侯爵令嬢アリアレインの懸案(2)
「街の様子は、どうなのかしら?」
ランドルフの部下たちがまとめた報告書を読み終えたアリアレインが尋ねる。
「大きな変わりはありません、お嬢様」
報告書を持ち込んだ若い祐筆が応じて、隣に座る若い従士を促した。歳の頃で言えばまだ15、正式に従士として任命されて間がない。次期女侯爵への報告に同席させられて、少なからず緊張した様子だった。
「私にも、大きく変わったようには――」
「ありがとう。あまり硬くならないでね? わたしは、街の様子を知りたいだけなの。ほら、報告書からでは、大まかなことは掴めても、街の人たちの暮らしや噂話を直接知ることはできないでしょう?」
そうは言われても、何をどう話したものか、と迷う従士に、アーヴェイルが話しかける。
「アリア様のお話は、言葉の通りに受け取ってくれて差支えないよ。私もたまに訊かれたからね、もう2年以上は前のことになるが」
「――は」
若い従士も、アーヴェイルが元々侯爵家の従士であり、王都名代としてのアリアレインの護衛兼補佐役であった、ということを、知識として知ってはいる。だが、目の前で次期女侯爵の隣に座り、彼女を愛称で呼んでいる相手は、任じられたばかりの従士にとっては雲の上の人物としか思えなかった。
「例えば……そうだな、君、非番の日には街に出るだろう。最近の非番はどうだった? やはり街へ?」
「ええ、はい。街へ」
「昼食はどうした? どこか店へ入るなり、何か買って食べるなりしただろう?」
「ああ、はい――ええ、蒸しパンを。あの、肉や香草を刻んで炒めて、」
「――ああ」
アーヴェイルが小さく笑う。
「美味しいですものね、あれ」
「お嬢様も食べ……召し上がられたことが?」
笑みを浮かべたアリアレインが割って入り、従士が驚いたような声を上げた。
「お忍びでね。もうだいぶ前のことだが。まあ、つまり、アリア様はそういう話を聞きたいわけだ。値はどうだった?」
「はい、以前と変わらず」
「あれひとつでは足りないだろう?」
「白身魚の衣揚げと、芋の素揚げを」
「値段や味、ものの大きさは?」
「あれも、たしか以前と変わっていなかったと思います」
「あれは食べられなかったのよね」
もう一度口を挟んだアリアレインに、従士はもう驚かなかった。
「……手に入れて参りましょうか?」
おい、と叱るような声を出した祐筆に、アリアレインがゆるゆると首を振る。
「気持ちだけ貰っておくわ。揚げたてが一番、と聞くから。でもね、それは本題じゃないの。領民が普段買って食べるものの値段が急に上がったりしていないか、街の様子に何か変わったことはないか。わたしも旦那様も、もう街でそういうことを直接には確かめられないのよね」
それはふたりの姿が、少なくともマレスの街では広く知られたからであり、警護の問題を脇に置いて考えられないからでもある。警護なしに次期女侯爵に街を歩かせるわけにいかないし、大々的な警護を伴うならばそれはもう『お忍び』ではない。
「だから、あなたのようなひとに聞かせてほしいのよ。小さなことでいいし、わたしが喜びそうなことでなくてもいいの。むしろ、わたしや父上の悪い噂があれば拾ってきてほしいくらい」
「はい」
「ああ、でも、噂話は積極的に集めようとしなくていいわ。あなたの耳に入ったものだけ」
「――はい」
一通りの話を済ませて退出する祐筆と従士を見送り、アリアレインは椅子から立ち上がる。
「本当は、自分で出られれば、それが一番いいのだけれども」
「仕方ありません。アリア様は、大事なお身体なのですから」
けっして自分の言葉を正面から否定しないアーヴェイルに、アリアレインが口を尖らせてみせる。
「旦那様も、自由に街歩きをしてみたいとか思わないわけ?」
「――まあ、たしかに、そう思うことは、ないでもありませんが」
ほらね、と返そうとしたアリアレインに被せるように、アーヴェイルが言葉を続ける。
「何の遠慮もなくアリア様の手を取れる方が、今の私には重要です」
言いながら言葉のとおりに手を取って、執務机の椅子を引く。頬と耳を朱に染めたアリアレインは、すとんともとの執務机についた。
「――旦那様のせいよ」
「はい?」
「次の報告を受けるのが、少し遅れてしまうじゃない」
※ ※ ※ ※ ※
アリアレインが落ち着くと、別の祐筆が呼ばれて別の報告を始めた。
「捕虜については、前回の報告から大きな変化はありません。ああ、捕虜の第一便はもうコルジアの港に着き、戻りの船もマレスに入港しておりますので……」
「ええ、わたしもそれは聞いています」
さきの戦乱――アリアレインの婚約解消と追放、そしてマレス侯爵の離反によって生じた内乱は、討伐に出向いたサンサール王国軍の先遣隊のほぼ総員が、マレス側によって捕虜にされるという形で幕を閉じている。その中には、近衛騎士団の重鎮や王国の有力貴族の係累も数多い。
捕虜たちは、言ってみれば、マレスの安全を保障する人質だった。交渉と身代金による解放が前提であるから、粗略に扱うことはできない。とは言え、贅沢をさせるわけにも、無為に食糧だけを与えておくというわけにもいかない。結局、領内の山あい、開拓が計画されている何か所かに分けて捕虜たちを仮住まいさせ、樹木の伐採や開墾に従事させる、という形で処遇している。
海が荒れがちな冬が終わり、そういった労役に耐え得ないと判断された者から、捕虜は船に乗せられ、サンサール王都の外港、コルジアへ向けて送り出されていた。船は無事、コルジアとの間を往復し、ちょうど昨日、マレスの港に戻ってきている。
「エイリーク王太子……いや、もう即位されましたから、エイリーク王ですな。そのエイリーク王から、先遣隊長と捕虜たちに宛てた親書が。これは大司教猊下を通じて、ですが」
「……捕虜たちに?」
マレスと旧宗主たるサンサール王国の間に、外交と言えるような関係はない。サンサール王国にとってマレスは、離反した貴族領であって対等な外交関係を結べる国ではないからだった。外交関係を樹立したとすれば、それは相手を対等な国として認めたことと同義だ。そのようなことは、王室の権威や体面から考えても、できるはずのないことと言ってよい。
だから、大司教を――つまり、教会を通じてのやり取りになること自体は何ら不思議なことではない。現に、捕虜の解放交渉も、教会を通じて行われている。国と国という形ではなく、同じ神を奉じ、同じ教会の下に集う信徒と信徒、という形で。世俗と切り離された権威である教会は、そのような場合の方便として使われることを厭わない。むしろ、そのような建前に使われてこそ、と考えている節さえある。
アリアレインにとっての驚きはむしろ、王が王の名で、捕虜への親書を出した、という点にあった。
「はい。どちらも封はされておりませんでした。――ご覧になりますか?」
「見せてもらえるかしら?」




