17 真夜中の太陽
「〈言聞き〉の黄金竜……」
リベルは思わず、喉に絡んだ声でそう言っていた。
アインヴェルの勇者組合の職員が彼を振り返り、目を丸くする。
「やっぱり? いやあ、初めて見たよ。おまえさん、あれを見たことがあるの?」
見たことがあるも何も、誓約したことがある。
――まさかそう応じるわけにもいかず、リベルは無言になって、エルカの腕を強く掴んでいた。
エルカも警戒を表情に昇らせている。
〈言聞き〉は、決して特定の誰かの敵にはならない――彼らは神秘のもので、利害や損得とは遠い場所にいる。
だが、リベルからすれば――そして、エルカからしても――彼らの姿は即ち、自由を完全に失った誓約を思い起こさせるものだった。
誰かの敵ではない〈言聞き〉は、誰の味方でもない。
正規の手順で依願すれば、その内容が何であれ誓約を受け容れるのだ。
意外なことに、ヴィレイアもすぐさま黄金竜をそれと見分けたようだった。
そして、まさに外敵を威嚇するヤマアラシのように、事態への不信感を周囲に発散している。
可憐な眉がぎゅっと寄せられて、彼女の額に皺が刻まれていた。
そのとき、馬車が呼び止められた。
黄金竜に気を取られていた彼らが気づいていなかっただけで、ヴァフェルムの邸宅付近には、軍人たちが歩哨のように立っていたのだった。
その中の一人が、馬車に停まるように要求している。
リベルたちは馬車の中で顔を見合わせた。
リエラに至っては、ぎゅっと目を瞑って己が失神することを期待しているようでさえある。
やがて意を決して、リベルが馬車の扉を押し開けた。
*◇*◇*
この数時間がバンクレットの人生にとって親切でなかったことは、彼の顔を見ればはっきりと分かった。
彼は邸宅の柱廊玄関でうろうろと歩き回っており、噴水のある庭園を見渡せるその位置も、全く以て慰めになっていなかったことが分かる憔悴ぶりを見せていた。
軍人に連れられたリベルたちが姿を見せると、冗談抜きにその顔が輝き、安堵の余りその場に膝を突くかと思われた。
「よくぞ無事で……!」
アインヴェルの組合職員が、ここぞとばかりに乗員が増えたことをアピールし、割増の報酬を要求している。
そのときになってようやく、バンクレットはエルカとリエラに気づいた様子で、目を見開いて二人を眺めた。
そして、喰い下がる組合職員を追い払うためだけに、またしても高額の小切手を彼に与えた。
バンクレットが半ば上の空で小切手を切っている間も、リベルは柱廊玄関のそばで休む黄金竜を、雨に目を細めながらも怖々と見上げていた。
邸宅の壁に寄り添うように翼を休める巨大な竜――亜竜ではない、この黄金竜は、今や人が目にすることが出来る真正の竜の最後の一種なのだ――は、陽光の粋を集めたような柔らかな色合いの純金の鱗を持っており、姿かたちはほっそりとして、亜竜の持つ爬虫類じみた特徴よりも、むしろ鳥に似た雰囲気を持っている。
その、長く優美な首の先の頭部で、今しもぱちりと両眼が開いたところだった。
――鉱路生物とは違い、その双眸は深い琥珀の色をしている。
黄金竜は、まるで興味深い何かを見つけたかのように、ふと首を動かし、柱廊玄関の手前に立ち尽くすリベルたちにぐっと顔貌を近付けた。
これほどの巨躯の生き物が動いたとは信じられないほど、その動作は静かで気配がなく、それでいて歴然たる存在感を放っている。
黄金竜が頭を傾け、大きな宝石のような右眼でまじまじとリベルを、エルカを、リエラを観察する。
リベルとエルカは、引き攣った表情で一歩下がった。
リエラは大きく目を見開いて息を呑み、恐らく初めて目の当たりにするのだろう、神秘の竜を凝然と仰ぎ見ている。
黄金竜はヴィレイアを見つけると、いっそう注意深く彼女を眺め渡した。
ヴィレイアが挑むように黄金竜を睨み返すので、リベルは思わず彼女の手を引き、自分の後ろに引っ張り込む。
そうすると、黄金竜はリベルに目を戻した。
感情の窺えない巨大な瞳が、歪んだ鏡のようにリベルの顔をまじまじと映す。いっそ興味深げに。
