02 望郷
「……なんで――、お姉ちゃん……」
ヴィレイアが愕然と声を絞り出す。
エルカは目を見開いた。
思わず、おずおずと触れていたヴィレイアの肩を掴んでしまうほど驚いた。
「姉ちゃんなの?」
そして、その言葉で何かの呪縛が解けたかのようだった。
ヴィレイアは我に返ったように息を吸い込み、エルカの腕を握った。強く。
「ヴィリー?」
「エルカ、行こう」
ヴィレイアが囁いた。
じゃっかん舌が縺れている。
口調も態度も不自然だった――目の前にいる女性から顔を背けて、何かを抑え込んだような声で。
女性がきょとりと目を見開く。
緑青の瞳――顔立ちはヴィレイアとよく似ていたが、しかし表情は全く違った。
ヴィレイアの表情があけすけに動くのに比して、女性の表情は隅々までが整って見えるように動く。
まるで、常にどこからか見られていて、その重圧に慣れているかのように。
「――ヴィレイア? ヴィレイア、待って、話が」
エルカは女性に目を戻したが、初対面の女性が如何に慌てていようが、切なそうに眉を寄せようが、彼の腕を握っているヴィレイアが望むことが最優先だった。
何しろ仲間である。
駅の人混みは途絶えることなく流れている。
ヴィレイアが、強張った動きで〈フィード〉の前から移動しようとした。
女性の方を見ようともしていない――それどころか、頑として視線を逸らせている。
滅多にないほど強張った顔で。
――ヴィレイアがこうまで表情を強張らせているところなど、エルカは一度しか見たことがない。
彼が自由の身になった直後、〈言聞き〉に誓約しろと言われた、あのときにしか。
エルカには、ヴィレイアの態度はまるで、過去の悪事を目の前に突きつけられ、そこから目を逸らそうとしているかのように見えた。
あるいは単純に、思い出したくもない過去の出来事を掘り起こされて辟易しているようにも。
エルカがヴィレイアの腕をしっかりと握って、彼女を引っ張る。
危うく正面衝突しそうになった、大きな木の書類鞄を身体の前で抱えた紳士が非難がましく顔を顰めたが、にこっと愛想笑いして身を躱し、上手くヴィレイアの姉――と、思しき女性――の方へ誘導してやる。
狙い通り、紳士と衝突しそうになった女性が、慌てて身を捩ってそれを躱し、もたついたようだった。
「ヴィレイア! あの――!」
女性が叫んでいる。
同時に顔を赤くしているのは、人混みで大声を上げる習慣がなく恥じらいを覚えたためだろう。
とはいえ、エルカがそれに拘泥する義理はない。
「楽勝、楽勝」
エルカは明るい口調で呟いた。
半分以上は、一気に思い詰めた様子で眉を寄せたヴィレイアの気を逸らすためだった。
「な?」
腕を握り直して笑顔を向けて目配せすると、ようやくヴィレイアも、強張った表情ながらも微笑んだ。
ヘルヴィリーの駅の混雑は閉口ものである。
その中にあっては、明らかに人混みにもたついており、しかも後ろにいる荷物持ちと見える男性を待たなければならない女性を撒くことは然程難しくなく、しかもそれがエルカであれば猶更だった。
ひょいひょいと人を避けて動きながら、ヴィレイアに、「そういえば、エーデル行きはどっちだっけ?」と尋ねる。
ヴィレイアが黙って一方向を示したので、頷いて、そちらの方へ舵を切る。
そうしながら、黙り込んだヴィレイアが気に掛かった。
気が沈んでいるというよりは、明らかに動揺している。
(ヴィリー、もしかして、姉ちゃんは欠けたと思ってたのか?)
エルカは真面目にそう考えた。
それほどの、まさか会うことになるとは思わなかったと言わんばかりの驚愕と、それに伴う動揺が、ヴィレイアの表情を占めている。
(けど、それにしちゃ、意外な喜びっていうか、びっくりしたけど嬉しいって感じではないな――)
むしろこの動揺具合――
(え、まさか、ヴィリーが姉ちゃんをどっかから突き落とすなり刺すなりして、欠けさせたつもりだったのに、生きててびっくりした――とか?)
