第2話 手袋と外套
その朝、王国騎士団の副団長は、団長室の机に置かれた紙を見つけた。
辞職届。
署名はクロヴィス・ノルデン。日付は建国祭当日。
理由の欄には、短い文がひとつ。
『護るべき主を、間違えていた』
副団長は紙を裏返し、表に戻し、もう一度読んだ。
それから小さく、誰にも聞こえない声で言った。
「……馬鹿野郎」
紙を引き出しにしまう。
窓の外では、王都の朝焼けが始まっていた。
王都の朝焼けを、もう二度と懐かしいとは思わないだろう。
たぶん。
いや、わからない。七年も暮らした街だ。嫌いではなかった。パン屋の焼きたての匂いも、朝市の果物を選ぶ時間も、教会の鐘が鳴るたびに鳩が飛び立つのを窓から眺めるのも。
でも、あの屋敷に戻るのは嫌だった。
馬車は昨夜のうちに王都の安宿に入った。クロヴィスが手配していたらしい。宿の女将が「騎士様から聞いてますよ」と言いながら渡してくれた部屋の鍵は少し錆びていたけれど、寝台のシーツは清潔だった。
一晩眠れなかった。
泣きもしなかった、けれど。
朝になって、私はクロヴィスに言った。
「カーティス家に荷物を取りに戻ります」
「ひとりで行くな」
「大丈夫です。殺されはしません。お義母様はそういう方ではないので」
そう、あの人は殺さない。利用する人だ。利用価値がなくなった駒は、嘲笑って捨てる。それだけ。
「門の前で待つ」
クロヴィスは譲らなかった。この人と言い合っても無駄だということは四年の付き合いで知っている。頷いて、宿を出た。
カーティス公爵邸の門をくぐるのは、これが最後になる。
玄関に入ると、使用人たちが目を逸らした。昨夜の噂はもう広まっているのだろう。当然だ。舞踏会で王太子が公開断罪した令嬢が帰ってきたのだから。
自室に向かう途中、廊下の花瓶の水が濁っていることに気づいた。以前は毎朝取り替えていたのに。私がいなくなると分かって、もう手を抜き始めたらしい。
荷物は少なかった。
着替えを三着。前世の記憶を頼りに書き写した薬草のメモ帳。母の形見の小さなブローチ。それだけを鞄に詰めた。ドレスは置いていく。辺境にレースの夜会服は要らない。
部屋を出ようとした時、階段の踊り場に義母がいた。
「辺境になど行ってどうするの」
香水の匂いが先に届いた。薔薇と麝香。この匂いを嗅ぐと、いつも少し息が詰まる。九年間ずっとそうだった。
マーガレット・カーティス。父の後妻。私の母が死んでから、この家を仕切ってきた人。
「お母様の領地ですもの。見てみたいと思っておりました」
「あの荒れ地に?」
義母が笑った。扇の陰で、口元だけで。目は笑っていない。目が笑っているのを見たことがない。
「あなたに領地経営ができるとでも? 社交界を追放された公爵令嬢が、辺境の荒れ地で何をするつもり?」
たくさんあるけれど、あなたに教える義理はない。
「さあ。行ってみないとわかりませんわ」
「——勝手になさい」
勝手にします。もうずっと、勝手にしたかったんです。
義母の横を通り過ぎる時、階段の下にリリアンの姿が見えた。
妹。異母妹。十七歳。
柱の陰に半分隠れるようにして、こちらを見ている。何か言いたそうな顔。口が少し動いた。でも声は出なかった。
私は、微笑んでみせた。
リリアンが悪いわけじゃない。この子はただ、義母の言う通りにしか生きられなかっただけだ。ゲームでもそうだった。リリアンという名前のキャラクターは存在しなかったけれど、もしいたなら、きっとこういう顔をしていたと思う。
声をかけようか迷って、やめた。
ここで何を言っても、義母の耳に入る。リリアンを巻き込むわけにはいかない。
玄関を出ると、門の前にクロヴィスが立っていた。壁にもたれて腕を組んでいる。朝日の中で見ると、制服の肩のあたりが少し色褪せている。七年も着ているのだから当然か。
「終わったか」
「終わりました」