しばらくそうした後で、黄金竜は、吐息というには余りにも荘厳な空気の漣を吐き出して、ゆっくりと首を擡げた。
そしてまた元のように目を閉じて、うとうとと微睡み始める。
「――なんで、〈言聞き〉がここに?」
アインヴェルの組合職員が、小切手を掲げて万歳する勢いで踵を返し、雨も気にせず庭園を抜けて鋳鉄の門を出るや、ヴィレイアが低い声で尋ねた。
彼女の白百合の色の髪に、雨の水滴が煌めている。
バンクレットはそれに応じたが、視線はエルカとリエラに据えられたままだった。
「それについては、中で話そう。ヴァフェルムさまも気を揉んでらっしゃる。
――私も、訊きたいことは山ほどあるんだ」
ヴァフェルムにとっても、この数時間は受難だったようだ。
――彼の立場からすれば、謂われなくショーズ商会の拠点を彼の指揮下の軍部が襲撃したことに対する釈明を求められつつ、果たして治癒精を盗んだ法術師の捕縛が叶うものか、最悪の事態も想定しながら過ごすことを強いられた数時間だったのだ。
ヴィレイアが最後に見たときと同じ格好をしたヴァフェルムは、あのときに比べても草臥れた顔で、顔を出したヴィレイアを見るや否や、運命に対する感謝を述べる言葉を、感極まったように零した。
そのまま頽れるように執務机の椅子に座り込むヴァフェルムに、側近たちが駆け寄って気遣う。
その側近たちもまた、事態が急展開を見せたことに、膝の力が抜けたようではあった。
気遣う側近たちに掌を見せて謝絶し、ヴァフェルムが顔を上げた。
百戦錬磨の議員といえど、その顔色は蒼白に近くなっている。
「――治癒精は……?」
リエラが細く息を呑む。
リベルが返答を決めかねているうちに、ヴィレイアがぎゅっとリエラの手を握ってから、素早く応じた。
「ここにいます。――ヴァフェルムさん、少しお話ししたいことがあるんですけれど」
「――――」
ヴァフェルムの表情から、安堵が緩やかに抜けていった。
そして残ったのは、澄み切った湖面にも似た清冽な聡明さ。
そして、抜け目ない交渉相手を前にしたときに相応しい、どことなく皮肉かつ慇懃無礼な微笑だった。
「――こちらも話したいことはある、ヴィレイア」
ゆっくりと立ち上がり、ヴァフェルムは執務机に手を突いた。
周囲の側近たちが色めきたつのを手振りと視線のみで押さえ、そしてヴィレイアに視線を戻す。
ユーモアと厳格さを両立させた権力者の語調で、ヴァフェルムは告げた。
「まずは、お互い公平に、交渉のテーブルに手札と要求を置こうじゃないか」
側近たちに目を向けてから、ヴァフェルムは苦笑した。
「――さて、ここでは言いたいことも言えまいな。
ついて来たまえ、静かな場所に向かおう」
ヴァフェルムが向かったのは、どうやら応接室と思しき部屋の一つだった。
広々とした部屋の床には紺青の絨毯、黒檀のローテーブルを挟んで向かい合う、緑色に染め抜かれた革張りのソファ。
ローテーブルの上に低く吊り下げられた金のシャンデリア、部屋の左手には大理石のマントルピース、そのマントルピースの上には立派な鏡。
大きな窓の帳は開け放たれており、夕闇が迫る外の様子がよく見える。
雨は本降りになりつつあるようで、窓硝子には点々と雨粒が光っていた。
マントルピースのそばには、続き部屋に通じるのだろう扉がある。
その部屋に連れられたのは、ヴァフェルム本人の他にはバンクレット、そしてリベルとヴィレイア、警戒心を隠しもしないエルカと、蹌踉とした足取りのリエラだけだった。
リベルも気が気ではなかった。
――エルカとリエラについて、二人の無事を確保するための妙案が彼にはない。
それどころか、リエラの治癒精窃取につき、ショーズ商会の関与を立証できなければ、
(商会が――)
ショーズ商会が、自分たちが受けた謂れなき暴力と、リベルとエルカ――つまるところが、彼らの所有物――の引き渡しを、等価交換として求める可能性すらある。
そしてそうなれば、
(追い詰められてるっぽいし、この人、応じるんじゃないか……?)
