侯爵令嬢アリアレインの懸案(1)
マレス侯爵領はこれまで、サンサール王国の『東の防壁』としての地位を保ってきた。それはマレスがサンサール王国の領域に組み込まれてから、一貫してそうあるべしと定められた立場でもある。
気候は温暖で、豊富な水源と豊かな実りをもたらす平野を持ち、良港を備え、そうでありながら周囲を山地に囲まれた地勢。攻めるに難く、守るに易い。だからこそサンサール王国は、この地の主に侯爵の地位を与え、ときには縁戚としての関係を結ぶことで、マレスを己の領域の中に留めようとしてきた。そして同様に東の王国メルザードは、マレスを手中に回収すべく幾度もの戦を仕掛けてきた。
そのマレスがサンサール王国の配下から脱け出した。その事実は周囲の国々を揺り動かさずにおくことなどあろうはずがない。無論、マレス侯爵領それ自体も、動揺のさなかにある。
マレスは豊かな土地であり、マレス侯爵家もまた大きな経済力を持つ。そうでなければ、執政府に人手を送り、あるいは王国の情報伝達手段である公用使制度の一端を担うことなどできはしない。精強を謳われるマレス騎士隊と従士隊を抱え、鍛え、養うことも、並大抵の負担ではない。そのような必要からそうなっている、という側面もあるが、現実問題としてそれらを可能ならしめているのはマレスの経済的繁栄に他ならない。
では、マレスの繁栄の淵源はどこにあるか? それは、豊富な産品を持ち、それを売り捌く手段と売り捌く先をも持つことにある。独立直後のマレスが直面した困難の大部分の原因もまた、この点にあった。
豊富な産品は、以前と変わらない。
羊毛と毛織物、山地から伐り出される木材、丘陵地を利用して作られるブドウやオリーブ、そこから生み出されるワインやオイル。武具を中心とする鉄製品やガラスなども、産品に数えられる。
売り捌く手段も健在だ。
マレス商人たちは、様々な大きさの船でもって海を駆け巡ることができる。彼らに資金を供給する金融や、商売道具としての船を提供する造船の技術も、衰えを見せていない。
問題は売り先だった。
マレスがその産品の供給先としていた王都とは、当然ながら関係が断絶している。必要最低限の外交のための糸口までが途切れたわけではない。だがそれは、もっぱら捕虜の交換と休戦状態の継続のためのものでしかない。以前のような活発な行き来がすぐにできるか、と問われれば、そのような状況に至っているとは決して言えない状態にある。
産品を産する農民や職人たちも、そしてそれらを扱う商人たちも、売り先がなければ金を手にすることはできない。
早々に対策は打たれ、そして続けられている。
商人の一部は、他国を迂回する形で、王都へ荷を運び続けている。他国で捌く商品を増やす努力も払われている。
だが、他国を迂回すればそれだけ手間と時間がかかることになる。当然、売値は高価にせざるを得ない。すべてを売値に乗せられないのであれば、その差分は商人の取り分から減らさなければならない。
他国で捌く商品を増やすことについても同様だった。それらは、今その国で現に流通している商品に割り込まねばならないということになる。無論、それには大きな手間と長い時間がかかる。ゆくゆくは、という点で見通しは立てられても、今すぐに効果が出せるような話ではない。
より大きく、そして本質的な問題は、全ての商人がそれらの手段を講じられるわけではない、という点にあった。ごく一部の大店にしか為せない対策では、大部分を占める中小の商人を救うことができない。単純に淘汰の機会、と見ることもできなかった。大商人の動向はたしかに重要なところではあるが、実際に産品の大きな部分を市場から吸い上げて金を供給しているのは、中小の商人たちに他ならない。彼らが取引を畳まざるを得ない状況に陥れば、関係のある産業のすべてが影響を受ける。
例えば、毛織物を扱う商人であれば、羊を飼う農民、羊毛を扱う商人、羊毛を糸に、そして毛織物にする職人。間接的に関わる者たちまで含めれば、船員や船大工、船へ供給されるあれこれを扱う商人やそれを作り出す職人。
複雑に組み合わされた木組みの中から、他を傷つけずにひとつの木材だけを抜き去ることは、控えめに言っても極めて難しい。木組み全体を壊したくないのならば、たとえ小さく見えようとも、ひとつひとつの木材を丁寧に扱うしかないのだった。
その点において、当代の侯爵ランドルフと、次期女侯爵アリアレインの意見は一致している。
ランドルフは独立の直後から、そのための算段を立て始めていた。自活が難しい商人や職人に対しては、その扱う品を一定の価格で侯爵家が買い上げ、販路のある大商人に卸す、ということを計画している。
商人や農民、職人たちは、従来ほどではないものの一息つけるだけの収入を得ることができ、侯爵家は領内の不満や不安をある程度取り除くことができる。当然、それには先立つものが必要だ。大商人に卸す額は買い上げた金額よりも安価にならざるを得なかったし、大商人たちも全てを捌ききれるわけではないから、侯爵家自体が保管しておかなければならないものも少なくはない。
原資は侯爵家の財産と、そして捕虜としたサンサール王国の兵や騎士、貴族たちの『保護料』――平たく言えば身代金だった。それらも無限に湧いて出てくるものではないから、結局のところ、ランドルフが打った手は状況の先延ばしでしかない、とも言える。
資金が尽きる前に状況を改善させることができなければ、待っているのは侯爵領の経済的な破綻――マレスの繁栄の淵源の破綻に他ならない。それは侯爵領そのものの破綻に直結している。
叛逆を決意した当時のアリアレインにも、一定の目算はあった。数年は持つだろう、という程度の。それは概ね正しい。いくらかの幅はありつつ、たしかに数年は破綻しないだけの基盤が、マレスにはある。だがそれは、打開策がないままに過ごせば、マレスの命運が数年で尽きる、ということでもあった。




