18 天命契約
(そういうことか)
リベルが覚えたのは納得だった。
思えば、ヴィレイアに治癒精の独占を――一時的なことであれ――認めるのは、誰にとってもリスクが大き過ぎることだ。
だからこそ、予防策を講じていたとして全く不思議はない。
むしろ、黄金竜を見てすぐに、その理由に思い当たらなかっただけ、リベルたちは頭が回っていなかったようだ。
(けど、まあ……)
リベルは、ヴィレイアが問題なく頷くだろうと確信していた。
彼女がここで治癒精を独占することよりも、治癒精を解放することで得られる利益の方が遥かに大きいはずだからだ。
が、ヴィレイアは動かなかった。
この邸宅に足を踏み入れてから初めて、予想外のことを告げられたと言わんばかりに、出し抜けに頭を殴られたように、茫然と目を見開いている。
「――ヴィリー?」
リベルが、後ろからそっと呼びかけた。
手を伸ばして、躊躇いがちに彼女の肩に触れる。
「ヴィリー? 大丈夫か?」
それではっとした様子で、ヴィレイアが大きく息を吸い込んだ。
そして、内心でリベルが少なからぬショックを受けたことに、身を捩ってリベルから距離を置いた。
視線はヴァフェルムに向いたまま、ヴィレイアが呟く。
「〈言聞き〉……」
「そうだ」
ヴァフェルムも、ヴィレイアの反応に怪訝なものを覚えているらしい、眉を顰める。
「ヴィレイア、きみが真実、治癒精を窃取する心算でないのなら、何の害もないはずだ――」
懐疑を籠めて、ヴァフェルムの瞳がリベルとエルカに動く。
「――先ほどの、〈言聞き〉と魔法使いに関する事柄は、嘘か? その露見を恐れているのか?」
「――っ、いいえ!」
ヴィレイアが、我に返った様子で強く言った。
彼女が両手で胸元の時精時計を握り締め、しばらく押し黙る。
そして、言葉を押し出すように言った。
「――天命契約は、扱いが難しいはずですが」
「よく知っているね」
ヴァフェルムは眉を上げた。
「確かにそうだ。物事斯く在れかしと実現を約束するのが天命契約だが――世界征服を〈言聞き〉に誓ったからといってそれが叶うわけではないからね。
誓約がどう結実するのか、測りかねるのが天命契約だ。
――だが、一つの行為を誓うなら、確実にその行為の結実を約すものでもある。きみが治癒精と契約し、それを解放することを誓約してくれたなら、禁則契約よりも確実だ――この誓約には振れ幅がない」
「…………」
ヴィレイアはぴくりとも動かない。濃緑の瞳を見開いて、茫然とヴァフェルムを見つめている。
「ヴィリー――」
リベルは衝動的に口を開いた。
「ヴィリー、おまえが嫌なら俺だって戦うよ」
ヴィレイアがはっとした様子でリベルを振り返り、小さく首を振った。
そして、応接室にいる全ての人間の訝しげな視線に耐えかねたように、遂に言った。
「――〈言聞き〉は隣にいるって言いましたよね?」
ヴァフェルムが頷く。
ヴィレイアがヴァフェルムとバンクレットを見比べるようにする。
「私が一人で入って、一人で誓約するんですか?」
「まさか――すまないが、〈言聞き〉は証人としての能力はないからね。ジョーゼルを同行させる算段だったが?」
何か不都合でも? と言わんばかりに語尾を上げるヴァフェルムに、ヴィレイアは両手で顔を擦った。
「――いいえ。いいえ……分かりました。――ジョーゼル小父さまとですね」
譫言のようにそう呟いて、ヴィレイアがバンクレットを見た。
バンクレットが顎を引くように小さく頷き、ソファの後ろから進み出て、ヴィレイアの肩を掴む。
リベルは思わず、つんのめるように一歩前に出た。
体格のいいバンクレットに促されるヴィレイアが、連行されるように見えたからかも知れない――あるいは、ヴィレイアの背中に、不安そうな感情を見つけたためかも知れない。
「俺もいいですか」
「駄目だ」
バンクレットが厳しい語調でそう告げて、ヴィレイアがくるりとリベルを振り返った。
一瞬の、あの頭を殴られたような自失の表情は消えている。
彼女が、両手で時精時計を握ったまま、その両手の人差し指を合わせて立てて、悪戯っぽくリベルを指差した。
「あなた、鉱路では切れ者なのに、肝心なとこで抜けてるよね。