そうなれば、リベルとエルカの人生は再び終わりを迎える。
そう考えただけで、リベルは喉が詰まるような心地を覚えた。
応接室に入っても、当然の如く腰掛けたのはヴァフェルムだけだった。
奥のソファに腰掛けたヴァフェルムの後ろにバンクレットが身体の後ろで手を組んで立ち、そして入口側に、警戒心と不信感を前面に押し出したリベルたちが並ぶ。
エルカに至っては、逃走経路を脳裏で思い描いていることがありありと分かる無表情になっていた。
「――さて、ヴィレイア。時間がない。
本来ならば冗談の一つや二つできみを笑わせてから本題に入りたいところだが。
早速お互いの要求をテーブルに載せようか」
ヴァフェルムが身を乗り出し、己の膝に肘を預けて、にこりともせずそう言った。
「治癒精の奪還は火急だ。いいかね、今このときも、法術師が治癒精の力を使うことさえ出来れば助けられる人々が、世界中に山ほどいる。彼らを思えば、一分一秒でも惜しい。
――ヴィレイア、依頼していた通りだ。隣室に、」
と言って、ヴァフェルムは続き部屋に通じる扉の方へ頭を傾ける。
「精霊との契約のための儀式の用意も整えさせている。――治癒精を取り戻してほしい。私の依頼はそれだけだ。
だが、どうやらきみの顔を見るに、きみには言いたいことがあるらしいね」
「ええ、幾つか」
そう言って、ヴィレイアはヴァフェルムを殆ど睨むように見据えた。
「――どうして〈言聞き〉の黄金竜がここにいるんですか?」
「その話は後にしよう。きみの要求を聞きたい」
ヴィレイアは可憐な眉を顰めた。
だがすぐに息を吐いて、一歩前に出る。
リベルは心臓が縮む思いをした。
「――治癒精の件については、ご心配なく。
ただ、」
ヴィレイアが逡巡もなくエルカとリエラを示したので、当人たちが驚いた顔をした。
「この二人の無事を保障していただきたいんです。――もちろんリベルも」
「――――」
リベルは、胸の辺りがぎゅっと詰まるような心地を覚えた。
――ヴィレイアにとっては、エルカも、もちろんリエラも、今日が初対面のはずだ。
その二人のために、彼女が共和国の権力者を向こうに回して争おうとしている。
自惚れでも何でもなく、間違いなくリベルのために。
だが、問題は、
(それに見合うものがこっちにはない……)
たとえ、エルカたちの身柄を保証するから治癒精を奪い返せ、と言われ、ヴィレイアがそうしたとして、その後にヴァフェルムが約束を違えたとしても、圧倒的なまでの権力の差、ヴィレイアには歯噛み以外に出来ることはないのだ。
それこそ、〈言聞き〉に誓約を立てさせれば別だが――
「――なんと」
ヴァフェルムは穏やかに微笑んだ。
「私としたことが、礼儀知らずだったな。
――そちらの二人はどなただろう」
リエラが何か言おうとしたのを、エルカが足を踏んで黙らせた。
ヴィレイアが、ちらりとリベルを見てから答える。
「リエラ――女の子は、今まさに治癒精と契約している法術師です。
エルカ――男の子の方は、ラディス傭兵団の一員でした。リエラの護衛としてつけられていた人です」
バンクレットがヴァフェルムの後ろで目を見開く。
リエラの素性についてではなく、エルカの紹介に驚いているのだ。
ヴァフェルムは莞爾と微笑んだ。
「それだけを聞くと、その二人は欠落刑だね。――なぜ庇う」
リエラが恐怖に息を詰めたのが分かった。
エルカは爪先に体重を掛けている。いつでも走り出せるようにしているのだ。
だが、ヴィレイアには、ここから無法者としてエルカを放り出す気は毛頭なかった。
彼はここから、誰かの所有物ではなく独立し尊重されるべき人間として出て行くのだ。
ヴィレイアは軽く息を吸い込んで、考えを整理した――だがどうしても、この邸宅のどこかに〈言聞き〉がいるということを、意識せざるを得なかった。
小さく頭を振り、ヴィレイアは苦労して微笑む。
「親切には親切で報いるべきだっていう、子供でも分かることが分かりません?」
ヴァフェルムが礼儀正しく首を傾げる。
「というと?」
ヴィレイアは少し考えたが、今さらリベルに席を外させるのは不可能だという結論に至った。
