侯爵令嬢アリアレインの軋轢(1)
マレス侯爵公邸、次期女侯爵の執務室。
その入口の扉を開け、祐筆と二言三言、言葉を交わしたアーヴェイルが、奥の執務机に座るアリアレインを振り返った。
「王都から使者が戻った、とのことです、アリア様。お会いになられますか?」
「会いましょう」
「閣下の執務室に、既に呼ばれている、と」
「わかりました。旦那様、あなたも一緒に」
椅子から立ち上がりながら、アリアレインが言い、アーヴェイルははい、と応じて扉を開けた。
「しばらく、お父様のところへ出向きます。緊急の用があれば呼びに来て」
次の間に控える祐筆たちに声をかけて、アリアレインは廊下へと出た。
「朗報だとよいのだけれど」
アーヴェイルと連れ立って歩きながら、アリアレインが呟く。
「朗報でしょう」
それが当然、というように、アーヴェイルが応じた。
「閣下とアリア様が、あのような形であちらの体面を立たせたのです。そうでなくては」
アーヴェイルが付け加えた言葉に、アリアレインが小さく笑う。
「あちらもそう思ってくれるかどうかは、別のお話よ?」
「はい。しかし、彼らも半年前とは違います。アリア様もそう仰ったではないですか」
「――そうね、確かに」
新たな国王、エイリークの名で届けられた書状。アリアレインもアーヴェイルも、それをじかに見ている。その背後にあるものを推測してもいる。何がどのように変わったのかまでは定かでないが、サンサールの国王と宮廷は確かに変わりつつある。
「そうであるからこそ、アリア様もあのような手を打たれたのでは?」
国号と、そして支配者の称号のことを、アーヴェイルは言っていた。
「伝われば効果はある、と思っていたのは事実よ。伝わる可能性も低くはないと考えてもいたけれど」
「では、そのとおりになった、ということです。アリア様の考えたとおりに」
広い侯爵公邸とはいえ、内部を歩くのにそれほどの時間はかからない。短い会話を交わすうちに、ふたりは侯爵執務室の前に着いている。部屋の扉を守るように立つ従士のひとりが一礼し、扉を叩いた。
「閣下、お嬢様と若旦那様がお見えです」
「おお、待っていた、通してくれ」
従士がかけた言葉に、部屋の中からランドルフの声が応じる。従士がもう一度礼をして扉を開けた。
「サンサールとの交渉の件であろう、アリア? 今ちょうど報告を受けていたところだ」
「はい、お父様」
「アーヴェイル、そなたも座れ。アリアと一緒に聞いておけ」
「はい」
ふたりはちらりと視線を交わし、小さく頷き合った。ランドルフの態度を見れば、使者が持って戻ったのは悪い報告ではない。ふたりが同じテーブルに着くのを待って、使者が手に持った書面を繰り直した。
「わたしたちへは、全部でなくていいわよ。掻い摘んで教えていただける?」
「は」
使者としてサンサールに出向いていたのは、年配の祐筆のひとりだ。祐筆の中でも次席に当たる。その役目はもはや文書の作成や管理に留まらず、侯爵家の家政や領政の全般に及ぶ。
では、と前置きして、祐筆がひとつ咳払いをした。
「結論から申し上げますと、サンサール王国は交渉に大筋で合意しています」
それを聞いたアリアレインとアーヴェイルが、もう一度視線を交わして頷く。
「付帯された条件もございます。たとえば、実際の交渉の設定は、捕虜の解放を進めることが確認されてから、と。次の返還船を少なくとも1隻増やし、その分の捕虜をコルジアに送り届けたのち、具体的な交渉の日程を詰めよう、という条件を提示されました」
「お父様はどのようにお考えでしょうか?」
尋ねたアリアレインに、ランドルフは問題なかろう、と頷く。
「元々、捕虜は早期に戻すつもりでいたのだ。まずは交渉のテーブルに着かせることが肝要だろう」
「わたしもそのように思います」
「アーヴェイル、そなたは?」
「私にも異論はありません、閣下」
ランドルフに水を向けられたアーヴェイルが、一礼して同意を示す。
「ならばよい。そのほかの条件はどうなっておるかな?」
ランドルフが報告の続きを促した。ここから先はまだ、ランドルフも報告を受けていないらしい。
「ほかの条件ですと、交易に関する税の取り決めや、品目ごとの最低限の交易量の設定などが」
「それについても問題なかろう。具体的な条件は、交渉の場で詰めればよい。アリア、アーヴェイル、そなたたちはどう見る?」
そうですね、とアリアレインが首を傾げる。そのままの姿勢でほんのわずか考えて、アリアレインは首を振った。
「わたしからは、特に意見はありません。お父様の仰るとおりかと」
「重要なのは、サンサールとの間に交渉を持っていると示すこと、と見ております」
アリアレインは直截に。アーヴェイルは少々持って回った言い方で。それぞれに、賛同の意を示している。
「まさに、だな、アーヴェイル」
アーヴェイルの返答を聞いたランドルフが、満足そうに頷いた。
「条件の折り合いがつかなければ、マレスとサンサールが直接話をするという選択肢もある、と示してやらねばならん。要はそこだ」
その意味で『交渉を持っていると示すこと』は重要なのだった。
「まあ、実際には難しいかとは思いますが……」
濁した語尾。アーヴェイルの視線の先に、その理由がある。己自身で断ち切った左腕の先には義手があり、その義手には手袋が嵌められている。サンサールの国王、当時の王太子が放った刺客からアリアレインを守るために、アーヴェイルは左腕を犠牲にした。
無論、アリアレインもアーヴェイルも、一方的な被害者であったわけではない。アリアレインの謀略によってサンサールの国内は大混乱に陥った。混乱によって害を被った者は数多い。騙して糧食を奪い、糧食を運んだ船はマレスの港に抑留された。攻め寄せた王国軍の先鋒部隊は丸ごと捕虜とされ、いまだに労役に従事させられている者たちもいる。
ひとつの国であったふたつの領域であるから、急に分かたれれば歪みは生まれる。だがそもそも、急に分かたれたこと自体もまた歪みのひとつでもあるのだ。経緯はともあれ、一度は互いを敵として扱った間柄。争いは終わったわけではなく、一時の休みを得ているだけ。平和的な共存というよりもそれは、互いに背を向け合うことで、相手の姿が目に入らないようにしている、という状態に近い。
そのような状態から、すぐに手を取り合っての交易、というのは、あまりに都合の良い夢想と言えるのかもしれなかった。
「恨みもわだかまりも消えはしないが、共通の敵がいるのならば手を結ぶこともできる。それが示せればそれでよい」
ランドルフの言葉は、マレスの立場の要約でもある。
「他は許せても、わたしには許せそうにないのよね、ひとつだけは」
「良かった、とは決して申せませんが、悪いことだけかと言われると――」
アリアレインの言葉に、アーヴェイルがふたたび語尾を濁す。
起こり得べからざる追放の処断であり、そしてその後の混乱ではあったが、アーヴェイル個人にしてみれば、それはアリアレインと結ばれる契機でもあった。




