03 況や信頼をや
リベルは周囲を見渡した。
――勇者が頻繁に入る鉱路の浅い部分は、浮揚璧が採り尽くされ、これ以上の採掘は危険と示す赤い塗料が岩壁に掛けられているものだが、この鉱路にはそれもない。
つまり――
(町の近くにあって、なおかつ丙種とか丁種とかの入りやすい鉱路っていう、人気の鉱路じゃないってわけだ)
ようやっと全員分の拘束が解かれ、足許には十九の拘束具が散らばっている。
拘束を解かれた者から順番に作業に加わったとはいえ、厳重な枷だけあって時間を喰った。
ちょうど近くにあった拘束具の一つを、リベルは腹立ち紛れに岩壁に向かって蹴りつける。
本来ならば今頃は、ヴィレイアを口説き落とすための――と言うと語弊があるが――手土産を片手に、エーデルの町に帰り着いているはずだったのに。
「どこだよ、ここ」
「それが分かったところで意味がないっていうか」
ベンノが涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を懸命に拭いながら、ぼそっと呟いた。
その手首は赤く腫れて、皮が捲れて血が滲んでいる。
鉱路に放り込まれた直後の狂乱が鳴りを潜め、今は全員が我に返った様子で、我と我が身が置かれた状況を見直していた。
「なんか、金になるものを集めないとまずいってことだよな……」
「抱えてるのががらくたばっかりじゃ、見せしめに何人か撃たれそうだよな……」
一気に愁嘆場の雰囲気となった十九人を見渡して、リベルは思わず顔を覆った。
――リベルは、他の十九人とは立場が違う。
彼らをここまで連れて来た陸艇が去ってしまえば、リベルは堂々とこの鉱路から出て、町を目指して歩いて行けばいい身分だ。
一方彼らは――彼らが売買された取引は、買主の身分はどうあれ合法に成立したものだ。
つまり、買主の意に背いて逃亡した時点で、違法の誹りを受けるのは彼らなのだ。
本来ならばリベルもそうだったものを、彼は助け出されて――後ろ盾まで得ている。
そして、リベルでは彼らを救えない。
リベルには彼らの生活を引き受ける力はない。
この先ずっと彼らのそばについてやって、彼らを謂れのない暴力から救い続けることも出来ない。
よしんば彼らに魔法使いと〈言聞き〉の関係を説明し、それを弱みに再びヴァフェルムと交渉しようとしたところで、
(さすがにこの人数は相手にしてもらえない――)
良くて投獄、悪ければ口封じの欠落が結末として待っていることは明白だ。
――だが、
「――――」
気持ちが分かる。
痛いほどに。
そしてリベルは、幼い頃――鉱路に挑むには力不足に過ぎるあの頃、エルカの厚意で生き延びた。
乞食の老人の外套の下に匿われて仮初の自由を得て、そして出会ったヴィレイアの尽力で自由を得た。
人の親切を受けたリベルが、誰にもその親切を返さないなど――
(――それこそ不義理ってもんだよな……)
「――あのさあ、提案なんだけど」
リベルが声を出すと、十九人が一斉にリベルを見た。
リベルは怯んで一歩下がり、取り敢えずは名前と顔が一致しているロルドとベンノに顔を向けることとした。
ベンノの顔は拭いきれない涙と鼻水で光っており、ロルドも有体にいって絶望の表情。
リベルは更に下がりつつ、右手を挙げて掌を全員に見せる。
「提案なんだけど……」
集中する視線に口籠りつつも、ここは鉱路であって、のんびりはしていられない。
リベルは息を吸い込んだ。
「――俺、勇者なんだよ。だから、鉱路は慣れてる。取り敢えず俺がちょっと遠くまで行って、それなりに価値のある資源を採掘してきて、それを持ってお迎えを待つっていう手は、ある」
期待と疑念のざわめき。
中には、陸艇から支給された武器を不安げに見つめる者もある。
リベルが武器を独占する――延いては、生き延びる公算を高める――ために、口から出まかせを言っている可能性すら考えてしまうのだろう。
リベルは溜息を吐いて、武器が積められた麻袋に歩み寄った。
その際にじゃっかん怯んでしまったのは、そのそばにいる見知らぬ人々に臆したためだ。
ともあれ、屈み込んで中を検める。
あちらとしても、こちらを無為に欠けさせる気はないのか、それなりに豊富な武器が雑多に詰め込まれており、それ以上の数の採掘道具と、折り畳まれた麻袋が入っている。
更に、
「お、良かった」
保存食を一包み見つけて、リベルはほっとする。
さすがに飢餓で欠落するのは勘弁だと思っていたところだった。
開けてみると、勇者も御用達の携行食だ。
一欠片を水と一緒に口に含めば一昼夜保つと言われる、味は最悪だが栄養価がとにかく高い代物。
不溶石も無造作に押し込まれていたが、リベルは思わずそれを明りクラゲの光に翳してしまう。
(口に入れて大丈夫なもんか、これ……?)