ちらり、とヴィレイアを窺う。
ヴィレイアはぎゅっと唇を引き結び、視線を下げて何かを堪えている。
考えるまでもなく、エルカは結論していた。
(触れられるの嫌そうだし、そっとしとこ)
とはいえ、少し考えたのは、
(でも、リベルは気にするかな)
そっとしておこうとは思ったものの、やはり最低限の好奇心はあって、それから小一時間後、エーデルに向かう陸艇に並んで腰を下ろしながら、エルカはヴィレイアに尋ねていた。
「――なあ、別に答えなくてもいいんだけどさ。
さっきの、マジで姉ちゃん?」
ヴィレイアは瞬きし、エルカの方を見たが、視線は僅かに逸れていた。
彼女は口許だけでにっこり微笑んだ。
「そう見えなかった?」
「顔は似てた」
そう認めて、エルカは首を傾げる。
「喋らなくて良かったの?」
ヴィレイアは、少しのあいだ何かを考えた。
それから、言葉少なに言った。
「喧嘩してるの。仲直りをするつもりはないの」
「なるほどね」
エルカは頷き、もう一つだけ尋ねた。
「あの人、遠路遥々来たって感じだったな」
「そうだね」
ヴィレイアは認めて、座席に頬杖を突いた。
「ちょっとだけ喋ると、あの人、ずっとずーっと西の方にいるはずなのよ。普段は」
「へえ」
喧嘩が本当だったとして、それは相当根深いらしい、とエルカは内心で思う。
裏を返せばそれは、ヴィレイアが出身地から遥か離れた場所で勇者となったことを意味するからだ。
陸艇が発達し、町を越えて物資や噂話は行き来しても、その陸艇で半日程度の距離を置いてしまえば、もう知り合いに会う可能性は殆どない――地縁と縁故の中で人々が暮らしているような――この世の中で、その距離の置き方は異常ともいえた。
ヴィレイアは独り言のように呟いた。
視線は彼女自身の爪先に向かっていた。
「……なんでこんなところにいたのかしら」
エルカは眉を寄せた。
「ヴィリーを捜しに来たんだったら面倒だな」
「それはない――私がどこにいるか知るはずないもの」
言下にヴィレイアが答えたとき、陸艇が離陸した。
不傷石の爆音と、衝撃。
陸艇が大きく揺れ、そして地面から離れて風に乗る。
地面から離れたことで、少し気が軽くなったようだった。
陸艇の揺れが収まると、ヴィレイアが小声で言った。
「――本当を言うと、一つだけ心当たりがあるのよ。
だけどだとすると、あの人が一人でいたのが意味不明なのよね」
「そうか」
エルカは応じて、ヴィレイアを見つめて苦笑した。
「――リベルには黙っとく?」
ヴィレイアは感謝を籠めて微笑んだ。
「そうしてほしい」
*◇*◇*
啖呵を切ったものの、リベルの内心はおのずから一色に染まっていた。
(――帰りたい……)
まさか自分が家を恋しく思って胃がしくしくと痛むような目に遭うなどと、そんなことは一度も想像したことがなかったが、今のリベルはその状態だった。
家だとして思い描いたのは、自分でも呆れたことに、バンクレット邸の炉端だった。
陸艇の隅で膝を抱えることを選んだリベルに、意外なことに、例の女性的な話し方をする男性と、ベニーと呼ばれていた少年がついて来た。
少年はちらちらとリベルを見て、「前はどこにいたの」、「誰に売られたの。親? 兄弟?」などと無愛想に尋ねてくる。
リベルが人見知りから吃って答えられずにいると、男性が二人の間に割り込んで、右掌の入れ墨を見せながら、如何にも大発表というように言った。
「――実は私、勇者だったのよ」
「……マジすか」
少しばかりの親近感を覚えるリベル。
一方のベニーは、「もう聞いたよ」とつまらなさそうな顔。
リベルは怪訝に眉を寄せた。
「――勇者なら、なんでこんな目に?」
男性は肩を竦めた。
「私はね――、あら失礼、名乗ってなかった? 私、ロルド。この子はベンノね。私はベニーって呼んでるけれど」
「……自分で名乗れるよ」
