『勇者』
──勇者様! 勇者様!
──ありがとうございます……ありがとう……!
──貴方は命の恩人です! 子供たちを助けていただき、本当に……!
耳の奥で、民衆の喝采が木霊する。
ここ数年、嫌というほど聞いた賞賛、歓声、喝采、凱歌。
人を助ければ助けるほど、感謝された。
人に尽くせば尽くすほど、絶賛された。
その中に、己が最も取り戻したいものは、何一つとして存在しなかった。
「……ヴァイス……」
夜営の焚火から、遠く。
仲間たちが眠りに就いた頃、そこから離れた岩の上にアインハルトは腰を下ろしていた。
後ろで一つに結んだ銀髪は、長い旅の道程で色がくすんでいる。魔物の血が染み付きすぎて変色してしまった。
王都から旅立った頃こそ白かった外套は、すっかり戦火に焼け焦げ、裾もぼろぼろになっていた。『勇者』として支給された装備は、肉体の成長に合わせて替えたり、死闘で壊れた時に幾度も変わっている。今は、かつての聖騎士時代を思わせる青と白を基調とした礼服だった。
「……はあ……」
彼が懐から取り出して見ていたのは、一つのブローチ。
蒼い宝石が加工された簡素な装飾品は、彼女との最後の思い出の証だった。
これを見るたび、過去の記憶が頭の中で反響する。
彼女との出会い、声、言葉、やり取り、感情、感傷、温度、匂い、眼差し、その総て。
何度も何度も思い返し、尽きない後悔の念に晒される。
護れなかったとか、会いたいとか、どれだけ言い尽くしてもなお足りぬ謝罪の言葉を、一通り想起して。
行きつく最後の念は、いつも一つ。
「…………殺してくれ」
今すぐ、彼女に、彼女の手で、殺してほしかった。
生きている意味が分からない。
生きて、彼女以外の者たちに感謝される意味が分からない。彼女以外の者らのために尽くしている意味が分からない。彼女以外の人々を護って戦っている意味が分からない。
勇者。騎士。──救世主。
もはや肩書きに意味など見出せない。あの日、あの時あの瞬間、最も護るべき──護りたかったものを護れなかった自分に、名前すら必要なのかとさえ疑問に思う。
「アイン」
「……シュライゼンか」
背後。
二メートルほどの距離の向こうに、仲間の一人が来ていた。最も付き合いの長い相手だ。仲間としても、従者としても、親友としても、世話にならなかった事はない。
「うーん……色んな建前を考えてたんだが、どれも無意味そうだな。なんか、話しかけた方が良い気がしたんだよ。どうだ?」
「は……流石だな。ちょうど引き戻されたよ。お前はいつも、勘がいい」
「そりゃよかった。寝て起きたら仲間の死体が増えてたー、なんて笑えねぇからな」
そんな物言いに、また微笑が零れた。昔から、こうして遠慮のないところが、この相手を信頼できる最大の理由だった。
「なぁ……、」
だからこうして、自然と胸中の奥に仕舞いこんでいた言葉も口にしてしまう。
「……ヴァイスは、俺をまだ憶えていてくれてるかな……」
「──、」
「時々……思うんだ。いっそ全部、忘れてもらってくれないかって。彼女のために何もできなかった男なんて捨てて、ちゃんとした相手と……」
「アイン」
従者の言葉が、それ以上の独白を中断した。
「錯乱してるぞ。憶えていてもらいたいのか、忘れてほしいのかどっちだ。それとも恨まれたいのか?」
「……憎んでくれるだけ、マシだ。だって俺にはもう、彼女を想う資格なんて……」
「本当は分かってるだろう? どれだけ自分を卑下したところで、お前は結局救いたいんだよ。そして彼女に会って、話すんだ。たくさん。それがどれだけ独りよがりな事でも、オレたちはずっとお前の味方で、仲間だ」
それ以上の、言葉はなかった。
互いに何を言っても、道は二つしかない。
──進むか、諦めるか。
「……明日はいよいよ北部への侵攻だ。あの女──フィリアの支配領土に入る。さっさと寝ろよ、団長。姫さんも、寝起きに見たお前の顔色が悪かったら心配するぞ」
「……ああ」
会話はそれで終息した。
従者は去り、勇者の視界では、夜空の星々が暗い闇を見下ろしている。