――魔法使いは〈言聞き〉の天敵だって話をしたばっかりじゃない。リベル、私は大丈夫だよ」
にこっ、と、小さくヴィレイアが笑う。
その彼女の肩を押して、バンクレットが続き部屋へ通じる扉を開けた。
続き部屋の内装は殺風景だった。
調度品は壁側に寄せられ、部屋の中央には繻子布が拡げられており、その上には、法術師が精霊との契約に使う香草の束と、香炉が丁寧に置かれていた。
窓は一つ――小さな窓があるのみで、応接室と違ってシャンデリアもない。
〈言聞き〉に明かりは必要ないため、部屋の灯器は点されていなかった。
だが、窓から光が射し込んできていた――この窓は議事堂に面しているのだ。
議事堂の、夥しい数の窓から零れる灯りが、すっかり暮れた夜陰と雨の銀幕を通して、この部屋に射し込んできているのだ。
だがそれでも、続き部屋の隅々までが明るいわけではなかった。
部屋は全体が藍色の薄闇に沈んでおり、そして奥はいっそう黒々と暗い。
その暗がりの中に、〈言聞き〉が立っていた。
背後で扉が閉まる音を聞きながら、ヴィレイアは思わず顔を伏せた。
――〈言聞き〉が怖かったのではない。
〈言聞き〉に誓約することが怖かったのではない。
〈言聞き〉に誓約できないことを知られることが怖かったのだ。
――〈言聞き〉は、一目見た限りでは、丈の長い外套を着て、そのフードを被り込んだ長身の男にも見える。
今、この部屋の隅に佇んでいる〈言聞き〉は、その例に漏れず、他の〈言聞き〉と全く見分けがつかない格好をしていた。
六フィートを超える長身。
その長身を覆う、焦げ茶色の繻子の光沢を持つ外套の裾を、足許に引きずっている。
外套は釦がきっちりと留められており、外套以外の装束は窺い知れないが、時たま外套の裾から覗く足は、一風変わった形の黒い靴に覆われているように見えた。
外套のフードは深く下ろされていて、顔貌は見えない。
たっぷりとした外套の袖から、手の指先が覗いている――よくよく見れば、その手が人間のものではないことは分かった。
指が異様に長く、関節が人間の指より一つ多く、そして爪がない――指先は尖っていて、肌の色は淡い灰色をしているのだ。
そして〈言聞き〉は、その左手に、彼らを彼らたらしめていると言って過言ではない、全ての誓約が記されているという象牙色の、小さく分厚い本を抱えていた。
バンクレットが、扉に凭れ掛かっている。
ヴィレイアが、万が一にも〈言聞き〉への誓約を拒否して逃げ出そうとすれば、それを捕らえることが出来る立ち位置を選んだのだ。
彼の金褐色の瞳が〈言聞き〉を見た。
バンクレットが、〈言聞き〉が関心を寄せる、唯一の人間の言葉を発していた。
「――誓約を。この子と、天命契約を」
うっそり、と、〈言聞き〉が動く。
足音を立てない、奇妙なまでに静かで存在感のない、するするとした動きで、〈言聞き〉が暗がりの中から歩み出した。
ヴィレイアは顔を伏せ、目を閉じていた。
だが、はっきりと分かった。
今、〈言聞き〉は右手を持ち上げただろう。
そしてその手でフードを下ろしただろう――ああ、バンクレットが息を呑んだ、やはりフードが下ろされているのだ。
そして〈言聞き〉はヴィレイアを見ているに違いない。
ヴィレイアを吟味しながら、左手の上の象牙色のあの本を、右手でゆっくりと捲っていっているに違いない――
――沈黙。
バンクレットが、喉の奥から、思わず漏れたといった風情の声を出した。
「は?」と。
そして、彼がヴィレイアの肩に触れる。
強く――ぎゅっと力を籠めて――混乱して。
「――ヴィレイア? どういうことだ?」
ヴィレイアは顔を上げた。
何よりもまず、彼女は〈言聞き〉を見た。
〈言聞き〉はまさに、元の通りにフードを被ったところだった。
顔を隠したそれが、その奇妙な指でヴィレイアを指差し、ゆっくりと首を振っているのが、乏しい明かりにも見える――
ヴィレイアは、自分の喉が痙攣するのを感じた。
眩暈がして、足許が泳ぎそうになる。
バンクレットを振り仰ぐ。
彼の、愕然とした、茫然とした眼差しを見る。
「ヴィレイア?」
バンクレットが囁く。
「どうして〈言聞き〉がきみとの誓約を拒む?」
ヴィレイアは痙攣する喉を叱咤して、辛うじて声を出した。
だが、その声は震えた。
