救世譚
背もたれのある長椅子の右側にヴァイスが座った。
黄昏の陽射しを浴びる彼女も美しかった。数十分前、黒髪に差したささやかな真紅のリボンだけでも十全に魅力が引き出されている。少なくとも彼にはそう見えた。貴族同士のデートだというのに、宝石の一つも渡せなかった己の失点を除いては。
その左横に、アインハルトも腰を下ろしていた。
「……ふー……」
珍しく、彼女は緊張している面持ちだった。
瞳は暗い。何か、見えない重圧を背負っているように思えた。いや、救世主だと宣言した時から、彼女はずっとそうだった。意図的に自らの精神に遊びを入れて、余裕があるように見せているような気さえした。
不思議な子だった。
心の底から笑っていながら、更に奥ではじっと忍耐強く何かを堪えている。
──世界のためなら、私は魔王になったって、いい。
あの時、見据えられた瞳が忘れられない。
可憐でどこか掴みどころのない彼女の本質。それは何者にも触れさせてくれない、鋼鉄の覚悟の塊だった。
だから彼女の騎士になると、幸せにすると誓った。
少しでも……その張り詰めた魂が、和らぐように。
「『天穹歴五五〇年……世界は崩壊した』」
「っ?」
急な語り口に、虚を突かれた。
それに構うことなく彼女は続ける。
「『人類の八割は死滅し、文明は残骸と灰燼と化した。新たな世界の支配者として台頭したのは吸血鬼とその王たち。──魔王』」
「なにを……」
「『その最も位の高い魔王は決断した。人類の廃滅を。ただ一人として残さぬ破滅の行進を。黄昏の騎士は忠誠に頭を垂れた。闇夜の騎士は憐憫し剣を預けた。白昼の騎士は憧憬を胸に全てを捧ぐと誓った。黎明の騎士は使い魔の竜と共にただ従った』」
一呼吸。
「『そうして、人類最後の時代は始まった』」
「まさか……」
彼は悟った。
次に紡がれる名を。
「『魔王の名をアインハルト。アインハルト・ジーク・ローゼンクロイツ。至上にして最悪の災いの根源たる、全ての救世を阻む──天譴の騎士である』」
声は出なかった。
ただ、脳裏によぎったものがあった。
──魔王になんかならないで!
それは襲来の夜、セシリアが叫んだ言葉。
あの時はその意味を深く考える余裕はなかった。しかしこうして思い出した今は、
「き……君は、」
「──しかし彼らは惨敗しました」
「ッ、えぇ!?」
急に話の流れが変わった。
始まったと思ったら一瞬で負けている。いや負けるべきなんだろうが、あまりの速さに置いてかれそうになる。
「闇夜の騎士はギミック戦闘でした……状態異常とスリップダメージでハメて嬲り殺しにされ、その身をもって救世主に外道戦法を授けました。白昼の騎士はテクニカルタイプでした……救世主にバフデバフ概念を叩き込み、必殺技をカウンターされて散りました。黄昏の騎士は搦め手でした……救世主に対話と交渉を仕掛け、闇討ちを狙ったものの、救世主は未来予知者のドロップキックで救われ、覚醒した彼らと真っ向勝負して無事爆散。残った黎明の騎士はルート選択制でした……お菓子が美味しかったので大抵寝返りました」
「えぇ──……」
一体何が起こってるんだその世界。
見知った仲間たちを思わせる異名の敵が、ろくなやられ方をしていない。というか一人は裏切っている。
「最後の天譴の騎士は、」
ごくり、とアインハルトは唾を飲みこんだ。
ヴァイスは遠い目で続けた。
「──地獄。地獄でした。救世主が初めて知った真なる『絶望』そのものでした。スキル使用不可、MP上限固定、レベル固定、パーティ編成固定、ウェーブ毎の時間制限、あらゆるシステム的デバフを食らいながら、何度も何度も挑み続けました。装備を見直し、魔法特化に切り替え、最終的にはプロファイルデータロード連打でフレームを見切りながら回避し、ヒットアンドアェイしながらエリクサー投擲、反転ヒール爆撃でどうにかこうにか追い詰めました」
「お、追い詰めたのか……」
途中から何を言ってるか分からなかったが、きっと己の知らない戦法なんだろうとアインは流す。なにやらとても苦労したのだけは伝わった。
「ですがそれは始まりに過ぎませんでした……始まる第二覚醒状態、初見殺しを食らって再び救世主は絶望に叩き込まれました」
「まだあるのかッ!?」
「救世主は悟りました……毒火傷呪い絶望の状態異常ダメージは神だと」
「泥沼!? 泥沼だったのか!?」
「そう……救世主はこれまで彼の部下たちに教わったことの全てを実践して、ようやく魔王討伐を果たし、世に平和と秩序をもたらしました……あーでも、ちょっと魔王が残ってたりしたので、そこはエンディング後に残党狩りしに行ったりしました」
ふう、とそこで語り手は息を吐いた。
どうやらこれで一区切りついたらしい。
「それが私の知ってる救世譚」
どこか、憑き物が落ちた顔でそう締めくくられ、
「そして私は未来予知者……とは言えないか。別世界の未来を知っている記録者とでも言えばいいのかな。加護からして三柱の神々が関わってるようだけど、具体的な使命は分からない。まあ、暫定的な役割としては──」
そこで、初めて彼女の眼が此方を向いた。
光のない、赤い瞳が。
「アインハルトが魔に堕ちた時の処刑人……ってところかな」
確かな殺意が、そこにはあった。
♰
「なるほど」
アインはただ、頷いていた。
しっかりと今の話を聞き、受け止め、その上で、理解した面持ちで。
「──つまり、俺と君は運命ってことか」
「物凄いポジティブ解釈が飛んできた」
「だってそうじゃないか?」
思わず呆れた目を向けてしまう中、彼は平然と言う。
「それが本来の歴史なら、君と出会った俺とはもう関係がない」
「関係ないって……」
「ないよ」
再度、繰り返された。
「君に誇れる騎士になると誓ったんだ。だから、俺は魔には堕ちないよ」
──。
…………まぶしい。
彼の微笑みが、泣きたいぐらい優しくて、まぶしい。
「……そうかな」
「そうだよ」
「……そう、なるかな」
「君はもう少し、俺に与えた影響を考えるべきだな!」
あはは、とアインが笑う。
屈託なく。私が知る、彼のままの……記憶にある彼とは違う、笑顔を浮かべてくれる。
何かが溢れそうになって、その身に寄りかかった。
「ヴァイス?」
「……卑怯だな……卑怯だよ……こっちはさ、ずっと覚悟して生きてきたのに……」
婚約者になるなら都合がいい。
近くにいれば、何かあればすぐに殺せるな。
……私はそう考えて大司教の提案を受け入れた。殺すために。殺すために。確実に何があっても殺せるように。
でも出会って、救いたいと思った。思ってしまった。
彼を殺したくない。
その結果が今だ。
結局、何もかもを解決するのは愛か。なんて陳腐な話だ。私が決めてきた覚悟とか、周回とか、時間とか、なんだったんだ。酷すぎる。
再び息を吐いた。
河の流れがよく聞こえる。
風も、音も、心も、何もかもが、凪いでいる。
ずっと続けばいいと、そう思った。
♰
──デートから寮に帰ると。
「こんにちわ?」
簡素なミニテーブル。その椅子に、金髪の美女が座って待っていた。