ベンノが舌打ちして小声で呟く。
リベルはなんとか会釈した。
「……リベルです」
「リベルくんね、いいお名前。
――そう、私ね、別に売られたわけじゃないのよ。捕まったのよ」
「はあ……」
話が見えず、頷くリベル。
ロルドは両手を揉み絞りながら続ける。
「私、元々はちゃんと学のある人間だったのよ。そこそこいいおうちに生まれて、本だって読んでたの。でもね、」
ぐっと身を乗り出してくるロルドに、見知らぬ人間に接近される恐怖から身を縮めるリベル。
ロルドは息を吐いた。
「あるとき恋に落ちちゃって」
「はあ」
「相手が勇者だったから、駆落ち同然にして私も勇者になることを選んだのよ。家の人間は誰も許してくれない恋だったから」
ロルドにじっと見つめられ、何かを言わねばならない使命感を覚えたリベルは、なんとか感想を絞り出した。
「……大胆ですね」
この感想は合格だったらしい。
「でしょう!?」と、ロルドが嬉しそうにする。
「坊や、リベルくん、恋人さんは?」
「いないです」
「あら、ご経験は?」
「ないです」
「好きな人は?」
「いないです」
「あらつまんない。
――まあとにかく、そうしてかれこれ数年、ヘルヴィリーの組合で上手くやってきたのよ。まあ、三等止まりだったんだけどねぇ……。
でも、ばれちゃって捕まっちゃった」
後頭部に手を当て、「しくじった」というように舌を出すロルド。
話が見えず、リベルは瞬き。
「……えーっと、何がばれたんですか?」
「兄ちゃん、マジで?」
ベンノが呆れたような声を出し、ロルドを顎で示した。
「このおっさんの、その例の恋人、男なんだよ」
「…………?」
リベルは困惑して瞬きを繰り返した。
――生憎と、彼は幼少から世間と隔離された環境にいた。
身に着いているのは最低限の社会常識であり、そこに法律知識は入っていない。
「……それが?」
ぽかん、と呟いたリベルに、ロルドが笑い出した。
とはいえ、笑いで誤魔化して目尻を拭った指は震えている。
「――本当にねぇ、そうよねぇ。
でもね、坊や、共和国では男色は罪なのよ」
「――……意味が分からない」
リベルはぽろっと零した。
「なんで? 好きになるのに制限が掛かるの?」
「兄ちゃん、マジで!?」
ベンノが天を仰いで声を大きくする一方、リベルはロルドを窺っている。
「じゃあ、あんたの恋人――旦那さん? 彼はどこにいるんだ? ここにいるの?」
「いないわよ」
ロルドはつんと顎を上げる。
「こっちも馬鹿じゃないもの、私が一方的にあの人に付き纏っていたっていう体にして、あの人には難を逃れてもらったのよ」
「じゃあ、あんたを待ってるんだな」
リベルは言ったが、ロルドは首を振った。
「だめだめ」
「ここから逃げれば、また会えるでしょ? 俺は鉱路の切り抜け方を知ってる。あんたを生かして地上に戻してやれる」
「会えないのよ」
ロルドは根気強くそう言って、リベルと目を合わせた。
「優しいのね、ありがとう。――でもね、駄目なの。
いくら勇者組合が前科者に優しいって言っても、さすがに傘下で捕まった人間には優しくしてくれないわ。私はヘルヴィリーの組合には戻れないし――」
「組合を移れば――」
「お馬鹿さん、そんな懐の余裕は私にもあの人にもないの。だからね、私が助かるとすれば、」
ロルドが鼻を啜って、しかし素早くそれを誤魔化す。
「それは時代が助けに来てくれたときだけね」
「――――」
「こういう……人を売り買いしたり、法律で恋路を阻んじゃったり、衛卒がめったやたらに人を殴ったり、そういうことのない時代が来たら、私は助かるの。それまでは、もうどうしようもないの」
リベルは何か言おうとして、何も言えずに口を噤んだ。
ロルドはもはや自分に言い聞かせるように続けている。
「――前の時代の、王朝時代の悪を打倒して、共和国は創られたのよ。そのはずでしょ?