彼女は肩を竦めて、出来る限り軽い口調で告げた。
「リベルは私に、言葉に尽くせないほどのことをしてくれました」
ヴァフェルムは表情を動かさなかったが、彼がヴィレイアについて調べていたことは分かった。
迷う様子もなく言ったのだ。
「先だっての〈鉱路洪水〉でのことかな?」
エルカが、ちらりとリベルを見る。
目を丸くしている。「おまえ、〈鉱路洪水〉に巻き込まれてたの?」という声、「運がないな」という感想が聞こえてきそうだ。
――だが、リベルはエルカに目を向けられなかった。
リベルに、何らの対価も求めずに親切を施した人間は、彼の十九年間の人生で二人だけだった。
――見返りも求めずに彼を守ってくれたエルカと、外套の下に彼を庇ってくれたあの乞食の男性と。
それと同じ親切を、今まさにヴィレイアが彼に施していた。
そのために戦おうとしていた。
ただ一度、行きがかり上助けたというだけで。
助けられなかったエルカの代わりに、彼女に手を貸したことがあるというだけで。
そのために――彼女自身には何の縁もない人間を助けるために、共和国の権力者を向こうに回しているのだ。
その善意。
リベルにとっては、真夜中に太陽が昇るに等しい、得難いまでのその厚意。
過去の艱難が彼から奪っていた自尊心を取り戻し、リベルの価値を証明し、今後の人生の絶望から彼を守るに足る、輝かしいまでの恵与の心。
息を吸い込み、リベルは意識するよりも早く足を踏み出し、ヴィレイアに並んでいた。
「エルカは俺に」
ヴァフェルムの視線がゆっくりとリベルに動いて、瞬きする。
言外の問いを察して、リベルは押し殺した声で告げた。
「――俺も一時はラディスにいたので」
ヴァフェルムの指が、苛立たしげに膝を叩いた。
バンクレットが主の動向を注視しながら、困惑したように眉を寄せている。
リベルは喰いつくように言葉を重ねていた。
「リエラもそう。鉱路で俺を助けてくれました。――助ける代わりに自分を逃がすように要求だって出来ただろうに、それをしませんでした」
ヴィレイアが手を伸ばして、リベルの服の裾をつまんだ。
もういい、と言わんばかりの仕草に、リベルが口を噤む。
そうしながらもリベルは、違和感というにもささやかな感覚を得ていた。
――ヴィレイアは堂々としていた。
鉱路を進むときよりも、もしかすると今の方が。
まるでこういった交渉事には慣れているか――あるいは、こういった交渉事を、長い間そばで見ていたことがあったかのように。
ヴィレイアが、緊張が隠せないながらもにっこりと微笑む。
「さあ、この三人の全員が、何かの形で報われるに足る親切を、誰かに施しているんですよ。
ちなみにいえば、エルカもリエラも、自由意思で今回のことに関与したのではありません」
ヴァフェルムの人差し指が、たんっ、と、勢いよく彼の膝を叩いた。
彼の眉間に皺が寄っている。
「私の内情を話せば、いいかね、今は治癒精を盗んだ者を摘発しなければならない局面だ。さもなくば、私がショーズ商会の法的に認められた権利を侵害したということで、フィアオーゼ議員が嬉々として私の責任を追及するだろう――議会で私が少々まずい立場に置かれる。
――仮にその御仁が、」彼はエルカを示した、「あれはラディス傭兵団の命令だったと証言してくれたとして、いいかね、ショーズ商会を守る商人組合の力は強い。いわゆる現行犯で、商会こそが治癒精窃取の主犯であったと証明するならばいざ知らず、そうでないならば、商会の摘発は不可能に近いのだ。
――ならば、代わりに、誰かを罰しなければならないね」
「最初からそういうつもりだったんですね。政治屋さんのそういうところ、私、大っ嫌いです」
ヴィレイアは真顔で言った。
「人が自分を守ろうとして群れて、それが国家になるわけでしょう。
なら、国家の第一義は人を守ることだと思いませんか」
「私が議員として在ることで、一万人が守られているとしてもかね?」
「あなたが考え無しに商会を攻撃したのは、私のせいでも、リベルのせいでも、エルカのせいでもありません」