長い夜の後。
彼らにとっても、最後の戦いが始まる。
♰
天穹歴四七四年、王国の『勇者』一向が北部領土に到達。
魔王フィリアが支配する領域、その境の手前には、人類軍最大の野営地があった。
「流石に豪勢だな。王国と帝国の共同基地なだけはある」
そんな感想を零したのはシュライゼン。
七年前のあの日から、北部では魔物が活発化している。王国を始めとした人類の諸外国は、魔王フィリアの王都出現と共にこれを世界存亡の兆候と捉え、近辺の国から軍を動員し、魔物を定期的に間引いていた。
「──兄さん!」
「えっ……」
彼らの前に現れたのは、腰まで銀の髪を伸ばした外套服の女性だった。
しかし顔立ち、声から、彼女が誰かなどと迷う者はいなかった。
「セシリア……」
「えぇっ!? ちょ、アンタなんでここに!?」
名を呼んだアインハルトよりも狼狽を見せるメリルに、クスリと相手は笑う。
「なんでって、決戦ですよ? あの魔王と私の因縁を考えれば、駆け付けるのは至極当然!」
「そういう問題じゃなくて……」
「……しばらく見ない間に、皆さんもすっかりカッコよくなっちゃいましたね」
七年の時は、セシリアに限らず、ここにいる全員を変貌させていた。
たった一日と、それからの全て。
学生時代の面影は戦火と血の中に消えた。率いる一人が使命を自覚した時、彼らは五人という少数精鋭ながらも、十年足らずで数百年と生きていた魔王を二体も葬り去った。
「かくいう私は、当代代理聖女を陛下から拝命致しました。あの人の……ヴァイスさんには及ばずとも、今回の戦いに出陣する皆さんをサポートします」
「……サポートってね……魔王を甘く見過ぎじゃないの? しかも今回の相手はあの女なのよ?」
「もちろん、分かっています。でも、」
一呼吸置いて、聖女は真っすぐに己の兄を見た。
「この中で誰よりも……あの魔王を追い詰められる可能性があるのは、ただ一人。私は……いえ、私たちは、その戦いに邪魔が入らないよう、支援するのが精一杯だと思います」
「……!」
目を見開くアインに、しかし苦笑するのはシュライゼンだ。
「まさか……団長に一人で魔王と戦わせるって言ってる?」
「無茶……とは言えないな。人員の損害を最小限に抑えつつ、『次』の戦いに備えて相手の情報を得る……という観点では、一理ある作戦だ」
「シュラも副団長も何言ってんの!? そんなことッ……」
「道理……私たちの存在が、団長の枷になってるのは気付いてた」
「ちょ、ザスキア!?」
一人で魔王と戦う。
あまりにも人間離れした事を押し付ける案だが、妥当だと感じる面子は、この数年、いやもっと前から、アインハルトの潜在能力に勘付いていた者たちか。
「……期待には応えるけれど……お前ら、人をなんだと思ってるんだ?」
「狂犬」とシュライゼンが答え、「最優」とエクレールが続け、「団長」とザスキアが継ぎ、「人類最強です」とセシリアが言い、しばらく目を彷徨わせた後、「トンデモ騎士!」とメリルが叫んだ。
「……メリルが一番酷くないか?」
「トンデモって……語彙」
アインとシュライゼンの視線が冷たい。
「う、うるさい! 本音よ本音! でもそれはそれ! 作戦上は最善でも、もし失敗したら人類終わりなんだけど!?」
「それを言い出したらお前、これまでオレらが何度終わりかけてきたと思ってんの」
シュライゼンの言い分に、う、とメリルは言葉を詰まらせる。
「アインがいなきゃ、オレたち全員、何度死んでたか分かんねーよ? ……ま、ここまで散々ストレス溜めてきたんだ、最後くらいパァッと暴れさせてやろうぜ」
「あのなぁ、シュライゼン……」
「事実だろ?」
「魔王フィリアが最も興味を抱いているのは団長だしな。説得、交渉の面から見ても最適な人材だろう」
エクレールの意見に、ザスキアがアインを見た。
「……交渉……できそう?」
「無理だろうな……破綻する自信しかない」
「早くぶっ殺してぇ、って殺気ダダ漏れだからねーお前」
「あの、余裕があったら私も一発殴っておきたいんですが……」
「話に出るだけでヘイトが高い女ね……」