でもね、悪を打倒するのは正義とは限らないのよ。もう一つの悪だってこともあるの。
だけどいつか正義の時代がくるかも知れない、私たちが生きてる間に。――来てくれると信じて、今は待つことにしたの。待っていれば、万が一の奇跡だって起きるかも知れないわ」
「――――」
リベルは黙っていた。
ふと、以前、バンクレットが言っていたことが思い起こされた――
――『竜が死ななくなったから――欠けるようになったから、今の我々は、生でも死でもない、第三の停滞に向かって歩んでいる。そして、その命の終着点も売り買いされる世界にいる。人の命の終着に課す莫大な税と、――その税を厭う者を喰いものにする強欲の化け物が跋扈する世界になった』
ややあって、リベルは辛うじて囁いた。
「……大丈夫、そういう世の中だって来る」
実際には、竜が死ぬようになったところで、そう簡単に世の中が変わるとは彼には思えなかった。
だが少なくとも、世の中がひっくり返るだろうということは予測できた。
――本当に竜が死ぬようになれば。
「……正義ってなに」
ベンノがぶっきらぼうに尋ね、少し考えてから、ロルドが応じた。
「――そうね、愛と許しと思い遣りかしら」
「そんなもん、どこにもないよ」
ベンノが鼻を啜って呟いた。
声が震えている。
「――いや」
リベルは、本当ならばベンノの頭でも撫でて慰めるべきだろうと思いはしたものの、それは出来ず、ただ小声で断言した。
「ある。絶対にある」
――リベルの手を握って、幾度となく助けてくれたエルカの掌と、リベルとエルカのために真っ向から議員と交渉し、リベル自身に彼の自由を獲得させたヴィレイア――
リベルの知っている正義はそこにある。
今このときですら、その正義がリベルを守り、現状を嘆息させこそすれ、絶望させはしない。
いよいよ鉱路に到着したとき、リベルは今の時刻が夜であることを知った。
陸艇の昇降口が開き、その向こうに夜空が見えたのだ。
星明かりはない――分厚い雲が黒々と空を覆っている。
この陸艇の持ち主は盗賊だとロルドは言っていたが、実際のところはどうなのか、リベルには分からなかった。
正体は分からなかったが――更に言えば興味もなかったが――彼らは、さすがに不用心に憐れな囚われ人たちに武器を渡すことはしなかった。
まず、リベルが目を覚ました陸艇のホールは、陸艇の重要な区画とは行き来できない造りになっていた。
分厚い鋼鉄の扉があり、向こう側から解錠されない限りは開かないのだ。
そしてだからこそ、囚われ人たちを自由にさせていたと言い換えることも出来る。
いよいよ鉱路が近づくと、小銃を構えた一団がホールに乗り込んできた。
そして、次々に囚われ人の手を後ろ手に縛り上げ始める。
縄で手首を縛った上に鋼鉄の枷を嵌める徹底ぶりだ。
抵抗すればおまえか、あるいはそばの誰かを撃つぞ、というわけである。
幾重かの枷、または頑丈な枷は、法術師に対しても魔法使いとしても、拘束としては有効な手段だ。
法術師からすれば、枷を解くに足る精霊と契約を結んでいれば助かるが、そうでなければ手の打ちようがない。
魔法使いは――繰り返しになるが、魔法は手間暇を心袋に仕舞い込み、結果を引き寄せることなのだ。
つまり、通常において破壊するのに手間取る枷であれば、魔法を使って破壊する難度も上がる。
また、同じ結果を引き寄せようとする魔法であっても、状況によって難度が変わることもよく知られている――昼日中の平和な路地で小石を拾いに行くのと、鉱路の危険の只中で小石を拾いに行くのでは、行為としては等しくとも、意味は大きく異なる。
ならば無数の小銃に狙いをつけられている状況で、枷を解こうとする行動の難度も察するべきところだろう。
リベルは再度、真剣に反乱の是非を考えたが、さすがにこの場の全員を無傷で守り切る自信はなく、陸艇の他の区画に閉じ込められているだろう囚われ人たちの安否については言わずもがな。
かつ、後ろから囚われ人の誰かに殴られない自信もなかった。