「――禁則契約なら、応じてくれると思いますよ」
バンクレットが目を見開く。
「天命契約を結べないというのなら――それはつまり、ヴィレイア、きみが――」
息を吸い込んで。
「――人が結べる天命契約は一度に一つだと聞いたことがある。
〈言聞き〉の目は因果を見る。二つの契約が矛盾することを避けるために、彼らは二つめの天命契約を拒むと――」
「――――」
ヴィレイアの濃緑の瞳を覗き込み、バンクレットは心からの驚倒と、信じ難いものを見るような憐れみを籠めて。
「――これはつまり、きみが、もう既に、天命契約を結んでいるということになる」
ヴィレイアは目を逸らせた。
「きみは一体――なにを誓約しているんだ?」
雨が窓の玻璃を叩いている。
本降りになった雨粒が、たつたつと根気強く。
銀色の柵が夜空から地上を、無数の欠片に断絶していくように。
こうなった以上は、もう隠し立ては出来なかった。
雨声に紛れるほどの小声で、ヴィレイアが告白する――それを受けて、バンクレットの顔貌から血の気が失せていく。
「――なんということだ、ヴィレイア」
ヴィレイアは息も殺して囁く。
「竜が死ななくなったとき、倫理の上に黄金を敷くことを人間が決めたときから、こうなることは分かってたはずじゃないですか」
「――ああ……」
呻いて、バンクレットが扉の向こうを示して頭を傾ける。
「彼は知っているのか。リベルは?」
「誰も知りません。メメットたち――私が、元いた勇者隊の人たちも」
言下にそう応じて、ヴィレイアは懇願していた。
「誰にも言わないでください。この天命が決まってから、誰にも言わないことにしてきたんです」
「だが、きみが先刻言ったことだ。――魔法使いなら対抗できると」
「この場合は、駄目です」
ヴィレイアは呟いた。
「駄目なんです。この誓約で受けた益があります。私にも他の人にも。撤回できません」
「だが――」
言い淀むバンクレットは、しかし続ける言葉を持たなかったらしい。
息を吸い込み、片手で顔を拭って、辛うじて囁いたのは、ヴィレイアの言ったことへの返答ではなかった。
「――なぜ、きみは治癒精を取り戻そうとしてくれているんだ。本当に報酬に惹かれただけか?
治癒精がどうなろうが、きみの知ったことではなかっただろうに」
「――――」
黙り込んだヴィレイアの顔を、バンクレットが覗き込む。
ヴィレイアは大きく息を吸い込んだ。
目を上げたとき、彼女の濃緑の瞳は涙の膜で光っていた。
「――リベルがどんな人か分かりますか。
私の、ただ使い潰されることが決まっている人生で、少しだけ認められた自由時間にふらふら遊んでいる間に招いてしまった大災害の、取り返しのつかないことになる局面で、助けてくれた――これまで誰も私を助けてくれなかったのに、何の躊躇いもなく助けてくれた、あの恩の大きさが分かりますか」
声が震えた。
ヴィレイアは鼻を啜って、いっそう小さな声で。
「言葉に尽くせないほどのことをしてくれたのに、それを鼻に掛けず、あまつさえまだ一緒に組もうと言ってくれた、あの人に憧れる気持ちが分かりますか。
――絶対に深く関わり合ってはいけないんです、一刻も早く離れないと取り返しのつかないことになるんです。それは分かっています。
――そんな人が、過去にまだ怯えていて、助けられなかった相棒のことを、今でも気に病んでいるとしたら、」
息を吸い込む。
胸が痙攣したように声が震え、目の奥が熱くなっていた。
「――だったら、あの人の幸運の勇者になりたいって、一度でも誰かの人生の幸運になってみたいって、――そう思うことに、何か不自然がありますか」
「――――」
ヴィレイアはバンクレットから視線を外して、染み入るほどの静けさを宿して佇む〈言聞き〉を振り返った。
「――お願いです、ヴァフェルムさんには、私が〈言聞き〉に誓約したと言ってください。
どちらにせよ、私が治癒精を盗むことに何の利点もないのは、……もう分かっていただけたでしょう」
バンクレットはしばらく、言いようのない憐れみと嫌悪を籠めてヴィレイアを見つめていた。
そして重い溜息を零すと、頷いた。
「……――分かった。私がヴァフェルムさまに働く、一生に一度の不義理になるだろうが」