「魔王、シスベシ、慈悲はない」
ザスキアの合言葉に、うむと満場一致した。
これまで何度も仕留め損ねてきたが、今度の今度こそ年貢の収め時である。
「おお! 貴方が噂に聞く王国の勇者殿かな!?」
「これはこれは素晴らしい……クックック、素晴らしい……見ただけで新たな戦術のインスピレーションが湧いてくる……」
そんな作戦方針が決まったところで、人類軍の将軍や指揮官といった色濃い人材が顔を出してくる。明らか人相の悪い奴も混じっていたが、仕事ができる者特有の表れだろう、おそらく。
──もし此処に転生者がいれば、「……あっ……原作では吸血鬼化して野良ボスやってたモブ人材だ!!」などと反応していたかもしれないが。
現地人にとっては、知る由もないことであった。
♰
「セシリア、少しいいか」
人類軍の作戦会議を終え。
全体的な作戦方針が決定し、各々作戦開始時刻まで解散と相成った頃、アインハルトは久々の再会を果たした身内を呼び止めた。
兄妹同士、積もる話もあるだろうと、自然と彼らの行く先に人気はなくなる。そうして野営地の一角、二人きりになったところで、アインが足を止めた。
「……今回の作戦、互いに生きて帰郷できるか分からない。だから、今の内に伝えておきたいことがある」
「あ、ヴァイスさんへの遺言とかは一切聞き入れませんから」
「分かってる。……まったく、誰も彼も、俺がそんなに死にたがりに見えるのか?」
「そんなに暗くて死んだ目をしてたら誰だって思いますっ」
両手を腰に当て、声を尖らせるセシリア。
そんな彼女には振り返らず、軽く微笑を零してから、アインハルトは一息吸った。
「俺は……君の本当の兄じゃない」
泥を吐き出すような、告白だった。
それは運命と出会う以前から彼が抱え続けてきたもの。今、ここで、初めて口にされた事実だ。
転生者でも知られざる真実。
本来の歴史であれば、彼が墓場まで持っていくはずの吐露だった。
「ローゼンクロイツ……母上も父上も、どうせ君には何も言っていないんだろう。そして、この先も口にするつもりがない。でも、君には知っておいて欲しかった。知るべきだと……思っていた。ずっと、昔から」
「……え、と。す、すみません。完全に予想外の新事実の判明すぎて……ッ!?」
「はは、そうだよな。ごめん。……大事な戦いの前なのに」
なんと言っていいか分からないながらも、しかし、臆せずセシリアは言葉を継ぎ足す。
「どういうこと、なんですかって、訊いても……?」
「もちろん。俺……いや、僕は本来、ここに立つ資格すら無い人間なんだ。聖騎士、勇者、救世主……この立場になってから手にしたものは全て、見れるはずもない夢そのものだ」
「……兄さん」
「でも、夢は夢でも、役柄には相応の責任がある。果たすべき責務が」
彼は、振り返る。
『妹』と認識する相手に。硝子のような、壊れそうな微笑みを返す。
「この立場で手に入れたもの、積み重ねたもの……その全てに胸を張れるような自分でいたい。例え……偽物の騎士でも。偽物なりに意地があるし、矜持がある」
彼女は今、目の前にいるのが誰か分からなかった。
アインハルトと呼び親しむ敬愛する兄なのか。
アインハルトと名乗る、世界で最も優しくて強い……「誰か」なのか。
「ここまできたら、本来の僕がどんな奴なのかなんて関係ない。だから必ず……彼女を、ヴァイスを取り返す。……あの子にも、話さないといけないからね」
ほんの数瞬、その表情が和らぐ。
瞬きの刹那だったが、確かに。
「……それじゃあ、その日はパーティですね。なんだか面白そうな話ですし、皆の前で詳しく! その辺りの事情を語ってもらいます!」
「い、いきなりハードル高いな……今のも、結構な覚悟が必要だったんだぞ?」
「ヴァイスさんの隣なら、そんなのきっと関係ないですよ」
それだけは確信を持って言えることだった。
騎士は、少しだけ虚を突かれた顔をして、
「……そうだね。ああ、そうだろうなぁ……」
まだ見ぬ未来を幻想し──目蓋の裏に、それを閉じ込めた。