「だが少なくとも治癒精が窃取されたせいだね。私はそのときに出来る最善を尽くさねばならなかった。今から是非を議論するのは無駄というものだ」
「その治癒精をどうするかは、今のところ私とリエラの問題になっているわけですけれど」
ヴァフェルムは苦笑した。
ようやく事が交渉のテーブルに載ったというように。
「きみが、二人の無事と引き換えに治癒精を奪還してくれるのならば――」
「いいえ」
ヴィレイアがきっぱりと言い切った。
「――……なに?」
初めて、ヴァフェルムが面喰らった様子を見せた。
眉を寄せ、怪訝そうにヴィレイアの目を見つめる。
リベルもまた、目を見開いてヴィレイアを見つめた。
――確かに、治癒精の奪還は一度しか切れない切り札であり、エルカの無事を永劫保証させるには足りない。
だが、ヴィレイアに切れる手札はそれしかないはずだ。
エルカも混乱した様子で、ヴィレイアとヴァフェルムを見比べている。
リエラに至っては恐らく息を止めている。
「――なんだって?」
ヴァフェルムが問い返す。
ヴィレイアがにっこりと微笑んだ。
そして唐突に、思いついたかのような動きで、ヴァフェルムと差し向かいの位置にあるソファに回り込み、腰を下ろした。
そして、まるで気心の知れた友人に、内緒話を打ち明けるように身を乗り出す。
シャンデリアの明かりに、白百合色の髪が光輪を浮かべている。
「いいえ、私が治癒精の奪還を条件に、誰かの身柄の自由を要求するなんて――」
ゆっくりと首を振り、ヴィレイアは濃緑の瞳でヴァフェルムの顔を覗き込む。
「――そんなの、私がその人の身柄を買うようなものじゃないですか」
「――――」
「そんな醜悪なこと、私にはとても出来ません。
彼らは、もう二度と、誰のものにもなりません」
「――――」
ヴァフェルムが瞬きし、そして一拍を置いて、大声で笑い始めた。
「そうすると、何かね? きみは私に、誰かが誰かに恵んでやった親切を根拠に、己の不利益を呑み込んで、そこの犯罪者崩れどもを守ってやれと、そう言うつもりかね?」
「まさか」
打ち返すように短くそう言って、ヴィレイアは肩を竦めた。
「あなたがそれほど善人であればどれほどいいかと思いますけれど、そうでないことは分かっています」
「面白い。なるほど。
続けてくれ、聞こう」
「――エルカが、どうして傭兵団の命令に逆らえなかったと思います?」
ヴィレイアが声を潜め、ヴァフェルムが目を上げて、エルカを見た。
わざとらしく顎を撫でる。
「ふむ――そうだな。当ててみたいところだが、時間がないのだ。答えを教えてくれ」
ヴィレイアがエルカを振り返った。
その目配せを正確に受け取り、鉱路で尋ねられたことの意味を悟って、エルカが応じた。
「――〈言聞き〉への誓約があったから」
さすがに予想外だったのか、ヴァフェルムが軽く目を瞠る。
「〈言聞き〉。ほう」
「命令に背きません、逃げません、そんなことをしようとする奴がいれば欠けさせます、ってね。
――ここに〈言聞き〉がいるなら、」
エルカがふと思いついた様子で畳みかける。
「訊いてみたらどうです。あいつら、あの嫌味な本に書き留めた誓約は、全部同族で共有してるんでしょ?」
「――面白いな」
ヴァフェルムは、上から下までエルカを眺めてから、また顎を撫でた。
「面白い。なるほど。〈言聞き〉には後で尋ねよう。
――だが、とすると、エルカといったか――きみがここにいるのはどういうことだろうな? ここにいるのは商会の命令かね?」
エルカは両手を軽く広げた。
「いいえ?」
「――ほう?」
本気で意味が取れなかった様子で、ヴァフェルムはヴィレイアに目を戻した。
ここに至って、相手の手の内が全く見えないことに起因する警戒が、彼の瞳に浮かんでいる。
ヴィレイアは今や満面の笑みだった。
「さあ、エルカが、どうやって〈言聞き〉への誓約を克服したと思います?」
ヴァフェルムは軽く息を吸い込んだ。
ゆっくりと彼が脚を組んだ。
「克服? ――まさか。そんなことは有り得ない。