リベルが難しい顔をしているうちに、周囲はおずおずとだが確実に、リベルの言葉を信じる方向に動いていた。
掌に加護の入れ墨があること、そして荷物を探る手つきから、少なくとも素人ではないと全員が判断したようだった。
更にいえば、リベルを信じることにすれば危険な鉱路の奥深くまで入らなくとも済む。
溺れる者は藁をも掴むものなのである。
リベルは保存食の包みをその場に広げ、二十等分した。
そうしてみると一人当たりは悲しいほどの少量になる。
「取り敢えず、じっとしてるにも食いもんは要るから、みんな自分の分だけ取っていって」
リベルが言うと、既に空腹の者もいるのだろう、いきなり距離を詰めてくる十九人。
リベルは仰け反りつつ、「不味いから気をつけて」と。
そして、しれっと二人分を取ろうとした誰かの手を叩いた。
「一欠片で大丈夫だから。腹に溜まる感じはないだろうけど、取り敢えずそれで一日はもつ」
言いつつ、リベルも一欠片を口に含み、不溶石を噛み砕くと同時に呑み下す。
口の中に広がる、苦みとえぐみのある味に顔を顰め、リベルは同じ味に直面して目を白黒させる人々を見渡した。
ベンノが余りの味の悪さに絶句し、咳き込んでいる。
ロルドがそんなベンノの背中を叩いてやっている。
ふと、強烈に、リベルはヴィレイアを思い出した。
彼女も勇者だが、この携行食を口にする度に、面白いほどぎゅっと顔を顰める。
文字通りに苦虫を噛み潰したように。
この食事が続くと切実につらそうな顔をするヴィレイア――
携行食の残りを仕舞い込みつつ、リベルは首を振って現実に意識を集中した。
「――取り敢えず、俺はもうちょっと奥の方まで行って来る。で……」
ロルドを見て、リベルは口籠りつつ。
「……あんたも勇者だって言ってたよね? 良かったらここに残ってくれない? その方が――その……ここに残る人たちを守ってもらえるし」
ロルドは怯んだ表情を浮かべた。
「――単独探索の経験はないし、鉱路で誰かを守ったこともないわよ」
「それでも、なんか危なそうとか、なんか来そうだなとか、そういうことは分かるだろ。なんにも分かんない人たちだけを残していくわけにいかないから」
目を逸らしながらもリベルは応じて、更に誰にともなく言った。
「俺の提案に乗るのも乗らないのも、みんな好き勝手にしてくれればいいんだけど、誰かは俺について来て」
「――なんで?」
と、携行食の強烈な不味さからなんとか復帰したらしきベンノ。
彼が警戒するようにリベルと携行食を見比べているので、リベルは思わず、「そのメシが不味いのは俺のせいじゃないぞ」と考えてしまった。
とはいえそれを口には出さず、リベルは赤錆色の髪をがしがしと掻き回す。
視線が下がり、リベルは自分の足許を睨むような格好になる。
「あー、ちょっと言ってたでしょ、俺、別に売られたわけじゃないって……」
「はあ……」
「もしこの鉱路に他の勇者隊がいたら、俺、そっちと一緒に脱出したいんだよね。どこの町でもいいから、勇者組合の陸艇に拾ってさえもらえれば、後はなんとかなるから……」
馬鹿正直にそう言いつつも、リベルは誰とも目を合わせられない。
人生に光明を失ったおまえらと違って、俺には帰るべき場所がある――などと、そんな冷酷なことを、誰かの目を見て言えるほど、リベルは強くはない。
「だから……もし他の勇者隊がいたら、俺がちゃんとあなたたちと合流できるか分からないんだ。もちろん、どの勇者隊も最終的にはここを通るけど、探索の進み具合ではあなたたちが……その、迎えが来る方が早いかも知れない」
「つまり、あんたが収集したものをここまで運んでくる役目の奴が要るってこと?」
ベンノが呟くように尋ね、リベルはこくりと頷く。
「そう。――それに、ここがもし甲種の鉱路とかだったら、俺だって途中で欠けるかも知れないからね。そしたらやっぱり、誰かに俺が集めたものを持ってここまで戻ってもらわないと」
