侯爵令嬢アリアレインの軋轢(4)
アリアレインが挙げた名は、普段から近侍する警護役の女性従士のそれだ。
「……しかし、アリア様、それではいろいろとご不便なのでは?」
同性であるがゆえ、サレアは寝室を含めて、どこであれ立ち入ることを許されている。何がないとも限らない立場だから警護は常に必要だ。しかし、女性で、かつ警護役を務めるに足る実力を持つ従士はごく少ない。サレアはその貴重なひとり。女性従士の中では最も武技に優れている。サレアがいるからこそ出てゆける席もあるのだから、そのサレアを送り出してしまっては、アリアレインの生活に制約が加わるのは避けられないことでもあった。
「従士の中では、彼女がいちばん気心が知れているのだもの」
「でしたら、尚更――」
「旦那様がね」
「は」
被せるように口にした言葉。灰色の目が、アーヴェイルを見つめる。
「――わたしを連れていってくれないから。海の向こうには、海の向こうにしかないものがあるでしょう? タリム・マガンの大市場と言えば、こちらにも噂が聞こえるくらい」
「……」
その話を持ち出されてしまっては、アーヴェイルとしては黙るしかない。ひとつ息をついて、ここで怯んでは駄目だ、と自分に言い聞かせる。
「お任せくださったのはアリア様です。それに、アリア様、そのこととサレアとの間にどのような」
「だからね、気心の知れた彼女にいろいろ見て、なにか手に入れてきてほしい、と思って。わたしのかわりに」
アリアレインは澄ました顔で、アーヴェイルを見つめている。
「――わかりました。彼女には、なるべく自由な時間を作るようにしましょう」
アーヴェイルは折れた。侯国の中で、あるいは侯爵公邸の中で、ぎりぎりの警護が必要になるような状況は実際のところ、そうそうあるわけではない。それも大半は男性従士の警護で事足りる。連携さえできるのならば問題はない。そしてアーヴェイルには、妻に対する引け目があった。次期女侯爵という立場を引き合いに出して、無理矢理に己の意見を押し通した、という。
「よろしくお願いするわ。交渉の方針も、旦那様、あなたときちんと確認しておかないといけないわね」
「……はい」
申し訳ありません、という言葉を、アーヴェイルは飲み込んだ。アリアレインの希望に沿えなかったことに対して、済まないと思う気分はある。しかし、理に沿った意見を述べることこそ自分の役目、と考えてもいる。アリアレインも一応は納得したうえでそれを受け入れたのだから、アーヴェイルに謝る理由はないのだった。
「わたしの代わりを、務めてくださるのですものね?」
「代わりなどできません、アリア様。私ではあなたに及ばない」
「そうね。でも、それは仕方のないことなのでしょう?」
「はい。ですから、私にできる限りのことを。あなたには及ばずとも」
アーヴェイルの返答に、アリアレインはかすかに俯いて息をつく。夫は、少々の揺さぶりでは動じてくれそうにない。それは護衛を兼ねた補佐役の頃からずっとそうだった。動じないなりに、周囲や状況による制約と自分の希望との間に、幾度もうまい落としどころを見つけてくれたのは夫だったけれど、今はその落としどころがない。行くか行かないか、のふたつしか選択肢がなく、その中間というものがないのだから、ある意味で当然の話ではあった。
譲ってくれないのならば仕方がない、と自分を納得させ、顔を上げて、アリアレインは夫に呼びかけた。
「それなら、旦那様、しばらくわたしに付き合ってもらいましょう。まず前提の確認からね」
「――はい」
※ ※ ※ ※ ※
それから3日ほどの間、アーヴェイルは寝る時間を削らざるを得ないほどの多忙さに見舞われた。
朝はいつもどおり起きて、明るいうちはアリアレインとともに、タリム・マガンとの交渉の準備がある。ときにスタインやラドミール、祐筆たちを交えて、前提となる侯国内部の状況を確かめ、サンサール王国との交易の条件を整理し、その中で交渉のテーブルに乗せられるものを選んでゆく。
無論、相手側がどこまでを本気で望んでいるのか、を推測することも不可欠だった。それが推測できないままでは、何をどこまで譲ってよいかが判断できない。推測を誤れば、まとまるはずの交渉がまとまらなくなることも、逆に不必要な譲歩をしてしまうことも考えられる。どちらも、マレス侯国にとっては避けたい状況だった。
可能であれば妻を伴って出向きたい、と幾度も思った。対峙した相手への観察と、そして見えたもの聞こえたものからまだ見えていない部分を推測する洞察において、妻は群を抜いた能力を持っている。顔を合わせ、言葉をやり取りし、相手の態度を見ることでしかわからないことが、この類の交渉には多すぎるのだった。
自分は妻には及ばない、という自認があるから、アーヴェイルは、それを事前の準備で埋め合わせようとしている。アリアレインと書記官や祐筆たちの力を借りて、可能な限り事前に状況を分析し、その上で交渉に臨もうとしている。
そういった前提があり、そして出航の日取りはおおよそ決まってしまっている、という事情を鑑みると、あとは一日あたりの事前準備の時間を長く取る、という方法くらいしか、採れる手段は残らない。
加えて、使節の人選から船の準備、持ってゆくべきものの選定に至るまで、最終的な決定は全て、正使であるアーヴェイルが下さなければならない。結果、アーヴェイルは、眠る時間を削らざるを得なくなっているのだった。
そのようなときはいつも手助けしてくれる妻は、今回に限って冷淡とも言える態度を取り続けている。それもやむを得ない、とアーヴェイルは思っていた。妻の望みを拒絶したのは自分で、その点について謝る気も改める気もないからだった。歩み寄れるものであれば歩み寄りたい、とは思っている。これまでいつもそうしてきたように。今回は、歩み寄りようがない選択だった。少なくとも、アーヴェイルにとっては。