そうして囚われ人の自由を奪った上で、小銃を構えた一団は陸艇の昇降口を開けたのである。
――リベルは嫌な予感を覚えた。
リスクを呑んででも縛り上げられる前に抵抗しておくべきだったか、と悔やむリベルの内心はお構いなしに、数多の小銃で囚われ人たちに狙いをつけたまま、陸艇の乗組員たちは彼らに下船するよう怒号した。
下船した先は一面の荒野に見えたが、視界の彼方には町の明かりが煌めいている。
それを見て、とうとう何人かが啜り泣き始めた。
――春の足音が感じられる、暖かくなりつつある夜の気温に、しかしまだ冷たい風が吹く。
足許で小さなつむじ風になった空気の流れが、荒野の砂塵を吹き上げる。
空気は乾いた匂いがするが、それでも新鮮な風にリベルは深呼吸した。
リベルの隣にはベンノがいて、彼もとうとう涙を零していた。
頭のてっぺんから爪先まで震えていて、後ろ手に縛られているためにますます足取りは覚束ない。
今にもその場に崩れ落ちそうなところを、小銃の狙いが定められているという恐怖だけでなんとか前に進んでいる。
「――怖い……」
彼が口走った。
「怖い、帰りたい、なんでこんなことに――」
ロルドが彼を慰めようとしているが、上手い言葉は出てこない様子だ。
リベルは周囲を見渡す。
後ろ手に縛られた囚われ人は、全部で二十人程度。
そして行く手には鉱路がある。
鉱路の入口はよくある縦穴型で、欠け人が唯々諾々と動かす昇降機が見える。
前進を促される二十人の後ろから、小銃を構えた三十人ばかり。
威嚇射撃の音が轟く。
彼らが大きな麻袋を引き摺っており、中身は考えるまでもなく武器だが――
「最悪だ」
リベルは口走った。
――もうここまで来れば、リベルにも分かる。
連中はまず間違いなく、一人を除いた全員を最初に昇降機に詰め込む。
そして先に鉱路に下ろし、続いて一人だけを自由にした上で、武器と共に再度昇降機に詰め込むに違いない。
そして、その一人に先発の十九人を自由の身にさせた上で、鉱路探索を開始させる気だ。
二十人が一斉に武器を持って歯向かってくれば、それは多少なりとも脅威になるからだろうが――
(――最後の一人を待ってる間に誰か欠けそうなんだよ!)
形振り構っていられず、リベルは魔法で枷を破壊しに掛かった。
だが、後ろ手に縛られていることもあり、枷の構造が分からずに手間取る。
自分の前にいる誰かの枷をじっと見つめて、同じ構造であろうと想定して魔法を進める――
そうしている間に、鉱路へ続く昇降機は目の前に迫っていた。
乱暴にその中に押し込まれた十九人が、体勢を崩して雪崩れ込む。
立錐の余地なき混雑。
それにも拘泥せず――否、するだけの感情も知性もなく、欠け人は淡々と、何の情動もない動きで槓桿をがこんと動かした。
取り残された一人の、茫然とした、状況が把握できていないような表情が、蛇腹の格子式扉の向こうに消えていく。
昇降機が動き始める。
がたり、と大きく揺れて、鎖が軋む音と共に下へ。
いよいよ恐慌を来して泣き叫ぶ少年もいる。
リベルの身体は巨漢と小柄な少年の間に挟まれていて身動きも儘ならない。
巨漢は細かく震えて、小声で唱えているのは祈りの言葉かあるいは親しい人の名前の羅列か。
少年は嗚咽し、嘔吐寸前の息の詰まりようで泣いていて、誰かが失禁したのか、昇降機の中に悪臭が漂う。
だが、無理もない――
(俺も初めて鉱路に放り出されたときは似たようなものだった)
泣き叫び、周囲の把握も足許も覚束なかったリベルを守り切った、エルカの苦労が偲ばれる。
そんなことを頭の片隅で考えながらも、全神経を集中して手枷を解こうとするリベル。
降下を続けた昇降機が、がくんと大きく揺れて止まる。
蛇腹の格子扉が開いていく――その向こうに広がるのは、リベルにとっては見慣れた鉱路の光景。
野生の明りクラゲが漂っており、視界はぼんやりと明るい。
視界が確保できることは有難いが――
(まずい、明りクラゲを餌にしてる連中が近くにいるかも知れない……!)