ひそひそ声が十九人の間で交わされる。
その中には、「甲種ってなに?」という囁きもあり、それにはロルドが、「いちばん危ない鉱路ってことよ」と応じていた。
大多数がリベルを気の毒そうに見ていて、これはリベルの「俺は売られたわけじゃない」という言葉を、リベルの現実逃避の妄想の言葉だと思ったゆえらしい。
実際、売られた身の上を自らでは認められず、最後まで助けが来ると信じながら地獄の境遇に溺没していく者は多い。
「ええっと……」
リベルは言い淀み、それから、言い淀んでいても何も始まらないということに思い至って、武器を覗き込んだ。
どれも〈氷王牢〉には遠く及ばない、それどころか手入れさえされているのか分からないような武器だが、問題はないだろう。
「――そういうことだから、誰か、頼む」
*◇*◇*
リベルは小銃を担ぎ、片手剣を腰に提げて鉱路を進んでいる。
そばには怖々と足を進めるベンノと、他に三人。
三人のうち一人は、リベルが目を覚ましたときにそばについていてくれていた一人で、年齢は二十代前半、ドグと名乗った。
あとの二人はベンノと同い年か、あるいはもう少し年下かといった少年で、リオとセオン。
それぞれ、護身程度に武器を持ってはいるものの、主要な荷物は採掘具や麻袋だ。
リベルが採掘具まで抱えていては、危急の事態が起こったときに対処が遅れかねないと判断してのことである。
リベル以外の全員が、まるで護符を握り締めるようにして武器を握り締め、震えている。
辺りは暗い。
陸艇から押し付けられた荷物の中には、さすがに明りクラゲのランタンまでは入っていなかったのだ。
そのため、野生の明りクラゲやカガヨゴケの光を頼りに進むことになっている。
一度は足場の悪さと視界の利かなさにセオンとベンノが盛大に転び、リベルをひやりとさせた。
慌てて二人を助け起こしてやりながら、幼い頃の探索でエルカがリベルの手を離さなかったのはこういうことか、と得心する。
(俺が転ばないようにしててくれたのか)
が、リベルが見知らぬ相手の手を握っておくことが出来るはずもなく。
「気をつけろよ」
とだけ言って彼らからそそくさと手を離し、情けなさからそっと嘆息するリベル。
――ともあれ、片手が塞がった状態で探索をこなしていたエルカは、当時の年齢も踏まえて考えれば尋常ではない。
セオンは静かに啜り泣き始めたが、ベンノは生来は好奇心旺盛な性質であるらしい、リベルが軽く手を振って、魔法で素早くケルンを組み立てながら進むのを、興味深そうに眺めている。
「なにこれ、目印?」
リベルは、相手が子供とはいえ人見知りを発揮し、吃りながらも応じる。
「そ――そうだよ。だから、俺に何かあったら、これを目印にして戻るんだ」
からからと小さな音を立て、小石が浮き上がっては積み上げられていく様を眺めながら、ベンノは「ふうん」と。
ごしごしと顔を擦って、リベルを窺うようにする。
「兄ちゃん、売られてないって、マジ?」
「うん」
リベルは応じて、溜息を吐いた。
「運の悪いときに運の悪い場所にいて、捕まっただけ」
「じゃあ、兄ちゃん、捜してくれる人がいるの?」
「いる――いるけど、どうだろう……なんていうかな、帰りは遅くなるっていうようなことを言ってあったから、あいつらが俺を捜し始めるのは遅くなるかも知れない」
「それって、一緒に勇者をしてる仲間みたいな感じの人たち?」
「そうだよ。――俺の兄貴分と、相棒。あと、最近お世話になった人」
バンクレットも、さすがにリベルが行方不明と聞けば捜索してくれるだろう。
「その人たちって――」
ベンノが更に質問しようとするのを、異音を聞き留めたリベルが遮る。
「黙って。下がって。
――伏せて」
直後、坑道の奥から忍び寄って来ていた、巨大な熊に似た姿の鉱路生物に向かって、小銃を構え、――一発。
不傷石の煌めき。
的を捉えた弾丸がぱっと輝く。
