侯爵令嬢アリアレインの懸案(5)
午前中の執務を終え、夫婦ふたりで軽い昼食を摂り、一息入れたあとの午後のはじめ。
アリアレインの執務室を訪れたラドミール・ハシェックは、午前中に呼び出された祐筆たちと同じく文官ではあったが、祐筆ではない。基本的に侯爵家の事務と文書管理を担う祐筆たちとは別の組織を、父侯爵は立ち上げようとしている。
サンサール王国の執政府を模して作られるその組織に、まだ正式な名はついていない。誰からともなく『侯爵領政庁』と呼ばれるその組織は、侯爵公邸からやや離れた高台の一画に、執務のための建物から新たに作られることになっている。建築のための工事も始まってはいたが、今は侯爵家の別邸のひとつを仮住まいとしていた。
侯爵家の祐筆、あるいはアリアレインがサンサール王国の執政府から引き抜いてきた人材から、各分野の専門家を組織の上に据え、その専門性でもって侯爵領の政務を補佐するための機関、ということになる。
ラドミールは元々、サンサール王国執政府の農部省の官僚の出身だ。その知見を買われ、その立場に目を付けられて、アリアレインが王国への叛逆を決意した際に引き抜くことを決めた官僚のひとり。ラドミールはアリアレインの働きかけに応え、執政府の官僚たる地位を捨ててマレスへと赴いた。
以来数か月、マレスでの暮らしに馴染んだラドミールは、執政府に奉職していた頃のように、農政に関する知見を、今度はマレスのために活かす立場にいる。
「お母様のお加減はいかが?」
アリアレインがラドミールに母のことを尋ねるのは、ふたりが顔を合わせるときのお決まりのようなものだ。
「おかげさまで、元気にしております。ああ、先日訪れた折には、春が早い、と驚いていました」
竜翼半島と竜翼山脈を挟んで、北西側と南東側では大きく気候が変わる。ラドミールの母は、以前自身がそうしていたのと同じように、小さな港町での暮らしを望んだ。だが、海沿いの小さな街という点は同じでも、季節の移り変わりはまったくと言ってよいほどに異なる。
冬も気候は穏やかで、雪が降ることはほとんどない。春の訪れは早く、秋はもともと住んでいたあたりよりもずっと遅くまで続く。老いはじめた母には、むしろ暮らしやすい土地であるのかもしれなかった。
「顔を出せているのならば何よりね」
短くそう言ったアリアレインに、ラドミールはもう一度、おかげさまで、と頭を下げる。
「それで、本題ですが、お嬢様」
定番のやり取りを済ませ、机に置いた書類にラドミールがちらりと視線を向ける。
「ええ、聞かせていただきましょう」
「秋蒔き小麦の作況は、私の見る限り、悪くなさそうです。平年の細かい収穫の状況までは調べきれておりませんので、そこはご容赦いただきたいのですが、おそらく、平年よりもやや良い、というあたりかと」
「それは、実際に調べて、ということ?」
「はい。何か所かを選んで足を運びました。レダンの領内も含めて」
「レダンへ出向くと聞いたときには、すこし驚いたけれど」
「場合によっては、移送も考える必要がありますので」
ラドミールの言葉に、そうね、とアリアレインが頷く。王国に属していたときには『マレス侯爵領』と『レダン子爵領』であったから、境を接しているとはいえ、穀物蔵の様子までを把握する必要はなかったし、実際問題として把握することはできなかった。
だが、ともに王国から切り離されることを選んだ現状では、相互に物資や食糧を融通しなければならないような場合もあり得る。いざというときに素早く対応をしたいのならば、常日頃から情報を得ておく必要があるのだった。
ラドミールはそのようなことをアリアレインに提言し、アリアレインはそれを受け入れた。ラドミールの求めに応じて、レダンの領主、レダン子爵ルーラント・ストラウケンに事情を説明し、協力を求める書状を送っている。
「今のところ、移送の必要はなさそう、ということかしら?」
「はい。概ね各地で自給ができている状態です。余剰の分については、各々の地域で備蓄としておくのがよいかと」
「保管する場所はあるかしら?」
「直轄地には概ね倉庫が用意されています。従士や属領にも倉庫がある場所はそれなりに。ない場所については、捕虜の労役で伐り出した木材を利用して、新たに建築すべきかと」
「ありがとう。小麦についてはそれで問題なさそうね。豆はどう?」
マレスで広く行われている農作は、麦と豆の二毛作だ。温暖な気候と、そして必要なときに利用できる豊富な水源が、それを可能にしている。マレスがこれまで、王国内の他の地域へ食糧を運び出せる程度には余裕を持てる所以でもあった。
「今のところ、問題はなさそうです。こちらは、まず小麦の刈り入れが済んでから、ということになりますので、確言はできかねますが」
「羊はどう? 毛刈りの時季も近かったと思うのだけれど」
主食としての農作物と並んで、マレスで産する重要な品物が羊毛と、それを加工する毛糸、そしてそれを更に加工した毛織物だった。羊毛はその出発点として重要であり、マレスにこれまで大きな富をもたらしてきた産物だ。アリアレインが気にかけるのは、ある意味で当然のことと言える。
「羊の間での病の流行は、今のところ見受けられません。育ち方についても、特に成育が不良ということもありません」
「毛刈りの時期も例年通り?」
「はい。およそひと月後、小麦の収穫の半月ほど前からかと」
「こちらにも何か、問題はありそうかしら?」
「毛刈りや羊毛の生産については、特に問題はないと考えております」
ラドミールの言葉にアリアレインはほんのわずか考えて、ラドミールに視線を向ける。
「別のところに問題が出そう、ということ?」
「はい。閣下は羊毛や毛糸、毛織物の買い上げを行う、ということを計画しておいでです。それ自体は問題ないのですが、保管のための場所が」
「倉庫?」
「はい。今回はまあ良いとして、売り先を見つけて捌いてしまわないことには、いずれ保管ができなくなるかと」
倉庫そのものの数と大きさ、そして倉庫に入れることができる羊毛などの量を考えるのであれば、たしかに考えておかなければならないことではある。大商人たちにはある程度捌く当てがついているにしても、すべてを今までと同じように売ることはできない――そのような予測が立てられるのならば、そもそもランドルフやアリアレインがどのように事態に介入するかを考えなくて済むのだから。
「捌けるとしてどの程度かは……」
「そのあたりは、まだ何とも。商務の方で検討しているかとは」
やはり数年、とアリアレインは、事を起こす前の予測を反芻している。保管の手段にせよ財政的な限界にせよ、根本的な解決策を見つけ出せなければ、いま打っている手は破綻を先延ばしにする役にしか立たない。
「わかりました。ありがとう」
では、と立ち上がり、一礼して扉へと向かったラドミールが、足を止めて振り返る。
「オルディア書記官も今日、ご報告の予定があると聞いておりますが」
「ええ、このあとに」
「声をかけて参りましょうか?」
あら、と小さく笑って、アリアレインが頷いた。
「お気遣いありがとう。お願いするわ」