ロルドも鉱路を見慣れてはいるだろうが、それでも丸腰での鉱路は初めてであるはずだ。
揺れた拍子に数人が体勢を崩し、そしてドミノ倒しのように全員にそれが伝播していく。
リベルも隣に押されて倒れそうになりながらも踏み留まり、なおも枷を外そうともがきながら、怒鳴った。
「――最後の一人が武器と一緒に下ろされてくるはずだ! 早くここから出ないとそれも来ないぞ!」
何しろ先頭が降りなければリベルも動けない。
だが、リベルの怒鳴り声も啜り泣きや絶望の呻きに呑まれて通らない。
「くそっ!」
悪態を吐き、リベルは顰蹙は承知の上で、目の前にいる誰かの背中を、殆ど体当たりするようにして突き飛ばした。
ここは鉱路だ、普段の遠慮がちな思考回路は吹き飛んでいる。
リベルの動きが契機となって、よろめきながら坑道に転び出る十九人。
坑道に出るや否や、誰かが嗚咽の余りに嘔吐した。
吐瀉物が地面を叩く湿った音など無視して、リベルはなおも枷と格闘しながら、後ろを向いて怒鳴る。
「上に戻れ!」
欠け人がそれを聞き分けて、がこん、と槓桿を操作する。
啜り泣き、号泣、恐怖の叫び、今地上に戻れば間違いなく蜂の巣にされる運命が待っているというのに、地上に戻ろうとして昇降機があるべき場所にふらふらと戻ろうとする者、どうして昇降機を戻らせたのだとリベルを責める声――それらが幾重にも坑道に木霊し、リベルの耳ががんがんと鳴る。
「坊や、勇者なの?」
ロルドが震える声で尋ねる。
リベルは頷き、その場で軽く飛び跳ねた。
外れかけていた鋼鉄の枷が、がしゃん、と音を立てて足許に転がる。
続いて縄。
手首を力任せに引っ張ると、皮膚が切れる痛みが走る。
「――静かにして!」
リベルは危険を冒して怒鳴った。
「近くにいる鉱路生物が寄って来るから!」
まさにそのとき、頭上で何かが羽搏く音がした。
リベルは総毛だつ心地を覚える。
単独探索をこなしていたときですら、拘束された状態で鉱路に放り出されたことはなかった。
がたがたと軋みながら、ようやく昇降機が戻ってきた。
その中に、頭のてっぺんから爪先まで震え、恐らくは失禁しているだろう最後の一人が座り込んでいる。
彼は巨大な麻袋のそばにへたり込んでいる格好になっており、その麻袋の中にこそ――
「――なんでもいいから早くこれを解いて!!」
リベルは絶叫した。
ロルドが昇降機の中に戻る。
一瞬、彼がそのまま地上に戻ろうとするのではないかとリベルは勘繰った――間違いなく、地上には小銃を構えた集団がまだ留まっている。
駄目だ、と彼を思い留まらせる言葉を吐こうとする寸前、後ろ手に縛られたままのロルドが、へたり込んだ最後の一人のそばに屈み込み、口早ながらも優しく、彼を励まし始めた。
「立って、お願いよ、このままじゃ大変なことになっちゃうわ。大丈夫、お願い、立って、動いて……」
最後の一人だけは拘束されていない。
これは当然だ、彼には他の十九人を動けるようにする役目がある。
ロルドに励まされ、自分自身の生存本能にも後押しされて、最後の一人が震える手で麻袋の口を開けた。
もたつきながらもその中から刃物を探している。
また、頭上で羽搏く音。
口々に悲鳴を漏らす囚われ人たち。
