侯爵令嬢アリアレインの懸案(4)
今度はアーヴェイルが気を落ち着けるのを待って、更に別の祐筆が呼ばれた。
「東方国境の警戒状況について、ですが――」
一礼し、打ち合わせのためのテーブルについた祐筆が、前置きなく説明を始める。
サンサール王国の一部であることをやめ、独立した小さな国となったマレスの東の隣には、そのマレスを手中にせんと幾度も攻め寄せて来た国、メルザードがある。離反と独立の報がメルザードに届いているであろうことは疑いようがない。そして、季節はもう春を迎えている。いつ次の侵攻があるかは知りようのないところではあるが、逆に言えばそれは、いつ侵攻があってもおかしくはない、ということでもある。
今のところまだ、侵攻の兆候はない。山を越えて、しかもマレスを制圧できるだけの規模でもって侵攻するとなれば綿密な準備が必要で、それには相応の時間がかかる。だが、冬の間にその準備が進んでいた可能性もあった。確実ではなくとも、備えは必要。その点で、ランドルフとアリアレインの見解は一致している。
では、どのように備えるか? 答えは単純で、そして地味なものだ。
国境を隔てる竜骨山脈の山中に築いた砦を改めて整備し、そこに従士を詰めさせる。間諜を送り込み、あるいはメルザードとの取引がある他国の商人から情報を集めて出方を探る。従士や兵にも、いつ侵攻があっても良いように準備をさせるため、召集と訓練を繰り返す。
目新しいところはない。目新しいことをする必要がないからだった。幾度もの侵攻によって対応は確立されており、何をどうすれば効率的に動くことができるかを、マレスは知っている。今回もそのようにすればよい。
マレスはこれまで、メルザードの侵攻を、ほぼ独力で撥ね退けてきている。山地を経由する狭い通廊を塞いで敵の足を止め、その上で背後を荒らす、というのがマレス側の取る基本的な戦術だ。
前線に食糧を届けるための馬車、情報や命令を届ける伝令、安全なはずの宿営地、物資を集積している村、侵攻全体を俯瞰して指揮を執る騎士や貴族。狙う相手には事欠かないし、山中であれば隠れる場所の選択肢も多い――少なくとも、行動を起こすまでの間は。ともあれ、危険は大きくとも、その危険を補って余りある成果を、後方攪乱を担う『影』たちは上げ続けてきた。
そのようにして、メルザードの侵攻軍が侵攻軍それ自体を維持できなくなるまで時を稼ぐ。機会は少ないものの、王都からの援軍も、必要とあらば期待はできた。
これまでのマレスにとって、だから、時間の経過は心強い味方だった。だが「王都からの援軍」などというものはもう来ない。そして、そのことはメルザードにも知れている。メルザードの撤退の判断も、その事実を織り込んだものになるはずだった。それはつまり、稼がなければいけない時間がより長くなる、ということに他ならない。
もちろん、アリアレインにも、そしてランドルフにも、成算はあった。独力で国境を守り切れるという成算があればこそ、アリアレインは王太子によって為された追放という処遇に対して叛逆を決断し、ランドルフはその決断を追認した。
問題は、西の竜翼山脈と東の竜骨山脈、その双方を固めなければいけない、という点だった。だが、これも冬の間に仮設の砦をアラス峠方面に築くことで解決を見ている。
ここまで、事態は概ねマレス側の企図したとおりに進んでいた。西も東も、山越えのための通廊は塞がれ、防備は固められ、そして西のサンサール王国に対しては、教会を通じた牽制と捕虜の解放交渉が有効に作用している。
東のメルザードに対しても従来と同じ対応をしておけば、大きな問題は生じない。課題は結局のところ、これも経済的なものだった。狭い通廊とはいえ、西と東の双方を固めるのであれば、経費も糧食も、東だけを固めればそれで事足りていたこれまでの倍が必要になる。予測の範囲に収まっているとはいえ「このまま続ければ、持つのはあと数年」という事実を、別方向から突きつけられる話でもあった。
「実戦を見据えた配備が続くとなると、訓練の不足も心配です」
従士隊の幹部上がりの祐筆は、報告書を手にそうこぼした。アリアレインとアーヴェイルは、ふたりしてそれに頷く。アリアレインはアーヴェイルから聞いて知った知識によって。アーヴェイルは実感をもって。
戦地や、実際の戦いは始まっておらずとも戦地になりうる前線へ出した状態では、充実した訓練は難しい。充実した訓練のためには従士や兵たちを、肉体的にも精神的にもある程度は追い込まなければならず、追い込んだ状態では前線での勤務には堪えられないからだった。
無論、前線に配置された部隊でも、訓練は行われる。だがそれはいざという時の対応を確認し、あるいは緊張感を維持するためのもので、個人や部隊としての力量を底上げするためのものではない。
「お父様は、どう考えておいでなのかしら?」
「抜本的には増員するほかない、と。ただ――」
「急な増員は難しいでしょうね」
アリアレインの質問に祐筆が応じ、その先をアーヴェイルが引き取った。失礼、と目礼で祐筆に詫びる。従士隊の幹部上がり、ということはつまり、アーヴェイルの元上役、ということでもある。急に変化した立場ゆえ、互いが対応に困る場面というのはあるのだった。
「まさに。よくご存じのところでしょうが」
いやいや、と小さく笑みを浮かべた祐筆が応じる。
「そのようなわけで、弥縫策としては、常備の兵や衛士からいくらかを従士に引き上げる方針です。衛士へは人を募って補充を。兵についても、動員兵からいくらかを常備兵に回す予定でおります」
「わかりました。アーヴェイル、何かある?」
「ありません、アリア様。現実的には最良の対応かと」
従士を増やすにせよ、一から訓練を施すのは現実的ではない。既に武具の扱いに馴染んでいる者を従士に取り立てるのが上策。そうであれば、候補は実際に国境の防備を担う兵か、あるいはマレスの街の巡察を担う衛士になる。
「侯爵閣下が懸念しておられるのが、絶対的な人手の不足です」
そうでしょうね、とアリアレインが頷く。
兵や衛士を従士に取り立てたとして、引き抜かれた兵や衛士の補充をどうするか、という問題はどうしてもついて回る。マレスの都市部で仕事を求める者もいるにはいるが、兵や衛士の主たる供給元は、時代に関わらず農村だ――そこに済む人口が最も多いのだから、どうしてもそうなる。そして、マレスの農村には、さほど大きな人的余裕がない。かき集めれば集められなくはない。だが、短期間ならいざ知らず、それが長期にわたったり、あるいは制度化して恒久的に、ということになれば、出した人手の分だけ農村の生産能力は低下する。
現状、マレスにおいて、職を求める人と人を求める職はそれなりに均衡していて、そのことが領内の安定と大きな生産力に繋がっている。この均衡が崩れるようなことになれば、それはどうしても生産力の、つまりは経済力の減衰か、領内の安定か、あるいはその両方を崩すことになる。
「当面は、退役したひとたちに穴を埋めてもらうしかなさそうね」
「はい。侯爵閣下も、当面はそのようにするほかない、と」
第一線で活動する兵をそのように補充することは難しくとも、衛士なり、あるいは予備戦力としての兵であればどうか、ということは、父侯爵ランドルフも考えているところだった。
「であれば、わたしから口を挟むべきことはありません」
アリアレインが頷いて応じる。
「お父様によろしく伝えておいて」
手早く報告書を片付けて立ち上がった祐筆が、一礼して退出した。




