お母さんは来なかった
路地を進んで少し歩くと、駅前の喧騒はまるで聞こえなくなっていた。
建物と建物の間を見上げると、夕に染まった空が細く切り取られている。
少し不気味とも思えるこの空間を、新と御言は少女と共に進む。
その時、新の鼻を刺すような臭いがした。
「御言」
「なに?」
「なんか……焦げ臭くないか?」
「うん。駅前にいた時からずっと感じてた」
流石は狐。
嗅覚も鋭いようだ。
「お兄ちゃん、お姉ちゃん……ここだよ」
弱々しく呟いた少女が指差すと、そこには解体工事中のアパートがあった。
ただの解体現場ではない。
建物のほとんどが黒く煤けている。
臭いの元もここからだ。
そこで新は思い出した。
二年生の春の頃、火事があったというニュースを。
確か一室に住む、母親と娘が亡くなったらしい。
「こんなところにお母さんが?」
少女は無言で頷く。
そして、廃墟へ踏み込んでいった。
「お、おい!」
新が追いかけようとすると、御言がすぐにその腕を掴んだ。
「待って」
「でも、もし瓦礫が崩れでもしたら!」
「大丈夫」
そう言って、御言は剥き出しの鉄骨の影に紛れていく小さな背に声を掛けた。
「もう隠さなくていいよ! 君の正体はもう、わかってるから」
いつも柔らかいのに、今だけは心なしかギターの弦のように張った御言の声に少女の足が止まった。
「どうして?」
「探してたのよね? 自分が見える存在を」
「……言ってる意味がわからないよ」
「そっか……新、そこから動かないでね」
御言は一歩踏み出す。
「み、御言!」
「大丈夫」
御言は振り返らずに、少女へ向かって行く。
その後ろ姿は新が知っているいつもの御言とはまるで雰囲気が違う。
人の世に興味津々で、いなり寿司に目を輝かせていた少女ではない。
「ねえ」
廃墟の奥で、少女がぽつりと呟いた。
「早く来て……私を助けてよ」
新の体がぞわりと、不快にざわついた。
まるで背中に冷たい氷を当てられたようだ。
「助けてくれるんでしょ?」
少女がゆっくりと振り返る。
その顔は、笑っていた。
だが、目だけが笑っていない。
唇だけが不自然に持ち上がり、頬が引き攣った様に歪んでいる。
「熱かったの……」
少女の口元が、裂けるように広がった。
「熱くて、熱くて、熱くて、熱くて熱くて熱くて熱くて熱くて熱くて熱くて熱くて!」
地面に張りついていた少女の影が、液体のように揺れ動く。
次第にそれは光に逆らい、もはや影と呼ぶにはあまりにも不自然なものへと変わっていった。
「一人は嫌……お母さんもいない。だから、一緒に来てよ」
少女の足元から影が噴き上がる。
煙のようで、煤のようで、けれど明らかに生き物のように蠢いている。
「熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱いアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイ!」
この世のものとは思えない光景に新は腰を抜かした。
「な、なんだよこれ……」
声を震わせる新の数メートル先、御言は臆する素振りも見せず、金の瞳で少女を見据えていた。
「あれはここで亡くなった子の怨霊。余程怖い思いをしたのね」
「逃げよう御言!」
新は叫んだ。
だが、御言は逃げるどころか、一歩、また一歩と少女へ近づいていく。
「御言! 早く!」
「放っておくと、この子はずっとここで苦しんでしまう」
徐々に距離を詰める御言に、少女の足元から湧き上がる黒い影が、バシンッ! と鞭のように地面を叩いた。
「オネエチャンハ、ヤッパリイラナイ」
そう言った少女は首をがりがりと掻きながら続けた。
「オニイチャンダケキテ」
御言は少女へ距離を詰めながら答えた。