リベルは顔を上げて、明りクラゲの乏しい光の中で頭上を仰ぐ。
(十中八九、こんなに浅いところにいるなら化けコウモリだ――)
位置が悪い――化けコウモリがいるだろう岩壁を崩す魔法を使ってしまえば、崩れた岩場でリベルたちまでも潰れる。
ロルドが、最後の一人にリベルを懸命に示して、拘束を解くよう説得している。
だが、その周囲も阿鼻叫喚、口々に自分の拘束こそを解いてくれと懇願する者たちで溢れている。
ロルドがそんな周囲に向かって声を荒らげている。
最後の一人は――状況も分かっていないだろう、頬を涙で濡らしながらも、よろめき、転びそうになりながら、それでも必死にリベル目指して他の囚われ人たちを掻き分けている。
リベルは頭上を仰いで、化けコウモリの姿を捜す。
ようやく、最後の一人が刃物を手にしてリベルのそばに辿り着いた。
リベルは出来る限りで手首を持ち上げ、拘束を切りやすいようにする。
刃物が手首に当たって皮膚が切れる鋭利な痛みがあったが、声を上げて相手を動揺させてはならないと、リベルは呻き声ひとつ漏らさなかった。
魔法を使って止血だけを施す。
そうしながら、リベルはロルドに向かって怒鳴った。
「なんでもいいから銃をこっちに蹴って!」
ロルドが足を使って麻袋をひっくり返し、散らばる剣や短銃、小銃の中から、小銃を選んでリベルの方へ蹴った。
とはいえ体勢が体勢だ、方向がずれて転がった小銃を、別の誰かが更にリベルの方へ蹴ってくれる。
足許に滑ってきた小銃を、リベルが足裏で確保。
リベルがようやく化けコウモリの影を見つけた、同時に手首が自由になった。
血流が巡り始めて痺れる手を無理やり動かし、リベルは足許の小銃を拾い上げる。
落ち着いて、装填されているか否かを確認。
――さすがに連中にも、一滴程度の血と涙はあったのか、装填は完璧だった。
地面に膝を突き、銃床を肩に押し当てる。
深呼吸――
まさにそのとき、化けコウモリがこちらを――竜の眷属というご馳走を――目掛けて、落下に等しい勢いで降下してきた。
悲鳴。怒声。
逃げ出そうとして転ぶ者、転んだ誰かの下敷きになって更に悲鳴を上げる者、阿鼻叫喚。
――それら一切を意識の外に置いて、リベルは小銃の引き金を引いた。
撃発――不傷石の煌めきが、リベルの朱色の瞳に映り込む刹那――そして、命中。
翼に立て続けに銃弾を撃ち込まれ、化けコウモリが体勢を崩し、リベルたちから離れた位置に落下する。
坑道を揺らすような化けコウモリの怒りの悲鳴。
(エルカなら一発で眉間に当ててたな)
リベルは即座にそちらに駆け寄り、牙を剥き出す化けコウモリ程度には一切怯まず、至近距離からその眉間にもう一発ぶち込んだ。
――間欠泉のように噴き出す血液。
化けコウモリが大きく痙攣する。
絶命した化けコウモリの声が途切れ、彼がぐったりと坑道に伸びる。
ふう、と息を吐き、返り血を浴びたリベルは囚われ人たちを振り返った。
当座の危機が去ったことに、彼らはむしろ茫然としている。
その瞬間だけは、坑道は水を打ったように静まり返った。
リベルは淡々と口を開く。
「ありがとう、ロルド。
――みんな落ち着いてくれ。順番に拘束を解いていくから」




