第1話 お好きになさってくださいませ
「ローズマリー・カーティス。お前との婚約は、本日をもって破棄する」
手袋の縫い目が、左手の親指のところでほつれていた。
今朝気づいて、でも替えを出す時間がなくて、そのまま来てしまった。
壇上から降ってくる声を聞きながら、私はそのほつれた糸を右手の指先でいじっていた。
——来た。
一ヶ月待った甲斐があった。
王太子アルベルト殿下は、建国祭の舞踏会の壇上で、二百人以上の貴族が見守る中、婚約破棄を宣言している。隣にはイリス・セレーネ。白い聖女服の裾を揺らして、もう泣いている。
泣くの早くないですか。まだ殿下が罪状を読み上げている途中ですよ。
「——聖女イリスに対する度重なる侮辱と嫌がらせ。これはカーティス公爵令嬢として許されざる行為であり——」
許されざる、か。
言葉だけは立派だ。証拠は全部イリスの自作自演なのに。
でも、いい。
一ヶ月前の誕生日に前世の記憶が戻ってから、私はこの日をずっと待っていた。乙女ゲーム『翠星のティアラ』の悪役令嬢ローズマリー・カーティスは、どのルートでも断罪されて退場する。王太子ルートでも、第二王子ルートでも、宰相ルートでも。
だから逆らわない。逆らう意味がない。
むしろ、これで私は自由になれる。
婚約者という鎖が外れれば、お義母様——継母マーガレットの駒でいる理由がなくなる。追放されれば、あの屋敷を合法的に出られる。
一ヶ月かけて考えた結論がこれだ。断罪は、災難ではなく、脱出口。
殿下が演説を続けている間、私は会場をそっと見渡した。
義母は三列目で扇の陰に口元を隠している。妹のリリアンの姿は見えない。来ていないのか、それとも柱の陰に隠れているのか。
「——よって本日をもち、ローズマリー・カーティスとの婚約を破棄し、社交界からの追放を命ずる」
会場がざわめく。同情のまなざし。見下すような微笑。好奇の目。
どれも、思っていたほど痛くなかった。
ゲームの画面越しではなく、自分の目で見ると、案外こんなものなのかもしれない。二百人の視線は重いけれど、潰されるほどではない。潰されないと決めたから。
殿下が私に向き直る。形式上の弁明の機会だ。
「——何か申し開きがあるか」
ある。山ほどある。でも、今ここで言い返しても意味がない。偽造された証拠が殿下の手元にあって、国王陛下も事前に了承している。ゲームの知識がなくても、この場で勝つのは無理だとわかる。
だから私は、微笑んだ。
「お好きになさってくださいませ、殿下」
一礼。深く。手袋のほつれが気になったけれど、最後の礼くらいきれいにしたかった。
殿下の目が少し見開かれた。泣くか、怒るか、弁明するか——どれかを期待していたのだろう。拍子抜けした顔は、ゲームの立ち絵よりずっと間が抜けていた。
その瞬間だった。
金属の音がした。
鋭く、硬く、会場の空気を裂く音。
剣を鞘から抜く音。
私の前に、影が立った。
広い背中。黒い制服。騎士団の紋章。
「この令嬢に手を出す者は——」
低い声。聞き慣れた声。四年間、私の後ろを歩いていた人の声。
「騎士団長の名において、許さん」
——え?
クロヴィス・ノルデン。
私の護衛騎士。いや、正確には「王太子殿下付きの騎士団長で、副次的に婚約者の護衛も担当していた人」だ。
ゲームでは攻略対象ですらなかった。イベントCGは一枚もない。名前のあるサブキャラ。それだけ。
そのサブキャラが、今、王太子に剣を向けている。
会場が凍った。
「クロヴィス、何をしている!」
殿下が声を荒げた。当然だ。騎士団長が王太子に刃を向けるのは反逆罪に等しい。
でもクロヴィスは動かない。壁みたいに動かない。背中しか見えないけれど、たぶん表情も変わっていないのだろう。この人はいつもそうだ。無表情のまま、するべきことをする。
ただ、今この人がしていることの意味が、私にはわからない。
ゲームのどのルートにも、このイベントは存在しない。攻略wikiにも載っていない。騎士団長が断罪の場で悪役令嬢を庇うシナリオなんて——
「お嬢。馬車を用意してある」
振り返らずに、クロヴィスが言った。
お嬢。いつもの呼び方だ。護衛について初日から、クロヴィスは私をそう呼んだ。「カーティス令嬢」でも「ローズマリー様」でもなく。最初は失礼だと思ったけれど、四年も経つと慣れてしまった。
「……用意って、いつの間に」
「出る」
質問には答えない。これもいつも通りだ。
クロヴィスの大きな手が差し出された。手袋はしていない。剣を握った右手とは反対の、左手。ごつごつしていて、指の関節が硬い。この手を、四年間ずっと見ていたのに、握ったことは一度もなかった。
私はその手を取った。
壇上の殿下が何か叫んでいる。イリスが殿下の腕にすがっている。会場がざわめいている。でも、手を引かれて歩き出すと、それらの音がどんどん遠くなった。
裏口から出ると、夜風が頬に当たった。春の夜だ。少し肌寒い。
馬車が待っていた。本当に用意してあった。いつ手配したのだろう。断罪が起こることを、知っていた?
「乗れ」
クロヴィスが馬車の扉を開ける。ステップに足をかけて、車内に入る。古い革の匂い。窓の鎧戸が半分降りている。
クロヴィスが向かいの席に座った。
沈黙。
馬車が動き出した。車輪が石畳を転がる音。それだけだ。
「……なぜ」
聞かずにはいられなかった。
「なぜ、私を庇ったんですか。あなたの職務は王太子殿下のお側で——」
「お嬢が安全であればいい」
それだけ。
それだけ言って、クロヴィスは窓の外を見た。
説明になっていない。理由にもなっていない。でも、その横顔が黙れと言っていたから、私はそれ以上聞けなかった。
馬車の揺れが、少しだけ眠気を誘う。
この人は、ゲームのどのルートにもいなかった。
攻略対象でも、敵でも、味方でもなかった。
だからこそ——わからない。
手袋のほつれた糸を、また指先でいじる。さっき握られた左手が、まだ少し熱い。
馬車は王都の門に向かっている。
行き先は、まだ聞いていない。