クロヴィスが私の鞄を見た。小さな鞄一つ。七年暮らした家から持ち出すものがこれだけかと思ったのかもしれないけれど、何も言わなかった。
馬車に乗り込む。昨夜とは別の馬車だ。幌が破れかけていて、座席の革がところどころ剥がれている。
「ヴァイルハルトまで三日かかる。途中の宿は手配してある」
「……ヴァイルハルト」
母の領地の名前を、私は声に出して言ってみた。ゲームでは背景テキストに一度だけ出てきた地名。フレーバーテキスト。読み飛ばす人の方が多い。
その場所に、これから住む。
馬車が動き出した。石畳の振動が座席に伝わる。窓から見える王都の街並みが、ゆっくりと後ろへ流れていく。
しばらく無言が続いた。
クロヴィスは向かいの席で腕を組んだまま目を閉じている。寝ているのか考えているのかわからない。この人の無表情は便利だ。何を考えていても同じ顔をしている。
王都の門を出た時、少しだけ振り返りたくなった。
振り返らなかった。
街道に出ると、風が変わった。畑の匂い。土の匂い。王都の石と煤と香水の匂いとは違う。
昼を過ぎた頃、気温が下がり始めた。春とはいえ、王都を離れると空気が冷たい。薄い旅装しか持ってこなかったことを少し後悔した。
ふと、肩に重みを感じた。
クロヴィスが外套をかけていた。黒い騎士団の外套。裏地が擦り切れていて、左の袖口に小さな繕いの跡がある。革と金属と、かすかに馬の匂い。
「寒いだろう」
それだけ言って、クロヴィスは視線を窓に戻した。自分は薄い制服一枚になっている。寒くないんですか、とは聞かなかった。聞いても「問題ない」としか言わないのは分かっていた。
外套の重みが、思ったより温かい。
「あなたは」
口が勝手に動いていた。
「これから、どうするつもりですか」
騎士団長の職を辞めたのだ。たぶん。昨夜のあれは辞めたも同然だろう。王太子に剣を向けた騎士が元の職に戻れるはずがない。
「お嬢のそばにいる」
外を見たまま、クロヴィスが言った。
「それだけだ」
また、それだけ。
説明にならない。理由にならない。
でも、昨夜と違って、今度は不思議と腹が立たなかった。
外套を少し引き寄せる。馬車の振動で、体が揺れるたびに、クロヴィスの肩に頭が近づきそうになる。近づかないように背筋を伸ばした。
ゲームの攻略対象は三人。王太子アルベルト、第二王子エドガー、宰相ヴァルター。
この人は、そのどれでもない。
イベントCGもない。エンディングもない。シナリオもない。
なのに、この人だけが今、ここにいる。
意味がわからない。
わからないのが、少し怖い。
でも——外套は温かかった。
三日目の夕方、馬車が止まった。
「着いた」
クロヴィスが先に降りて、手を差し出した。今度は手袋をしていた。使い込まれた革の手袋。握ると硬い。
降り立った先に、屋敷があった。
石造りの二階建て。蔦が壁の半分を覆っている。屋根の瓦が何枚か落ちて、門の鉄柵は錆びている。庭は雑草が膝の高さまで伸びていて、噴水は干上がっていた。
風が強い。王都より、ずっと。
「ここが」
クロヴィスが、いつもより少しだけ声を柔らかくした。
「あなたのお母上の領地です」
お母上。
母は私が十歳の時に死んだ。九年前。ここに暮らしていた頃の記憶は、もうほとんどない。
屋敷の門に手を置いた。鉄が冷たい。錆が指先に移った。
荒れ果てている。どこから手をつけていいのかわからない。
でも、ここには義母がいない。
殿下もいない。
聖女もいない。
ここにあるのは、蔦と、錆と、雑草と、冷たい風と。
それと——後ろに立っている、無表情の元騎士団長。
「ここで、もう一度始めます」
声に出して言ったのは、自分のためだった。
クロヴィスは何も言わなかった。ただ、門の錆びた鍵に手を伸ばして、力任せに開けた。
蝶番が悲鳴みたいな音を立てた。
私はほつれた手袋のまま、門をくぐった。