彼我の距離はおおよそ二百フィートから三百フィートといったところ、竜の眷属の中でも特段に感覚の鈍い人間に気づかれているとは思っていなかったのか、鉱路生物が驚きすら感じさせる呻きを上げて横転、血飛沫が散る。
熊に似た姿ではあったが、不自由な視界で目を凝らせば、大蛇に似た尾を持っているのが分かる。
「すげ――」
思わずといったように上がる声、しかしリベルは舌打ちしている。
「仕留め損ねた」
鉱路の中の、あの感覚がある――日頃の大人しさ、あるいは人見知りの自分、そういったものが、自分の後ろにぽつねんと置き去りにされているような感覚。
それゆえの無造作な、無愛想な声音で、リベルは呟く。
「他にも来てる。しばらく動かないで」
片手剣を抜く。
〈氷王牢〉に比べれば鈍い、脆い、玩具のようにさえ感じる刃物。
不自由さすら感じる。
――だが問題はない。
リベルが氷王を単独討伐したのは、凡百の武器を使ってのことだった。
「すぐ戻る」
横転し、起き上がろうともがいている大蛇めいた尾を持つ熊に駆け寄って、片手剣を一閃。
〈氷王牢〉であればいとも容易く熊の頸は飛んだだろうが、この片手剣ではそうはいかない。
全体重を掛けて押し切って、主要な血管に切り込んだことを、噴き出す血の量から確認して跳び離れる。
巨熊はまだのたうつように動いているが、余命は幾許もあるまい。
見るからにこれは竜の眷属ではないから、間もなく死ぬ。
顔面に飛んだ返り血と、鋼の剣を鈍らせる血糊を魔法で拭い去りつつ、リベルは行く手を一瞥。
天井部分の近くをふよふよと漂う明りクラゲの光を頼りに見遣れば、坑道を押し寄せてくるのは、走るというよりは滑るような動き、水鳥に似た形だが遥かに大きい化け物だ。
身の丈はざっと五フィート程度はある。
脚は見えない――まさに水鳥が水面を滑るかの如くに疾駆しており、脚はどこかに隠れているのか、あるいは岩魚の親戚に当たる種で、岩の中に潜り込む能力を持っているのか。
群れの中に突っ込んでしまったのか、あるいは竜の眷属の気配を察知した群れがこちらに向かっているのか、リベルが測りかねたのは一瞬だった。
ぎええっ、と、白鳥の雄叫びを何倍にもしたような叫びが上がり、聞き取れずとも意味が分かった。
――今夜のご馳走がいたぞ、とでも叫んだのだろう。
竜の眷属、しかも際立って個体が脆弱な人間は、鉱路生物にとっては格好の餌であり、ご馳走だ。
匂いがしたのかあるいは声が聞こえてしまっていたのか、それで大挙して押し寄せてきたらしい。
ひぃ、と、背後で息を呑む声が聞こえたが、
「大丈夫」
リベルは呟く。
――この光景は、押し寄せてくる鉱路生物はその時々で違えど、お馴染みだ。
ロルドであってもこの光景を見れば、如何にも鉱路らしいと頷くだろう。
大挙して殺到してくる鉱路生物は、探索の幕開けには見慣れた光景なのだ。
そして、
「ごめんな。――掛かった獲物が悪かったよ、おまえら」
間断なき銃声。
構えた小銃で坑道を掃射するリベルの後ろ姿を、庇われた四人は瞠目して見つめている。
掃射とはいえ、ここは幅のある地下道のような場所だ。
鉱路生物は横に並んでいるわけではなく、列を成して奥へ奥へと続いている。
その前線を、いわば割り開いたような形。
掃射――鉱路生物が次々に血を噴き出して倒れていく。
中には死に切れなかったものがあるのか、もがくその身体を後続が押し潰していく。
その、生き残った最前線――その一線と、接触。
「――――っ」
息を呑んだのは誰だろう、あるいは全員だったか。
ここにいる四人の誰もが、轢殺よろしくリベルが踏み倒され、間髪入れずにこちらへ殺到してくることになる鉱路生物――その未来しか思い描いていなかった。
が、
「――――!」
手品のような素早さで小銃を持ち替え、その銃身を握ったリベルが、乱暴極まりない動きで小銃を振り回す。
銃把が鉱路生物の脳天を捉え、信じ難いことに、鉱路生物がその場にもんどりうって倒れていく。
