侯爵令嬢アリアレインの武略(4)
一旦根城を出た海賊船は、概ね5日から1週間ほどは戻らない。根城と猟場との往復は、稼げないという意味で無駄な時間になってしまう。だが、ずっと猟場に陣取るわけにもいかない。食糧や水の限界がそのあたりであることと、航海が長くなりすぎると乗組員たちの士気に問題が出ることがその理由だった。無論、例外もある――たとえば、根城を出て数日で、運よく獲物を捕まえた、というような場合がそれだ。
そのようなわけで、根城に戻ってくる「黒の斧」号を見た海賊仲間は、特段の違和感を覚えなかった。小さな島の小さな入り江に並んで停泊する2隻の船に、「黒の斧」号は船足を落としながら近づいてくる。
「早かったじゃねえか、大物でも狩ったのかぁ?」
片方の船のマストの上から、誰かが大声で呼びかける。返事はなく、かわりにいくつかの丸いものが、2隻の甲板に投げ込まれた。甲板に落ち、軽い衝撃音とともに割れたそれらは、蓋をされた素焼きの壺だった。割れた壺から、黒ずんだ液体が周囲にまき散らされる。独特の臭気が甲板上に広がった。
「油……?」
呟くように、誰かが言った。
「てめえら何を……!」
事態を把握しかけた誰かが怒鳴り声を上げる。同時に、「黒の斧」号の船尾楼から、ばらばらと弓手が飛び出してきた。弓には、火が点いた火矢がつがえられている。
「やっ、やめ……!」
無論、襲撃した側にやめる理由などどこにもない。放たれた火矢が油を撒き散らされた甲板に突き立つと同時に、激しい炎が上がった。
水や砂を掛けて火を消そうとした者が真っ先に狙われた。ボートを下ろそうとした者や弓を構えて反撃しようとした者はその次だった。燃える炎の中に、更にいくつもの壺が投じられ、火勢を増してゆく。そうなってしまえば、もはや火を消し止めることなど不可能だった。
半刻と経たないうちに、炎の塊と化した2隻の船は呆気なく沈んだ。焼け死んだ海賊の数はそう多くはなかったが、船のない海賊に何ができるものでもない。狼藉の限りを尽くした「黒の斧」号は悠然と帆を上げて島を後にした。
幾艘かの小舟と、途方に暮れた海賊たちだけが後に残された。
※ ※ ※ ※ ※
1週間ほどののち。別の島を根城にしていた海賊たちにも、同じような災厄が降りかかった。降りかかった、というのは正しくないかもしれない。それは海賊たち自身が招いた災厄であったから。
羊に化けた狼どころの話ではない。狼は獲物を嚙み殺すことはあっても、焼くことまではないのだから。
噂は――羊に化けた地獄の番犬がいる、という噂は、生き延びた海賊たちによって、マレス海域に広まった。それは明らかに海賊を狙っていて、その上、マレス海域を熟知している。事前に見分ける術はない。見た目は単なる中型商船で、襲ってみれば強烈な反撃を仕掛け、ご丁寧に船を奪って根城にいる仲間まで焼いてゆく。たまったものではない。
海賊たちにとって恐ろしいのは、手を出してみるまで、そこにいるのが羊か地獄の番犬かがわからない、ということだった。肥えた羊に見えるそれは、本当に羊なのかどうか。地獄の番犬は、何頭がこの海に放たれたのか。羊を狩れば大儲けができるが、地獄の番犬を引き当てれば死の危険がある。
――これは、割に合わない賭けなのではないか……?
――勝っているうちに、賭けをやめておくべきなのではないか……?
そう考えた幾人かの船長は、潮時と判断した。彼らにとって海賊稼業は生業であって、必要以上の危険に身を晒してまで続けるようなものではない。「美味しい仕事」の旨みがなくなってもなお同じことを続けるような義理などなかった。
そして、そのような気分と判断は、噂や情報の形で広がってゆく。
「あの船はもう引き揚げたらしい」
「これまでの儲けを持って帰ったとか」
無論、よい猟場を独占できるのだからもうしばらくは、と居残る船もある。マレス海域から、海賊が完全に消えたわけではない。しかし、過半は危険な海域として見切りをつけた。海と港は、半月ほどで平穏を取り戻した。
商人たちにとって、危険が完全に消え去ったわけではない。元来、遠く海を渡る交易船に危険はつきものと言える。海賊に襲われる、という危険もそのひとつ。つまるところ、数を大きく減じた海賊たちは、マレスの商人にとって許容しうる危険の範囲に落ち着いたのだった。
※ ※ ※ ※ ※
捕えられ、マレスに送られた「黒の斧」号の海賊たちは、港に着いてほどなく埠頭の広場に引き出された。彼らを待っていたのは、ならず者に相応しい罰が与えられるところを一目見ようと集まった群衆と、そしてマレスの次期女侯爵による刑の宣告である。
「マレスは交易によって豊かさを保ち、豊かさによって領内の平穏を保ち、領内の平穏によって領民たちの安寧を保っている」
海賊たちは、マレスの港、その埠頭に停泊した商船から下ろされ、埠頭の片隅の広場に引き据えられた。生き残った上級船員たちに、装飾を排した黒一色の服装で、アリアレインは向き合っている。黒一色の法服は、侯爵の名において裁きを行い、刑を宣告するときの伝統である。
「しかるにお前たちは、交易のための船を襲い、領民を害し、その財貨を奪った」
次期女侯爵として人前に出る際にその身を飾る宝飾品の数々も、今はない。結い上げた髪に差す髪飾りでさえ、銀製のごくごく簡素なものだ。
「お前たちの所業について、申し開きはあるか」
灰色の瞳を持つ切れ長の目が、海賊たちを見据える。誰も口を開かない。申し開きなどできるはずがなかった。兵を満載した船を、商船と誤認して襲った末に捕えられた者たちである。捕えられた経緯そのものが、彼らの所業の証明だった。
脂汗を額に浮かべたひとりが幾度か口を開こうと努力して、そのたびにアリアレインの視線に射すくめられ、口を閉じる。己の記憶する己の所業、言い訳のしようのない状況。小柄で華奢な体格でありながら、一切の情を拒絶するかのような峻厳な佇まい。誤魔化しも泣き落としも、効果がないどころか逆効果であるようにしか思えなかった。