ヴィレイア、私を欺罔することはお勧め出来たことではないよ。この若者が商会に背かないと〈言聞き〉に誓約を立て、なおその上でここにいるなら、彼は商会の命令でここにいるということだ。
――ならばヴィレイア、それを知っているきみも当然、商会と繋がったということになる」
バンクレットが警戒を全身に漲らせている。
それを一瞥した上で、ヴィレイアは軽く両手を挙げてみせた。
「いいえ、とんでもない。
――考えてください、彼が〈言聞き〉への誓約を克服できたとして、その方法に見当がつきますか?」
ヴァフェルムはうんざりした様子で溜息を吐いた。
戯言に付き合っている暇はないというように。
「そんなことが出来たとして、か。――想像もつかないな」
「リベルです」
ヴィレイアが、まるで自分が名乗りを上げるかのように誇らしげにそう言った。
「リベル?」
ヴァフェルムが鸚鵡返しにする。
彼の瞳がリベルを見た。
そのときようやくリベルは気づいた。
――ヴィレイアは、正々堂々と、リベル自身の才覚で、彼とその相棒を贖わせようとしているのだ。
尊厳を売買することなく、リベルが彼らの自由を獲得する方法。
「――――」
目の奥が熱くなる。
それを瞬きで押し遣って、リベルは得意げに微笑むヴィレイアを、一瞬だけ、しかし途方もない感情を籠めて見つめて、
「――俺です」
穏やかに言った。
「俺が心袋に禁則を放り込んで、〈言聞き〉の禁則契約を破りました」
「――――」
ヴァフェルムが絶句した。
バンクレットもそうだった。
二人が二人とも、言葉を失って、愕然として目を見開く。
「冗談を――」
言い差すバンクレットに、リベルは反射的に返していた。
「〈言聞き〉が近くにいるんでしたっけ? 誓約しましょうか、嘘つかないって。
――まあ、その誓約をあなた方が信じられるのなら」
バンクレットが何かを言おうとして、言葉に詰まった。
ヴァフェルムも、心からの驚嘆と、日が翳るほどの危機感の片鱗を載せて、茫然とリベルを見つめている。
それをしばらくのあいだ眺めてから、ヴィレイアは極めて平静な声音で告げた。
「あらゆる取引の基盤になった、〈言聞き〉の誓約に抜け穴はないという認識を、今さら崩したくはないですよね?
この共和国も、〈言聞き〉を使って他の国と条約を結んでいますよね?」
ヴァフェルムが、バンクレットに視線を向けた。
その瞬間に、ヴィレイアは指を立てている。
「いいですか、ここで私たちをどうにかしても意味はないですよ。
私には透過視精がついています。捕まったとして、他所にこの情報を話すのは簡単です。
もっといえば、あなた方が私たちから目を離していた間に、私たちが信頼できる人にこの事実を伝えていないと思いますか?」
思う、と内心で吐露したのはリベルだが、それを実際に口に昇らせない分別は彼にもあった。
更に言えば、ヴィレイアは意識して、全ての魔法使いが、〈言聞き〉が関わるどちらの種類の契約に対しても対抗できるような口ぶりをしているが、それは嘘だ。
――リベルの心袋ですら、〈言聞き〉の禁則契約に対抗するのがやっとなのだ。
他の魔法使いが同じことをしようものならば、間違いなく欠落する。
また、リベルであっても天命契約には対抗できない。
――それを、ヴィレイアが意図的に、明示的ではないながらも伏せている。
交渉の場において、手札は強く見せるべきだ。
「魔法使いが〈言聞き〉の誓約に対抗できるとして、――どうします?
全ての魔法使いを殺してしまうとか、魔法を犯罪にするとか、そんなことをするんですか?
そんなことをするよりも、彼らを守ってあげる方が、ずっと安上がりで安全だと思いません?」
ヴィレイアが首を傾げる。
「これは公平な取引だと思いません? リベルは魔法使いが可能にすることを黙っています。だから、あなたは彼らを見逃すべきです。本当の意味で見逃すべきです。
――今後、もしも商人組合であれ、例の商会であれ傭兵団であれ、そういう人たちがリベルや、エルカや、リエラの身柄について何か言ってきたら、その時点で私たちは魔法使いに関するこの秘密を暴露します。どんな混乱になるか見ものですね?
