が降る中、黒い傘を差した人々が新だったものを見送る。
霊柩車の後部扉が開かれ、棺がゆっくりと中へ納められていく。
その時だ。
「紬、お願いだから傘を差して」
声が聞こえた途端、新は即座にそちらを見た。
霊柩車に一番近い場所に三人組がいる。
「母さん……父さん……」
やつれた顔の父と母が見えた。
もう一人は髪の毛を腰元まで伸ばした可憐な少女だ。
「……紬」
新は妹の名を呼んだ。
藤宮紬。
いつも背筋を美しく伸ばし、言葉遣いは丁寧で、相手によって態度を変えることもない、清楚で上品で、どこか近寄りがたいほど整った美少女だ。
新と同じ瑞穂学園に通う一学年下の妹でありながら、成績は学年トップどころかこの国で五本の指に入る秀才。
教師からの信頼も厚く、同級生からは憧れの目を向けられている。
才貌両全。
その言葉を形にしたような、自慢の妹だった。
けれど、今そこに立っている彼女は違う。
黒い喪服姿で微動だにしないまま霊柩車を見つめている。
自分の手で傘を差さなかったせいで、髪から雨粒が滴り落ちていた。
いつも「お兄様、お兄様」と新を呼びながら輝かせていた瞳には、まるで光が無い。
生きている人間の気配がしなかった。
泣くわけでもなく、叫ぶわけでもない。
どんなに両親が声をかけても、ぴくりとも反応しない。
まるで魂を抜かれた、人形のようだ。
「紬……」
「妹とは仲が良かったんでしょ?」
いつの間にか隣にいた獣耳の女の言葉に、新は顔を伏せた。
「うちは両親が仕事でほとんどいないんだ。家族で集まれたのなんて、数えるほどしかない。紬の傍にいられたのは俺だけだったからな」
「慕われていたのね」
「紬に勝てる要素なんて一つもないのに、どういうわけかな」
そう言って新は、人混みを探した。
「叶は……叶も来てるのか?」
気掛かりだった叶の姿がどこにも見当たらなかった。
「あの子は、来てないよ。君が死んだ日から、部屋から出てこなくなった。無理もない、目の前であんな無惨な姿になった君を見たんですもの……それに、自分のせいであなたが死んだと思い込んでる」
「か、叶のせいじゃない! 俺が勝手に追いかけて、勝手に庇っただけだ」
「彼女……いや、彼女達はそう思えないみたい」
彼女はまた指を鳴らす。
次に現れたのは、叶の家の玄関だった。
扉の前には、紬が立っている。
黒い喪服姿のまま、感情のかけらも感じさせない表情でインターフォンを押した。
返事は無い。
紬はもう一度押す。
返事は無い。
もう一度。
返事は無い。
紬はインターフォンを押し続ける。
何度押しても返事は無い。
次に紬はドアノブに手をかける。軽く引いただけで、扉は開いた。
家の中は薄暗く、雨に濡れた紬の髪からぽたり、ぽたりと落ちる水滴の音が聞こえそうなほど静まり返っている。
「おい、紬……」
新は思わず声を漏らした。けれど、その声が届くはずもない。
紬は無言のまま上がり込み、廊下の奥へと進む。
新はその後ろをついて歩く。紬が真っすぐ向かったのはリビングではない。
階段を上がり、突き当たりからひとつ前の扉の前で足を止める。
なんの部屋かは新もすぐわかった。
そこは叶の部屋だった。
紬はノックもせずに部屋の扉を開ける。
室内はカーテンが閉め切られているのに、明かりは一切ついていない。
酷く散らかっていたわけでもない。
そんな暗い空間で、へたり込んで壁にもたれかかった者が一人。
もちろん叶だ。
「叶……」
震える声で幼馴染を呼んだ。
叶は、壁にもたれたまま動かない。
制服を着たまま、袖口辺りは赤黒く汚れている。
髪は乱れ、肌には血の気がほとんどない。
頬には、首に向かって涙の跡が残っている。
だが、今の叶の瞳から涙は流れていない。
泣き終えたのではない。
泣く力さえ、残っていないように見えた。
その姿は骸となんら変わりはない。
「叶は君が死んでから、ずっとあの調子なの」
いつの間にか獣耳の女が、叶のベッドの上に座っていた。
変わり果てた幼馴染の姿に言葉を失っていると、紬が口を開いた。
「もうすぐお兄様の誕生日なの。だから紬、あの日はプレゼントを探しに行こうとバスを待ってたの」
静かに語られる言葉に、叶はぴくりとも反応を見せない。
「皆、おかしくなっちゃったの」
紬は構わず続けた。
「お父様も、お母様も、親戚の方達も、学校の先生も……皆、同じことを言うんです」
紬は部屋の入口に立ったまま、今まで人形のようだったその口元を、僅かに吊り上げた。
「時間が解決してくれるって。いつか前を向ける日が来るって。お兄様の分まで、生きなさいって……おかしいでしょう? お兄様がいない明日なんて、意味ないのに」
変わり果てたのは叶だけではない。
紬もだった。
「お父様とお母様が『藤宮のしきたりはもういいから、これからは一緒に暮らそう』と言うんです。学校の先生も、両親が住んでいる場所に転校しなさいと言うんです。お兄様と過ごしたこの街の思い出を、無かったことにしようとするんです」
叶は変わらず壁にもたれたまま、何も言わない。
紬の声が聞こえているのかさえ、わからない。
しかし声が届いているかどうかなど、今の紬には関係がなかった。
「酷い話ですよね? だから、ずっと考えていたんです。なんでこんなことになっちゃったんだろう? 誰が一番悪いんだろうって」
そこで叶の肩が、わずかに揺れた。
新の胸の奥で、嫌な予感が膨れ上がる。
それは喉をせり上がり、気づけば声になっていた。
「違う……紬、やめろ!」
新の言葉に反して、紬は叶の部屋に一歩踏み入れた。
「お兄様は、勝手にいなくなったわけじゃない。お兄様は、死にたかったわけじゃない。お兄様は……」
紬の表情に感情が戻る。
優しい妹からは今まで見たことない、憎しみが爆発した恐ろしい顔だ。
「お兄様はお前のせいで!」
紬は叶の胸元を掴み、壁に押しつけた。
叶の身体が、どん、と鈍い音を立てる。首の据わらない赤子のように、壁に後頭部をぶつけても表情は変わらない。
「お前が! お前が、お兄ちゃんを!」
叶は抵抗しない。
胸元を掴まれたまま、虚ろな目で紬を見ている。
「紬、やめろ!」
新は紬の腕を掴もうとした。
だが、指はすり抜ける。
何度も。
何度も。
しかし、紬に触れることは叶わない。
「お前が飛び出さなければ、お兄ちゃんは追いかけなかった!」
「やめてくれ紬!」
「返して! お兄ちゃんを返してよおおおおぉ!」
叶は何も言わない。
だが、彼女の虚ろな瞳から、一筋の涙が頬を伝う。
そこで映像は途切れた。




