侯爵令嬢アリアレインの条件(2)
交易に関する条件とは、つまるところ、テーブルについたあとで持ち出す金銭面の話、ということになる。どのようにしてサンサール王国を、ひいては国王であるエイリークをテーブルに着かせるか、という話ではない。
「捕虜の早期返還で十分なようにも思われますが」
「もう一押し、何か欲しいのよね」
スタインが退出し、またふたりになった執務室。
アリアレインの返答に、アーヴェイルは黙ったまま視線を向けた。そこまでする必要があるのか、とその視線が問うている。
「王陛下だけなら、これで十分だと思うのよ」
「……それ以外に誰が?」
「旦那様、王都に上ったときにね。覚えているかしら? 農部省をどうにかしようとして、わたしは一度失敗しているでしょう?」
「――ええ」
それはふたりにとって、決して快い記憶ではない。とはいえ、それがアリアレインとエイリークの間に溝を作る契機であり、つまりはふたりの現在に繋がる契機でもあったのだから、評価の難しいところでもある。
「少なくとも秋までは、あの頃と大きく変わってはいなかったでしょう。宮廷も執政府も」
「はい。結局は諸卿の意向が大きい、と」
執政府の執務を円滑化しようとしたアリアレインは、諸卿の意思によってそれを阻まれた。執政府を取り仕切るのは、その各省の長である諸卿。彼らが強く反対すれば、王とはいえそれを押し切ることは難しい。アリアレインの追放は当時の王太子の一存であったにせよ、その背景には常に諸卿の意向があった。
「癪に障るお話だけれど、彼らを動かすだけの何かがあった方がいいとは思うのよね」
マレスとサンサール、その双方が体面にこだわり続けたとして、どちらが先に音を上げるのかは定かでない。だが、タリム・マガンとの間に不利な条件で条約を結ばざるを得ないような事態に陥らないためには、少なくとも早急にサンサール王国を交渉のテーブルに着かせる必要がある。
「旦那様はご不満?」
「正直に申し上げれば、少々」
大きな努力を払い、得たものからすれば小さいとはいえ、犠牲をも払って掴んだ勝利。それは何よりも、マレスとアリアレインの矜持を示すためのものであったはずだ。自ら進んで膝をつくような態度は、アーヴェイルにとって、その勝利を投げ捨てるもののようにも思える。
「わたしも正直に言えばね、旦那様、あなたと同感。でも、わたしたちを対等な対手として認めること自体、あちらには大きな譲歩なのよね。半年前まで、お父様は臣下だったわけだから」
「そして今、私たちには時間がない、と」
「そう。条件をまとめてしまうことができれば、それが一番いいの。でも、少なくとも、マレスとサンサールがタリム・マガンを抜きにして交渉のテーブルに着いている、ということを示す必要はある」
対等な立場でなければこのような交渉などできないが、対等を強調すればそもそもの交渉ができなくなる可能性がある。まずは相手を交渉のテーブルに着かせ、両者が交渉のテーブルに着いているということ自体を新たな手札として扱う。見解の違いはありつつも、それはアーヴェイルにとって納得できないような理路ではない。
「そのために、こちらももう一歩譲歩を、ということなのですね」
「そうね。できれば……あちらにとっては大きなものに感じられて、こちらにとってはあまり大きくない一歩を」
あまりに率直な言葉に、アーヴェイルは妻にして主の顔を顔を見つめる。その視線に気付いたアリアレインが、ついと顔を上げた。
「なあに、旦那様? わたしだって別に、好き好んで譲りたいわけじゃないのよ、あの男に」
※ ※ ※ ※ ※
「それでこれが、アリア、そなたたちが用意した条件、というわけか」
数日後。侯爵の執務室で、マレス侯爵ランドルフ・ハーゼンは言った。手許にはアリアレインとアーヴェイル、そして祐筆や書記官たちが取りまとめた、サンサール王国との交易再開に関する手控えがある。
「はい、お父様」
「中身はあの、執政府から引き抜いてきた書記官たちと詰めた、と」
「ええ。わたしと旦那様と彼らで」
「であれば」
ばさり、と手控えを机に置いて、ランドルフが応じる。
「儂から何を言う必要もあるまい。サンサールの国王陛下に宛てて親書をしたためればよいのかな? タリム・マガンへの対抗と、両国の産業の保護のため、として」
「はい。まずは予備交渉を。本格的な交渉は先々でも差支えないでしょうが、やり取りのできる枠組みを作らなければなりません」
ふむ、と頷いたランドルフが、さらさらとペンを走らせる。
「具体の条件についてはその手控えの案でよかろう。祐筆に清書させておいてくれ」
「はい、お父様」
本文をごく短時間で書き終えたランドルフが、署名しようとしてはたと手を止めた。羽ペンを置き、腕を組む。
「……お父様?」
「いや、どのような肩書で署名したものかと思ってな」
あ、とアリアレインが小さく声を上げた。
マレスは実質的に、サンサール王国から独立している。教会もそれを認めるように、マレスに教管区を立てて大司教を叙任した。だが、公式には、ランドルフはマレス国王としての戴冠をしていない。戦後処理があり、次の戦への備えがあり、そしてアリアレインの婚約と婚礼があった。
正式に戴冠するとなれば、教管区の大司教を通じて教会と文書を取り交わすのが通例だ。国王が教会の権威を認めて不干渉を約し、その上で教会は世俗の指導者として国王を認める。いまだマレスは、そのような取り交わしを行っていない。
しばらく考えたアリアレインが羽ペンを手に取り、白紙にいくつかの文言を記す。
「国王でないならば、こういう形ではいかがでしょう、お父様?」
言いながら、くるりと紙を回して父の手許へと滑らせた。記された肩書を見たランドルフの口許が緩む。
「なるほど、悪くない。これも我らの譲歩ということか?」
「そういうことにしておきましょう、お父様」
「どのようにも読め、どのようにも言える。都合のよいことだ」
笑みを浮かべた表情のまま、ランドルフは署名を終えた書面を紙挟みへと入れる。
「使者の手配はこちらでやっておく。教会にも助力を請わねばなるまい。アリア、そなたはタリム・マガンとの交渉の準備を進めておけ」
「かしこまりました、お父様」