そして――光源が乏しいこともあり、その場の四人にはまさしく奇術じみて見えた――何をどうしたのか、一瞬未満の間にリベルは小銃を背負い直し、片手剣を手にして鉱路生物に切り込んでいる。
刹那、その姿は鉱路生物に埋まり、押し寄せる鉱路生物たちに呑まれたかに見え――
――血飛沫、鉱路生物の絶叫。
舞い上がる血飛沫が、明りクラゲの白い光の中で妙に冴え冴えと赤く光る。
血飛沫の中から、文字通り躍り上がるようにして姿を現したリベル、彼が次々に、鉱路生物を踏み潰していく。
水鳥に似た細い首を弱点と見たのか、右手の片手剣で立て続けにその首を刈っていく一方、左腕を使って――まるで抱擁するかの如き動きで――首を抱き込み、力任せに折っていく。
およそ無抵抗な木偶が相手であれば、同じ振る舞いを可能にする者はいるかも知れない――だが実際には、鉱路生物は全身全霊で激しく抵抗している。
それをものともしない、いっそ傍若無人なまでの振る舞い。
骨が折れる鈍い音、断末魔の喘鳴。
そして頽れる鉱路生物の背中を足場に、更に跳躍しては勢いをつけた足裏で、また次々に鉱路生物の顔面を潰し、喉を潰し、苦痛と驚愕の絶叫が満ちる中、血飛沫と共に奥へ奥へ――
――驚嘆すべきは、そうして奥へ進んでいくリベルの背後、即ち四人に迫る側。
そこに、生き残った鉱路生物が一匹たりともいないということ。
正確にいえば、息をしているものはいたかも知れない――だが、動けるものは一匹たりともいない。
「嘘だろ……」
ベンノは呟く。
その声が震えていることを自覚する。
「……あの人、笑ってたぞ……」
それこそ狂気じみた――
――楽しくて堪らないというように。
ややあって四人のそばへ戻ったとき、リベルはさすがに息を切らせていた。
とはいえ――何と言おう、その、まるで友人と力いっぱいに追いかけっこをして勝ってきた子供のような、無邪気に楽しんできたと言わんばかりの、充実した息の弾み方。
赤錆色の髪が、返り血でいっそう赤く染まっている。
毛先から、粘り気のある赤黒い血の滴が落ちている。
衣服にも返り血がべっとりと染みついて、普段の革鎧がないために、軽いすり傷を作ってしまった。
この血みどろの姿にあっては、抜き身のままの片手剣の刃に血糊が付着していないのがむしろ不自然だが、これは連戦を警戒したリベルがすぐさま血糊を拭い去ったことによる。
小銃を肩に背負って、リベルは靴裏が吸った血の赤い足跡を点々と残しながら、非力な四人に歩み寄る。
「――ごめん、待たせた。俺は資源を見るのはあんまり上手くないけど、この奥に良さそうな光晶があったから、あれを採ろう――」
ここまで言って、リベルは弾んだ息を抑えるようにして言葉を止める。
きょとん、と朱色の瞳を丸くして、棒を呑んだような表情を見せる四人を見渡す。
「どうした? ――なんかあった?」
四人はゆっくりと目を見交わした。
――頼もしさを覚えていいはずの手練れを前にして、しかし四人が平等に覚えていたのは、圧倒的な恐怖。
異質なものを前にしたときの怯懦、背筋が冷える戦慄。
神経質そうに、穏やかに振る舞い、見知らぬ人を相手に顔を伏せていた青年と、笑いながら鉱路生物を駆逐し、返り血に塗れて――そして、それが当然とばかりに、いやむしろ、楽しくて仕方がないというように振る舞っている青年。
これが同一人物であるとは俄かには信じ難いほどの豹変。
その豹変に冷たいものを覚える。
出会ってまだ数時間、互いの生い立ちも知らず、日常の姿も知らず、当然ながら相手の考えなど、掠める程度であっても分かりようがない――抱いているのは印象だけ。
そうした中で彼を見た。
おどおどとした穏やかな印象から豹変し、狂気じみた凶暴さを振り撒く彼、そして心底楽しげに笑って暴力を振るう彼を。
ゆえに、背筋を撫で上げた戦慄は――
――何が引き金となって、その狂暴性が自分たちに向くか分からないぞ、というような。