それを見たくないなら、あなたは全力で彼らを守らなければなりません」
ヴァフェルムはヴィレイアをじっと見つめた。
「――きみは治癒精で彼らの身柄を買うのではなく、彼ら自身の才能で彼らを贖いたいと、そう言っているのだね?」
「言いようによっては」
「なんと。きみは、才能のある人間だけが救われると言っているようなものだ」
「リベルが自力で考えて、自分で思い切ってやったことです。他に同じことをした魔法使いがいます?」
ヴィレイアは、仮にそんな魔法使いがいたとして、その魔法使いがリベル並みの心袋に恵まれていなければ、ただ欠けただけであるという事実を胸の中に葬った。
「だから、リベルの努力の結果です。
リベルは覚悟を決めて――そして、今は自由です」
「自由」
ヴァフェルムはもの思わしげに呟いた。
「なるほど。――だが、きみたちの自由のために、私は他の全員の自由を犠牲にすることは出来ない。
きみのその理論でいえば、私は今後、きみたちの主張の全てを受け容れなければならない――ということになりかねない」
「いいえ?」
ヴィレイアが語尾を上げた。
心底不思議そうに。
「そんなことにはならないでしょう。
あなたは私の大嫌いなものを全て持ってらっしゃるもの――影響力とか、権力とか、他の人にばら撒くためのお金とか」
バンクレットが、さすがに窘めるような咳払いをしたが、ヴィレイアはそちらを一瞥もしなかった。
「ですから、今こうして私が言っていることなんて、究極的にはお忙しいあなたが咄嗟の返答を思いつかないことに賭けた、一種のお涙頂戴みたいなものですもの」
ヴァフェルムは当惑した様子でヴィレイアをじっと見つめた。
「では、これまで言ったことは冗談か?」
「とんでもない」
ヴィレイアは真剣に応じた。
「真剣なお涙頂戴です。あなたの心にそれだけの広さがあることを願っています。――あなた方は、私たちをどうにかすることも出来るでしょう――我慢ならなくなれば。
ですからまだ我慢ができるうちは、彼らを守ってくれてもいいんじゃないですか」
「――――」
「真剣にお願いしています。この取引に応じてください。
少なくとも、今すぐにこの事態への対処は出来ないはずですもの、この取引に応じるべきでしょう」
「――――」
ヴァフェルムはしばらく、無言でヴィレイアを眺めていた。
それから溜息を吐いて、大儀そうにソファから立ち上がる。
これに思わず一歩下がったのはエルカとリエラで、バンクレットはヴァフェルムがどう出るものかを予測しかねる様子で、いっそ途方に暮れたようでさえあった。
ヴァフェルムが足を踏み出し、ヴィレイアが腰掛けるソファを素通りした。
彼は――共和国の議員の一人は、今やリベルたちの目前にいた。
「――ヴァフェルムさま」
バンクレットが低く呼ばわる。
リベルたちは武装を解いていない、それゆえの、当然とも言うべき警戒が色濃く溢れた声――
ヴァフェルムがリベルと目を合わせた。
それからエルカの目を見て、怯えて目を逸らすリエラの横顔を見つめてふと微笑む。
そして、緊張に息を止めるリベルの肩に手を載せ、それから、混乱と驚愕に息を呑むエルカに向かって、礼儀正しく右手を差し出し、彼の手を握った。
「――これまで苦労をしたんだね」
彼が呟いた。
それを聞いて、ソファの上で身を捩ってエルカを振り返っていたヴィレイアが、心底からの安堵を籠めて息を吐き、身体から力を抜いた。
ヴァフェルムは、唖然とした様子のエルカの目をじっと覗き込んでから、同じくリベルにも目を向けた。
リベルも目を見開いている。
「すまない、私もきみたちが憎くて論ったわけではないのだ。
だが、私の立場上、出された要求に全て頷くわけにもいかない。
――今まで辛酸を舐めてきたのだね」
静かにそう言って、ヴァフェルムは息を吐いた。
「もちろん、立場が許す限り、きみたちの後ろ盾となろう」
「――――」
エルカが絶句している。
何を言われたのか、咄嗟には理解できなかった様子だ。
リエラもそれは同じで、エルカの陰に隠れた彼女が、頻りに瞬きをして、雲上人である議員を窺っている。
「――え」
ヴァフェルムがエルカの手を離し、代わって、彼の目をじっと覗き込んだ。
「共和国が憎いかね?
