侯爵令嬢アリアレインの軋轢(5)
「お疲れね、旦那様?」
「はい。いささか」
明日はいよいよ出航、という日。夕暮れ近くなって、アリアレインを交えた打ち合わせは、ようやく終わった。すべてが満足のいく形になったわけではないが、ひとまずおおよそのところは押さえることができた、というのが、アーヴェイルの実感だ。
「今日はゆっくり休めるのかしら?」
「そうですね。おそらくは」
「長旅になるのだから、今日くらいはきちんとお休みになってね?」
「――はい」
多忙に流されて忘れかけてはいたものの、明日からしばらくは、アリアレインと顔を合わせることができない。片道およそひと月、往復でふた月、タリム・マガンでの諸々を考えるのならば3か月ほど。前回離れたのがたかだか十日もないくらい、と考えると、三月の時間はあまりに長い。
「アリア様。ひとつお願いが」
「あら、どんな?」
尋ね返したアリアレインに、アーヴェイルは、しばらく逡巡してから己の望みを口にした。
「ハンカチを、また、お貸しいただけませんか」
「……ハンカチを?」
「はい。香水をつけて」
アリアレインの視線が逸れた。白磁の頬が、見る間に赤い彩りを帯びる。
「指輪も一緒に、と言わないのなら」
「まさか。冗談でもそのようなことは」
視線を合わせないまま、アリアレインは席を立った。
「待っていて。すぐに持ってくるから」
しばらくして戻ったアリアレインは、レースのハンカチを手にしている。付けられた香りは、アリアレインが普段使う香水のそれ。
「忘れないで、旦那様。貸すだけよ」
「はい」
「持って帰ってね。あなたが、必ず」
「はい、必ず、アリア様」
アーヴェイルの右手が取られ、そこに畳んだハンカチが乗せられる。
捧げるように目の高さに持ち上げて、アーヴェイルはそれを服の内ポケットにしまい込んだ。
※ ※ ※ ※ ※
翌朝、出航の時間。
港にアリアレインは現れなかった。
「お嬢様から言付かっております、若旦那様」
かわりに、と言うべきなのか、アリアレインが随員にと指名した従士のサレアが、アーヴェイルに声をかけた。
「言伝? どのような?」
「『あなたならばわたしの望むようにしてくれる、と信じます。ゆえに見送りません』と」
「承りました、とアリア様に――」
言いかけて、アーヴェイルが口を噤む。サレアもまた随員なのだ。このままともに船に乗る相手に、アリアレインへの伝言などできるはずがなかった。
かわりに、手近にいた従士のひとりを手招きする。小走りに寄ってきた従士に、アーヴェイルは、ひとつ伝言を頼まれてくれ、と声をかけた。
「は、どなたに、どのような?」
「次期女侯爵閣下に。『ご伝言はたしかに承りました』と」
「わかりました。他には?」
踵を合わせた姿勢のまま、従士が尋ねる。
「いや、他にはない。手間をかけて済まないが、よろしく頼む」
「は、たしかにお伝えいたします」
丁寧な態度で一礼し、従士はふたたび小走りで立ち去った。まだなかなか慣れない、と思いながら、アーヴェイルはその後姿を見送る。半年ほど前まで、役目の違いはあれど、自分と相手は同じ従士だった。それが今は、次期女侯爵の夫であり、他国と重要な交渉に当たる正使である。先のことはわからない、と思いながら振り返ると、サレアが渡し板を渡って船に乗り込むところだった。
※ ※ ※ ※ ※
出航してしまうと、アーヴェイルが抱えていた仕事の半分は消えてなくなった。人選は済んでおり、荷はすべて積んでいて、船はもう港を出てしまっている。残るのは交渉のための準備だけで、航海のために自分ができることはない。
アーヴェイルにとっての気がかりは無論、残った前者の方だった。いくら準備したとしても足りるということはなく、失敗できないという重圧だけがある。そうであれば、アーヴェイルにできることは、アリアレインと共に行った準備をなぞる、というくらいのものでしかない。
だから、アーヴェイルはできることをひたすら続けた。書記官と祐筆たちがまとめてくれた資料を読み込み、なぜそのようになるのかをもう一度考え直し、自分に並べられる限りの疑問を並べて。時折気分転換として甲板に出ることはあったが、それ以外の大半の時間を、アーヴェイルは自分に与えられた船室で過ごしている。
甲板を歩き回る少々の時間と、身体が鈍りすぎないように行う最低限の鍛錬の時間、そして船長とともに摂る食事の時間だけが積まれた資料から離れる時間ではあったが、その間もアーヴェイルは、頭のどこかでタリム・マガンに着いてからのことを考え続けている。
――こういうことが起きたならば、アリア様はどうなさるのだろうか。あるいは、別の選択肢が見えたならば。
そういう考えを幾度も弄び、妻ならばどうするだろう、と考えて、アーヴェイルにはすっきりとした答えが出せずにいる。考えれば考えるほど、自分にはわからない部分、自分の及ばない部分が出てくるようで、心が萎えそうになるのを耐えている。
そんな日が2日続いて、3日目の午後。
アーヴェイルの船室の扉がノックされた。急用でなければ部屋に来る必要はない、用事があれば自分から呼ぶ、と船長には伝えてある。かすかな苛立ちを覚えつつ、アーヴェイルはめくっていた資料に栞を挟んで閉じた。
「……なにか?」
己の苛立ちを声に出さないように務めながら、アーヴェイルは用件を尋ねる。
「船長がお呼びです、正使様」
平静な声の返答は、サレアのそれだ。わかった、と答えて立ち上がる。船尾楼の下には海図が置かれた広い船室がある。船長と話すのであれば、場所はそこになるはずだった。狭い通路を通り抜け、サレアが押さえてくれる扉を抜けながら、アーヴェイルは船長に声をかける。
「船長、お話とは――」
そこまで言って、アーヴェイルは固まった。いるはずのない妻が、アリアレインがそこにいる。
「――なぜ」
呟くように言って、扉の枠に手をかけ、膝から崩れ落ちそうになる身体を辛うじて支える。
なぜ、いつ、どうやって。山ほどある尋ねたいことがぐるぐると頭の中を回る。
アーヴェイルは、半年前のことを思い出していた。アリアレインから預かった書状を、当代侯爵ランドルフに手渡した折のことを。
これは本当か、と二度問われ、自分は二度、事実だ、と答えた。
あのときランドルフはどういう態度を取ったのだったか。
深く長くため息をつき、何かをこらえるようにこめかみを押さえていたように思われる。
呆れたのか腹を立てたのか、あるいは驚いていたのか。それら全てが混ざりあっていたに違いない。アーヴェイルには推測するほかないが、あのときのランドルフの気分が、少しだけ理解できたような気がした。




