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断罪されるはずの悪役令嬢ですが、騎士団長が離してくれません  作者: 秋月 もみじ


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第8話 石畳の匂い


「戻ってこい、ローズマリー」


あの日私を捨てた人が、今度はそう言った。


王都に着いたのは、出発から三日目の昼だった。


門をくぐった瞬間、匂いが変わった。石と煤と、どこかの屋敷から漂う香水。四ヶ月前まで毎日嗅いでいた匂いだ。懐かしいとは思わなかった。ヴァイルハルトの土と草と風の匂いの方が、もう馴染んでいる。


ルークが私の横を歩いている。銀色の毛並みが王都の街並みに映える。通行人が振り返る。道を開ける。腰の高さまで育った銀狼は、それだけで人を遠ざける力があった。


クロヴィスは少し後ろを歩いていた。騎士団の制服ではない。旅装のまま。辞めた人間が制服を着るわけにはいかないだろう。でもこの人は、何を着ていても歩き方で騎士だとわかる。背筋と、足の運びと、周囲を見る目の動き方が。


宿を取り、荷を解いてから、王城に向かった。


呼び出し状には「王太子の名において出頭を命ずる」とあったけれど、私はもう追放された公爵令嬢だ。正門からは入れない。


しかし、脇門の守衛に名を告げると、すぐに通された。


案内されたのは王太子の私室だった。謁見の間ではない。


部屋に入って、最初に目についたのは机の上の書類の山だった。乱雑に積まれている。以前はこんなではなかった。私が社交の調整をしていた頃は——


いや、そんなことはどうでもいい。


アルベルト殿下が椅子から立ち上がった。


半年ぶりに見る元婚約者は、少し痩せていた。頬の線が以前より鋭い。目の下に影がある。眠れていないのだろうか。


「来てくれたか」


来てくれた、ではない。命じたから来たのだ。でもそれを指摘するほど、私は意地悪ではない。たぶん。


「お呼びとあれば」


形式的な一礼。かつて婚約者として向き合っていた時とは、距離が違う。


殿下が私の後ろを見た。クロヴィスがいる。壁際に立って腕を組んでいる。ルークは宿に残してきた。さすがに銀狼を王城には連れ込めない。


「……クロヴィスか」


「殿下」


短い応酬。クロヴィスの声には何の感情もなかった。殿下の声には、少しだけ苦いものが混じっていた。


殿下が私に向き直った。


「単刀直入に言う」


椅子を勧められたけれど、座らなかった。立ったまま聞いた。


「お前の能力を、認める」


能力。


「辺境の領地を交易拠点にまで育てたと聞いている。薬草の品質は隣国でも評判だ。鉱山の試掘も始めたと」


情報が早い。誰から聞いたのだろう。宮廷の情報網か、それとも呼び出し状を出す前に調べたのか。


「婚約を復活させたい」


一瞬、頭が空白になった。


「王都に戻ってこい。お前のような人材が辺境に埋もれているのは、王国にとって損失だ」


殿下の目は真剣だった。嘘を言っている目ではない。本気で、そう思っている。


——これは。


頭の隅で、ゲーム脳が起動した。


攻略対象からの復縁ルート? そんなイベントは存在しない。王太子ルートのエンディングは「婚約破棄→悪役令嬢退場→王太子と聖女が結ばれる」だ。復縁なんてどこにもない。


でもクロヴィスが剣を抜いたのも、ゲームにはなかった。


この世界は、もうゲームの通りには動いていない。


「……殿下」


声が出た。思ったより平静だった。


「なぜ、今になって」


「言っただろう。お前の能力を——」


「能力が必要なら、有能な臣下を登用すればよろしいのでは」


殿下が口を閉じた。


「私でなければならない理由が、おありですか」


机の上の書類の山が目に入った。乱雑に積まれた報告書。社交の調整報告。慈善事業の進捗。以前は私がまとめていたものだ。


殿下は、私の能力が欲しいのではない。私が処理していた雑務——いや、雑務ではないけれど——を処理してくれる人が欲しいのだ。


でも、それは婚約者でなくてもできることだ。


「お返事は、明日に」


そう言ったのは、考える時間が欲しかったからではない。


一瞬だけ、迷ったからだ。


ほんの一瞬。王都に戻れば、社交界に復帰できる。公爵令嬢としての地位を取り戻せる。ヴァイルハルトの泥だらけの畑ではなく、王城の磨かれた床の上を歩ける。


その一瞬が、自分で怖かった。


迷ったのだ。ほんの少し。


殿下が頷いた。「待つ」と。


部屋を出る時、背後でクロヴィスが動く気配があった。


廊下に出てから、クロヴィスの顔を見た。


変わらない。いつもの無表情。でも——何かが違う。


「クロヴィスさん?」


「何でもない」


嘘だ。


でもそれ以上は聞かなかった。この人は聞いても答えない。


王城を出て、宿に向かう道すがら、クロヴィスが一度だけ口を開いた。


「お嬢が決めることだ」


声が硬かった。いつもの素っ気なさとは違う硬さ。帳簿を閉じた時のような、余韻のない硬さ。


「お嬢が王都に戻りたいなら、それでいい。俺は——」


そこで止まった。


「俺は、お嬢の判断に従う」


違うことを言おうとした。絶対に。今の言葉は、最初に浮かんだ言葉ではない。言い直したのだ。飲み込んで、別の言葉を出した。


何を飲み込んだのだろう。


聞きたかった。でも、聞けなかった。殿下の前では聞けなかったのと同じように。


宿に戻った。


夕食を食べた。味がしなかった。何を食べたか覚えていない。ルークが私の皿から肉をくすねたことだけ覚えている。


部屋に入って、寝台に座った。


壁が薄い。隣の部屋の誰かが咳をしている。宿の灯りが窓の隙間から漏れて、天井に模様を作っている。


眠れない。


殿下の言葉が頭を回る。「戻ってこい」。「お前の能力を認める」。


違う。


私が欲しいのは、能力を認められることではない。もうとっくにわかっている。ヴァイルハルトで薬草を育てて、帳簿をつけて、ハンスやマルタと畑を耕して——あれが、私の力だ。殿下に認めてもらわなくても、もう知っている。


では、何が欲しいのだろう。


寝台の横で、ルークが起き上がった。


のそのそと私のそばに来て、寝台の上に前足を乗せた。大きくなりすぎて、もう寝台には乗れない。だから前足だけ。頭を私の膝に押しつけてくる。


温かい。


ルークの頭を撫でながら、小さな声で言った。


「……私の居場所は、ここじゃない」


ここ、がどこを指すのか、自分でもわかっていた。


この宿でもない。この王都でもない。


畑がある。門がある。油を差した蝶番がある。台所の壁にルークの飯のメモが貼ってある。天井から薬草がぶら下がっている。裏庭で薪を割る音が聞こえる。


あそこだ。


あそこが、私の場所だ。


ルークが鼻を鳴らした。わかっているよ、とでも言うように。


ふと、廊下の方に耳を澄ませた。


音はしない。でも、気配がある。


扉の向こうに、誰かがいる。


六話前の夜と同じだ。巡回ルートではない廊下に、剣を抱えて座っている人がいる。


今度は確かめに行かなかった。


いることがわかっていれば、それでよかった。


目を閉じた。


明日、答えを出す。


答えは——もう、出ている。

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