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藤宮新、最期の日


 稲守市の梅雨は、都会と比べてかなりマシだそうだ。

 湿度は比較的落ち着いていて、人混みで傘がぶつかり合うこともない。

 かといって、他人の香りに何故か懐かしさを感じることもない。


 駅や市街地は発展していて、一通りの娯楽もある。

 けれど数キロ移動すれば、古い住宅街と田畑が顔を出す。

 中途半端とも、都会と田舎の良いとこどりとも言える街だ。


 そんな稲守市には老朽化が原因で、今はもう使われていない旧稲守駅という廃駅がある。

 駅舎もホームも線路もそのまま残されているが、訪れる人間は風景を撮りに来るその種のファンか、この独特な存在感に惹かれた者くらいだ。


 古びた駅舎。

 雑草に埋もれ、錆びた線路。

 雨の日になるとやけに濃くなる、湿った木の匂い。


 所々に水溜まりが出来ているホームにある小さな屋根の下で、藤宮ふじみやあらたは灰色の空を見上げた。


「くそ……寄り道なんかするんじゃなかった」


 瑞穂学園、三年の六月。

 錆びた柱から落ちる雫がぽつ、ぽつ、と水溜まりに輪を作っていた。


「……新……」


 雨音に紛れるような声が聞こえた。

 声のした方へ顔を向けると、線路の傍、生い茂る雑草の海に一人の女子学生が立っている。


 翡翠色の傘を差し、夜風を吸い込んだような藍色の髪を頭の後ろで束ねていた。

 雨にけぶる景色の中で、こちらを見つめる瞳だけが、エメラルドのように鮮やかだ。


「……叶?」


 名を呼ぶと女子学生、柚木ゆのきかなえはホームに登ってくる。


 もう駅として使われていない旧稲守駅は入口に南京錠がかけられている為、中に入ることはできない。

 新達のように、ホームへ行くには建物周囲の柵の切れ目から入ることになる。


「なにしてんだ? こんなところで」

「新こそ……一人でなにしてたの?」

「俺は……」


 そこで言葉に詰まる。

 雨宿り。それは決して嘘ではないが、学校から旧稲守駅の道のりは家とは真逆。下校途中で雨が降ってたからというのは理由にならない。


「まぁ、ちょっとな」


 叶は「そう」と言って、新の隣で線路を見下ろした。


「新……あの話、ほんとなの?」

「あの話?」

「新の進路の話、学校で聞いちゃって……」

「あぁ……それか」


 少しの沈黙の後、新は雨雲を見上げながら静かに続けた。


「本当だ。俺は卒業したらこの街を出る」

「……どうして?」


 叶の声は、雨音に溶けそうなほど小さい。

 新はすぐには答えず、錆びた線路の先を見つめる。

 もう電車が走ることのない線路は、雑草に埋もれながら、雨の向こうへぼんやりと続いていた。


「俺の家のルール、知ってるだろ?」


 叶は「うん」と、小さく頷いた。


「藤宮家はこの地との縁を絶やすな。だよね?」

「そ、仕事で世界中飛び回ってる父さんも、じいちゃんも、そのまたじいちゃんもこの街で学生時代を過ごしたんだとさ。それに従って、俺も瑞穂学園に入学したわけだが……」


 新は、少しだけ困ったように口角を上げた。


「父さん達の仕事が今年いっぱいで落ち着くみたいなんだよ。そしたら「新も外の世界を学びなさい」って急にだよ」

「……どこに行くの?」

「聞いてびっくり、海外だと」

「海外……」


 呟くように新の言葉を繰り返した叶は、それ以上何も言わなかった。


「叶は残るんだろ?」

「私は……この街で働くことしかできないから……」


 叶はそう言うと、傘の持ち手をギュッと握った。


「そっか……もし、困ったらいつでも連絡しろよ? まぁでもお前が起きてる時間は、俺が寝ている時間かもしれないがな」


 冗談めかして言ったが、叶は笑わない。

 いつもの彼女なら「そこは起きててよ」と笑って返すところだが、今はただ黙っている。


 すると彼女は想像もしない行動に出る。

 さしていた傘を、突如下ろしたのだ。


「お、おい!」


 まだ強く降る雨の下、叶の藍色の髪が一瞬で濡れ、色濃くなっていく。

 肩から雨が染み込み、夏仕様の白い制服の布地が肌に張りついていった。


