予想外の来客 後編
「紬さんの言う通りね。ここはしっかりと真相を話すわ」
「やはり、ただの婚約ではないと」
「えぇ、半分本気で半分不透明といったところかしら」
紬は一瞬、新を見てから稲元へ視線を戻した。
「詳しく教えてください」
「稲荷坂さんの家は、知る人からすればとんでもない権力者なの。政財界にも影響を持つほどのね。けれど、そういう家だからこそ自由が利かない。欲望の為に近づいてくる者は昔から多かったわ……新君と紬さんなら少しはわかるでしょ?」
新は紬の顔を一瞬見て、視線を戻した。
「そうですね。互いにそれでトラブルになった事はゼロじゃないです」
「でしょうね。でも、稲荷坂さんのそれは貴方達の比では無い。それに彼女のご両親は元々警戒心がかなり強い。加えて娘には過保護だから、今回もかなり慎重に動いたの」
稲元は一度、コーヒーの水面へ視線を落とした。
「そこで目を付けたのが縁のある新君。ご両親も新君のことは知ってたみたいで、藤宮の名を持つ彼を傍に置けば、欲を持って娘に近づく者も少なくなるだろうと踏んだの」
その言葉に紬の表情がすっと冷えた。
「つまりお兄様を虫除けに利用したと」
「そこは私から謝るわ紬さん。でもね、婚約自体はなにもその場しのぎの話じゃない。稲荷坂さんのご両親は新君をかなり気に入っていてね、娘も想いを寄せているし、婚約を前向きに考えたいとのことよ」
柔らかい笑みを続ける稲元に、叶が不快な様子で眉間に皴を寄せたまま立ち上がった。
「な、なんですかそんな勝手な!」
「落ち着いて柚木さん。憤りはごもっとも。だから私もちゃんと話をしてきたわ」
稲元はゆっくりとマグカップを置いた。
「今語ったのは、稲荷坂家側の勝手な希望。そこに新君の意思など微塵も組み込まれていない。だからなんとか説得して最終的にどうするかは、新君本人に任せるべきだと伝えてあるわ」
「新に……?」
叶が立ったまま、新を見る。
紬も鋭い視線を新へ向けた。
「どうしてお兄様はそのことを言い渋ったのですか?」
答えたのは稲元だった。
「さっきも言った通り、稲荷坂家は凄く警戒心が強いの。この事を口外しないよう、新君にもきつくお願いしていたのよ」
稲元の言葉に新は息を呑む。
流石若くして、名門校の理事長の椅子に座る人間だ。
事実と異なる事が多くとも、見事に話をまとめていく。
「……理事長の言う通りだ。すぐに言えなくて、ごめん」
視線を新へ向けたまま紬は黙っていた。
怒っている、納得できないというより、言葉の裏まで確かめているような目だった。
「……わかりました。最終決定権がお兄様にあるのなら、この場でとやかく言っても仕方ありませんね」
紬はふぅ、と小さく息を吐いて稲元へ向き直った。
「最後に婚約に関しては確認させてください。現時点で、お兄様と稲荷坂先輩の婚約は正式なものではない。そういう認識でよろしいですね?」
「えぇ、問題ないわ。少なくとも、今すぐ何かが動く話ではないし、最終的には新君本人の意思が最優先よ」
「……わかりました」
紬は肩の力を少し抜いた。
ただ新の目には、納得と言うより、ひとまず矛を収めただけに見える。
そして次に紬は、叶へ視線を向けた。
「叶お姉様からはなにかありますか?」
「私は……」
叶は視線を落としたまま、胸元でギュッと手を握ってソファに腰を下ろした。
「なんで新がって気持ちが大きいです。新の意思を尊重できるように話を進められたのであれば、望んでない婚約だって破棄しちゃえばいいのにって……思っちゃいました」
叶の言葉に、稲元は嬉しそうに口角を上げた。
「正直な子は好きよ。でも、大人の世界には立場ってものがあるの。稲荷坂家は、私にとって大恩人。簡単に逆らえる相手ではない。もちろん、権力があるからというだけではなく、私自身が受けた恩もある。だから、最初からすべてを突っぱねることは出来なかった。新君の意思を反映させるところまで持っていくので精一杯だったの」
叶は唇を結ぶ。
紬も黙ったまま、稲元の言葉を聞いていた。
「だから、納得しろとは言わないわ。むしろ、納得しなくていい」
その言葉にすぐ反応したのは、叶だった。
「いいんですか?」
「えぇ、これまで通り……いや、これまで以上に新君の傍にいたっていい。今回の件で三人の距離が離れるのは稲荷坂さん自身が望んでいない」
「稲荷坂さんが?」
「えぇ。だから私からもお願い。柚木さんも紬さんも、稲荷坂さんをちゃんと見てほしい」
「そ、そんな私達……」
叶がそう言うと、紬が口を挟んだ。
「私と叶お姉様は確かに今回の件に憤りを感じておりますが、それだけで稲荷坂先輩を邪険に扱うほど、短絡的ではありません。ただし……」
「ただし?」
稲元が問い返すと、紬の表情から柔らかさが消えた。
「そこに悪意が潜んでいると判断した時は、容赦しません。縁や家柄など関係無く、私はお兄様を守ります」
言い切った紬に稲元は笑みを崩さない。
「凄いわね。まだ十六歳なのに、今にも噛みついてきそう」
そうなんですよ。こいつならやりかねませんよ。
新は苦笑いを浮かべながら、胸の内で呟いた。
「さてと……そろそろお暇させていただくわ」
立ち上がり、玄関へと歩き出した稲元に紬が続く。
すると稲元は「あっそうそう」と言って振り返った。
「もし込み入った話がしたいのであれば、私の部屋を好きに使っていいわ。鍵はいつでも開けておくから」
特に返事を待つわけでもなく、稲元は新と目を合わせ、微かに口角を上げて藤宮家を後にした。




