侯爵令嬢アリアレインの軋轢(2)
「仲が良いのは良いことだがな」
ランドルフが苦笑しながら、ふたりに苦言を呈した。申し訳ありません、とアーヴェイルが恐縮する。
「どこまで話したか――ああ、要は、いざというときには手を携えうる、ということが示せればそれで足りる話、ということよ」
「タリム・マガンがあまりに無体な条件を付けて退かないようなら、彼ら抜きでも交易する、という姿勢を示す。そういうお話ですね」
アーヴェイルが確かめるように言い、ランドルフがそうだ、と頷いた。
「それはサンサールとの間でも同じ話だ。共通の利害は示した、こちらが引く姿勢も見せた。この上まだ過大な要求をするようならば、交渉を打ち切ることも頭に入れておかねばならん」
「はい、お父様」
答えたアリアレインに、ランドルフは顔をしかめてみせる。
「そなたがそのあたりをよく理解しているのは知っている。何をするにせよ、アーヴェイルとよく相談して決めろ」
「あらお父様、わたし、こう見えて、自分ひとりでいろいろ決めることもできますのよ?」
冗談めかした返答に、ランドルフの表情が本格的に苦くなった。
「知っておる。だからこそ、だ。今また戦など起こされてはかなわん」
※ ※ ※ ※ ※
積み重ねられたいくつもの課題は、ひとつずつ片付いている。
海賊の跳梁は止み、マレスとサンサール王国の交渉は無事に始まろうとしている。
「あとはタリム・マガンよね」
己の執務室に戻り、ふたたびアーヴェイルとふたりになって、アリアレインはそう言った。
「はい。条件はいま、オルディア書記官に整えてもらっています。船の用意も整えさせておりますから、あとは人選かと」
「そうね」
「まず正使を誰にするか。相応の格と能力が必要でしょうから――」
「わたしが出向きます」
あっさりと告げたアリアレインの言葉に、アーヴェイルがひとつ息をつく。アーヴェイルにとって、意外さはさほど大きくはない。むしろ納得する気分さえある。だが、意外さの有無とそれを認めるか否かは別の問題だった。
「なりません、アリア様」
アリアレインの目を正面から見返して、アーヴェイルははっきりと反対を口にする。
「相応の格と能力が必要、と言ったのはあなたよ、旦那様」
「そう申しました、たしかに」
「わたしでは不足?」
不足であるはずがなかった。独立したばかりのマレス侯国において、アリアレインよりも地位が高い者と言えば、マレス侯爵その人しかいない。能力にも欠点がないわけではないが、こと交渉事で必要とされる相手の意図を読む能力と頭の回りの速さにおいて、アリアレインよりも適した人材などいないと言ってよい。
「足りる足りないの話ではないのです、アリア様。危険すぎます」
まずもって航海そのものに危険がある。片道ひと月になろうかという航海は、それ自体が危険と困難を含むものにならざるを得ない。春から秋の間はその危険が随分と小さくなるとはいえ、陸にいるのとは種類の違う危険を引き受けなければいけないことに、変わりはない。
加えて、行く先は他国。サンサールのように明確に敵対する相手でないとはいえ、侯爵公邸で従士たちに守られている普段の生活とは、段違いの危険があると考えなければならなかった。
その意味で、アーヴェイルの意見は妥当なものと言ってよい。
「難船はこのところ、そうそう出ていないわよ。それに、使節を送るのならば、使うのはうちの用船。船も船長も船員たちも、選りすぐりと知っているでしょう?」
それは確かに事実だった。だが。
「危険が小さくなるのは事実ですが、そもそも海に出なければ引き受けずに済む危険なのです。それに、アリア様、出向いた先の危険も小さなものではありますまい」
「わたし、少々の危険があっても行くべきだと思っているのだけれど」
「仰ることもわかります。ですが、アリア様、あなたは替えが利かないのです。あなたがいれば次代のマレス侯爵家は安泰でしょう。しかし、もし万が一のことがあれば」
「クルツとレーナ嬢がいるでしょう。あのふたりなら大丈夫よ」
「避け得ない万が一のことがあるのならば、それはそのような手段もありましょう」
アーヴェイルは引き下がらない。アリアレインの前で話すには珍しく、少々苛立たしげな口調だった。
「それなら、旦那様、誰を使者に立てるおつもり? お父様は論外として、わたしが駄目と言うのなら」
アリアレインの口調も、尖ったものになっている。反対されることを想定していたとはいえ、アーヴェイルの強硬な態度が、アリアレインの態度をも硬いものに変えていた。
「私が出向きましょう。格の上では次期女侯爵の夫です。能力はアリア様、あなたには」
「駄目よ」
及びませんが、という台詞をアーヴェイルが言い終えるよりも早く、アリアレインがアーヴェイルを遮った。
「我が侭を仰らないでください。ご心配はわかりますが――」
「違うのよ。その心配じゃないの」
アリアレインの不安は、夫の能力へのそれではない。十分な準備の上でとはいえ、アーヴェイルにはレダンを調略した実績があり、エズリン伯爵ほかマレス街道沿いに所領を持つ複数の貴族を騙しおおせた経験もある。方針さえ明確にしめしておけば、本心を悟らせず、虚実と硬軟を取り交ぜて、困難な交渉を取りまとめてくれる、という信頼もある。
――離れたくない。
結局のところ、アリアレインの不安と不満はその一点に尽きるのだった。
「あなたも、旦那様、わたしにとっては替えが利かないの」
それはアリアレインにとって、心からの言葉だった。それでも、アーヴェイルは首を縦に振らない。
「アリア様のお心はアリア様のものですが、アリア様ご自身は次代の侯国のものです。おわかりでしょう」
「それは、そうかもしれないけれど」
「そうなのです。お聞き分けを、アリア様」
正論を持ち出されて半歩退いたアリアレインに、アーヴェイルが畳みかける。
「……わたしがその場で解決するしかない問題が、持ち上がるかもしれないのに?」
「その可能性は、たしかに」
アーヴェイルもそれを否定する気はなかった。それなら、と身体を乗り出すアリアレインを抑えつけるように、アーヴェイルは首を振る。
「アリア様、侯爵家のことをお考えください。あなたがおられれば、侯爵家も、そして侯国も、平らかでありましょう。当代も次代も。しかし――」
「……旦那様」
アリアレインの声音は、低く、明瞭で、そして硬い。
「あなたが結婚してくれたのは、マレス侯爵家の令嬢だったの?」
「――は」
意外な言葉に、アーヴェイルの動きが止まる。
「それは、どういう――」
「もういいわ」
「アリア様?」
「旦那様の思うようになさって」
ふい、と立ち上がったアリアレインが、執務室を出てゆく。ひとり残された形のアーヴェイルは、呆然とアリアレインを見送った。