「なにしてんだよ! 風邪引くだろ!」


 慌てて駆け寄り、叶の傘を持ち上げて彼女の頭上に差し直す。

 新が理解できずにいるのも束の間、叶は新の方を向いて笑顔を浮かべた。


「……なーんてね」

「は?」


 叶は新が拾った傘を受け取ると、濡れた前髪を指先で払った。


「昨日のアニメで見たの。雨の中でずぶ濡れの女子高生が突如超能力に目覚めて、瞬間移動ができるようになったんだ。それでもしかしたらって……」

「アホ。ほら、風邪引く前に帰るぞ」

「はーい」


 叶はくすくすと笑う。

 けれど、その笑みは長く続かなかった。

 彼女は何かに気づいたように、ふっと表情を曇らせたのだ。


「叶?」

「……こうしてふざけ合うのも、一緒にいられるのも、あと少しなんだね」


 その言葉に、新は一瞬だけ返事が遅れた。


「な、何だよ、急に」

「……そうだね、急だよね」


 叶は再び線路を見下ろしていた。


「ねぇ新、もし……私が行かないでって言ったらどうする?」

「い、行かないでって……」


 また沈黙が流れる。

 雨の音がやけにうるさく感じるほどに。

 その時だった。


「――嘘つき」


 ふと、叶が呟く。

 その表情は……なんと言い表せばよかったのだろうか?

 怒っているようにも見えた。

 泣き出しそうにも見えた。

 けれど、そのどちらでもない。

 ただ必死に……苦痛を堪えているようだった。


 その頬に雫が伝う。

 それが雨なのか、また別のものなのかもわからない。


「叶?」

「……帰るね」


 叶は逃げ出すように走り出した。


「おい、叶!」


 新もすぐに後を追う。

 濡れたホームを駆け下りる。

 雑草を踏み、柵の切れ目を抜ける。


「待てって!」

「来ないで!」


 叶は振り返らない。

 翡翠色の傘を揺らしながら、旧稲守駅前の細い道路へ飛び出した。


 次の瞬間。

 雨の向こうから、白い光を発する巨大な鉄の塊が叶に迫った。


「……え?」


 恐ろしいスピードで迫る鉄の塊に叶が立ちすくむ。


 新の背筋には悪寒が走った。


「叶ッ!」


 新は考えるより先に飛び込む。


 鉄の塊は雄叫びのような音を鳴らしながら、急激に速度を落とすが、叶の前で止まるには距離が足りない。


 このままだと、叶は鉄の塊に撥ね飛ばされてしまう。


 引き寄せる時間は無い。


 ――だから、突き飛ばした。


 叶の身体が道路脇へ倒れる。

 直後、飲み込まれたように視界が右から暗くなった。


 身体のいたる場所に、まるで岩でも落ちてきたような圧を感じ、薄い紙細工を踏み潰したような音が幾度も響く。

 意識もしていないのに、肺の空気が喉を伝って口と鼻から溢れ出る。なぜか赤い。


 次に左の視界が真っ暗になる。

 ほぼ同時に、左腹の辺りが一瞬燃えるように熱くなって、何も感じなくなった。


 直後、右の視界だけ光が戻る。

 降り続く雨の中、今は閉店した服屋の空のショーケースが見える。


 そこに映っていた。

 アスファルトの上で横たわる人間がいる。


 胸の中心と顔の半分は、人の形をしていない。平らに潰れている。

 左脇腹からは、細長く赤黒いものが溢れ出している。

 足は人体の構造に反した方へ曲がっていた。


 あぁ……これは……もう……。


 理解した途端、身体中が一瞬熱くなって、急激に冷えていった。


「いやああああああああああああああああっ!」


 断末魔のような悲鳴と共に叶は翡翠色の傘を放り出し、新の傍へ駆け寄って膝をつく。

 赤黒く滲んできた視界にその顔が映ると、やけに安心した。


 叶……良かった……。


「新! 新っ! ねぇ、新! 返事をして……いやああああっ!」


 悲鳴が、雨の降る旧稲守駅前で裂けるように響く。

 叶は新に触れない。いや、どこに触れたらいいのかわからないのだろう。


 新は答えようとした。

 大丈夫だ、と。

 泣くな、と。


 けれど、唇すら動かない。

 そして彼女の悲鳴も雨の音も、なにも聞こえなくなった。

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