「新を連れて行っても、お母さんには会えないよ」
その言葉に少女の動きがピタッと止まった。
「……アエナイ?」
「そう。誰かの魂をここで喰らっても君は孤独のまま」
「コドクナノハ、オマエモイッショ。ワタシ、ワカル」
「私は違うよ。私の傍には、新がいるからね」
「――ズルイッ!」
次の瞬間、黒い影が御言の腕に絡みついた。
制服がじゅっ、と焼け焦げ、嫌な臭いが新にまで届いた。
「ナンデワタシダケ!」
御言は足を止めない。
苦痛に顔を歪める事も無く、少女へ優しく微笑みかけた。
「熱かったね」
一歩。
「怖かったね」
一歩。
「苦しかったね」
また一歩。
「お母さんを呼んだのに、来てくれなかったんだね」
「イヤ……イヤッ! クルナッ!」
黒い影が御言の身体をバチッ! とまるで電流のような鋭い音で打ち付ける。
一度ではない。
肩に、腿に、頬に。
鞭打ちの様に、何度も。
しかし、いくら打ち付けられ、服や肌が黒く焼け焦げようと御言は足を止めない。
「御言!」
恐怖は確かにある。これまで感じた事のないほどに。
しかしそれよりも、傷ついていく御言をほっとけない。
新は立ち上がり、御言へ駆け出す。
しかし、突如目の前に白銀の炎の壁が立ち上がった。
幻覚ではない。焼けつくような熱を確かに感じる。
顔の前で腕を交差させて熱から身を庇う。揺らめきの向こうに見える御言は今も黒い影に身体を打たれている。
「御言! 御言ッ!」
新の言葉に答えず、御言は何度も打ち付けられながら少女の目の前で足を止める。
――そして膝をつき、少女と同じ目線になると、両腕を広げ抱き締めた。
「大丈夫。一人でよく頑張ったね」
優しく包み込むような声色に、黒い影の動きが鈍くなった。
「……ガンバッタ?」
御言は少女を抱き締めたまま、「うん」と頷いた。
「怖かったのに、諦めずにお母さんを呼んだんだね」
「……デモ、コナカッタ」
「うん」
「熱くて……痛くて……苦しくて……」
「うんうん。それでも最後まで諦めずにお母さんを呼んだ……本当によく頑張った」
「でも……でも……」
少女の声が、幼さを取り戻していく。
さっきまで獣のように蠢いていた黒い影は、今はただ行き場を失った煙のように漂っている。
御言は少女の背中を優しく擦りながら、静かに目を閉じた。
「焦げた夜に閉じ込められた美しき魂よ。もう煙と炎の中で泣かなくていい。出口はすぐそこにある」
御言の足元から、淡い黄金色の光が広がった。
焼け焦げたアパートを照らし、少女の足元から湧き出ていた黒い影を少しずつ溶かしていく。
「母を呼ぶ声は、もう届いている。寂しさを置いて、痛みを置いて、怨みを置いて――どうか安らかな場所へ」
少女は御言の腕の中で、ぼんやりと顔を上げた。
その顔にはもう、不気味な笑みはない。
ただ、母親とはぐれて泣いていた、小さな子供の顔だった。
「……お母さんに、会える?」
「うん、目をゆっくり瞑って……開けたら会えるよ」
少女の目から、透明な雫が零れた。
「じゃあ……もう、寂しくない……」
少女の身体が、淡い光の粒になっていく。
指先から。
髪の先から。
少しずつ、夕闇の中へ溶けていく。
「ありがとう……狐のお姉ちゃん」
最後に、少女は笑う。今度は、ちゃんと子供らしい笑顔で。
そして、御言の腕の中からその姿は消えた。
黒い影もない。
廃墟には、ただ静かに淡い夕の光が差し込んでいる。
「御言!」
目の前を隔てていた炎が消え、新はようやく御言に駆け寄った。
御言の服には焦げ跡が残り、頬には黒い痣が浮かんでいる。
「大丈夫か!? 怪我してるじゃないか!」
慌てる新に、御言は満面の笑みを浮かべた。
「えへへ……あの子、今頃お母さんと手を繋いで笑ってるといいな」