――資産があればあらゆるものが手に入る、平等の名の許に取引自由を謳う、今のこの国が憎いかね?」
瞬きし、呼吸を思い出した様子で息を吸い込み、エルカはヴァフェルムから目を逸らした。
「――俺は、難しいことは分からない」
「分からないことがきみにどれだけの不利益を与えたのかと思うと、胸が痛む」
ヴァフェルムは凪いだ声で呟いて、リベルに目を向けた。
「きみはどうだね。共和国が憎いか――私たちが憎いかね?」
リベルは息を吸い込んだ。
足許が覚束ないような、身の回りのことから現実感が失せていくような感覚があった。
「――いいえ」
呟く。
「いいえ――金があれば自分のことをどうとでも出来るっていうのは、いいことだと思います。
金を得る機会が誰にでもありさえすれば。生まれで何もかも決まることにならなければ。本当に世の中が平等であれば。
――ただ、」
息を止めてから、彼は万感の思いで囁いた。
「――ただ、人間の尊厳を取引するのは、間違っています。
金で好きなように出来ることにも、線引きが要るはずです」
ヴァフェルムは頷き、ゆっくりと一歩下がって、先ほどまで自分が腰掛けていたソファに戻った。
だが腰掛けることはせず、その場でゆったりと立つ。
それに合わせて、ヴィレイアも慌てた様子で立ち上がった。
ヴァフェルムはヴィレイアをまじまじと見て、面白がる風情すらあった。
「きみの要求は呑んだ。きみたちは、魔法使いが〈言聞き〉の誓約に干渉できることを伏せたまえ。対価として私がきみたちの身を守ろう。
――交渉はまずまずだった、さすがはラテンザの息女というべきかな?」
「知らない人ですね」
ヴィレイアが即座にそう返し、ヴァフェルムは怪訝そうにしつつも肩を竦める。
それを見てから、ヴィレイアはリベルに目を移した。
その瞳。
生命そのもののような、濃緑の双眸が煌めいている。
「――これで、正々堂々、あなたは自由だよ」
「――――」
リベルは息を止めた。
伝えたいことは溢れんばかりにあったが、そのどれ一つとして言葉にならなかった。
唇が震え、リベルは思わず両手で口許を覆う。
――終わったのだ。
――商会の影に怯え、法務官の前で身許を探られることを警戒し続ける日々は終わった。
たとえ商会がリベルを見つけたとして、議員の一人を敵にしてまで、リベルの身柄を奪還しようとは思うまい。
そしてヴィレイアは、その自由を、金銭や、他人の同情ではなく、リベル自身の才能と機転によって贖ってくれたのだ。
言葉にならない思いを必死に言葉にしようとしているリベルをじっと見てから、ヴァフェルムはヴィレイアに向かって咳払いした。
そして、隣室を示すような手振りをする。
「――さて、では、こちらの火急の用件を忘れたとは言わせない」
「治癒精ですね」
ヴィレイアがリエラを振り返りながらそう言って、怯えた薄紫色の瞳に頷きかけた。
リエラは己の身を抱くようにしながら、小刻みに首を振った。
明らかに恐怖と警戒で雁字搦めになっている。
「――私は魔法使いじゃないの。今のお話で、本当にその……その方が私を守ってくださるか分からないもの、まだ――」
「リエラ、大丈夫よ。それに、こればっかりはあなたのお話は聞けないわ。
私があなたから契約を奪うっていうだけよ」
ヴィレイアが宥めるようにそう言って、溜息を吐く。
「もちろん、最初からそのお話ですから――」
そう言い差して、再度ヴァフェルムを振り返るヴィレイア。
その彼女に、ヴァフェルムは穏やかに言った。
「そのお嬢さんは、やはり素直に契約を解きそうにはないからね。当初から話していた通りだ。きみが一度、治癒精と真契約を交わす。そしてその真契約を解除する」
「ええ、もちろん」
「だが、私としては、今度こそリスクを呑むわけにはいかない話だ」
ヴァフェルムがそう言って、隣室に向かって頭を傾けた。
「〈言聞き〉は、このために呼んだのだ。今は隣室にいる。
――ヴィレイア、きみが間違いなく治癒精を解放するということを、〈言聞き〉に誓約してほしい。――天命契約で」
苦笑をリベルに向ける。
「そしてそれから、しばらくは魔法使いとは距離を置いてほしいものだね」




