侯爵令嬢アリアレインの日常
部屋の明るさと春の風の匂いが、アリアレイン・ハーゼンの意識を眠りから引き起こした。
一緒に床に就いたはずの夫は隣にはいない。うっすらとしたぬくもりだけが、そこに残っている。
目を閉じたまま息をつくと、掛けられた羽根布団から、夫の残した香りがかすかに感じられた。そのままもう一度眠りに落ちたくなる誘惑をこらえて目を開け、ベッドの上で身体を起こす。窓際、厚手のカーテンを半分ほど開けた夫が振り返った。
「アリア様」
「一緒に起こして、って言ったのに、旦那様」
恨み言には甘すぎる口調で、アリアレインが抗議する。
「よくおやすみでしたので。お疲れでしょう?」
気にした風もなく、夫であるアーヴェイル・メイロス=ハーゼンが応じた。アリアレインの言葉を抗議と捉えた態度ではない。そういう甘え方をされている、と理解した風情だった。
婚約してからでもまだ半年に満たず、結婚してからはひと月も経ってはいない。アリアレインは父であるマレス侯爵の王都における名代で、アーヴェイルはその護衛を兼ねた補佐役だった。主従としてのふたりの関係は、4年以上前から続いている。
前の年の秋の終わり頃、アリアレインは当時の婚約者であった王太子から婚約の解消と追放を宣告された。それをきっかけに、アリアレインとマレス侯爵は王国からの独立を選択する。誅伐に出向いてきた王国の軍を持ち前の知略で敗北させ、マレスは王国から実質的に独立した。
その一連の動乱のさなかにアーヴェイルはアリアレインを守って左手を失い、アリアレインはそんなアーヴェイルを自らの伴侶に定めた。アーヴェイルの言葉遣いにも態度にも、主従だった頃のそれらの名残はまだ色濃い。そして、アリアレインの甘えと我が儘を許し、アリアレインを支えようとする姿勢は、次期女侯爵とその夫という関係になったあとも変わっていない。
――だからこそわたしは、安心してあの腕に抱かれて眠ることができる。
そう考えながら、アリアレインは、夜着の上からガウンを羽織った。共布のサッシュベルトで、腰のあたりを緩く留める。
ベッドの傍のテーブルには、水差しとグラスがふたつ置かれていた。片方のグラスには水がわずかに残り、もう片方のグラスには水が満たされている。アーヴェイルが注いでおいてくれたであろうそれを、アリアレインは幾口かに分けてゆっくりと飲んだ。
「そうね、疲れているのは、旦那様の言うとおり。でも旦那様、わたしだけ気を遣ってもらうのは、良くないと思うのよ」
そう言ってベッドから下りたアリアレインが、ふたりの寝室の窓際に立つアーヴェイルの隣へと歩み寄る。
「ええ、ですから、そろそろお目覚めいただこうかと」
アーヴェイルが、にこりと笑みを浮かべて応じた。そのためにカーテンを開け、窓を開けた、と言外に伝えている。かなわないわね、と笑ったアリアレインが、するりとアーヴェイルの腕の中に入り込み、少しだけ背伸び気味に、目を閉じておとがいを反らす。唇に、柔らかいものが触れた。
「さあ、アリア様」
見下ろす夫の表情は、逆光の中でよく見えない。だがアリアレインは、夫の表情をおおよそ確信していた。その表情を、自分が独占している、ということも。
「そろそろ侍女が参ります。身支度を整えていただかなければ」
言葉だけ聞けば、それは事務的なものに過ぎない。だからアリアレインにとっては言葉そのものよりも、その言葉を乗せた声の響きの方が重要だった。自分にしか向けられることのない、低く囁くような、優しい声。
入り込んだときと同じように、するりとアリアレインがアーヴェイルの腕から脱け出す。
「それじゃあ、旦那様、あとで食堂でね」
「はい。四半刻後に」
いつものように言葉を交わして身体を離したふたりの耳に、いつものノックの音が響く。アリアレインの身支度を整えに来た侍女に違いなかった。では、と頷いたアーヴェイルが扉を開ける。
ごく個人的なふたりの時間が終わり、次期女侯爵とその夫としてのふたりの時間が始まった――いつものように。
※ ※ ※ ※ ※
当代のマレス侯爵ランドルフ・ハーゼンとその妻ローゼクローネ、それに次期女侯爵アリアレインとその夫のアーヴェイル。特に事情のない限り、朝晩はその4人が揃って食事を摂るのがマレス侯爵家の習わしになっている。
その食卓にも、最初の頃は、多少のぎこちなさがあった。アーヴェイルはもともと侯爵家の従士で、侯爵家の面々と常日頃から食卓を共にするような間柄ではなかった。相応の理由があったとはいえ、本来は許されるはずのない関係だったのだ。
しかしアリアレインは自らアーヴェイルを選び、ランドルフとローゼクローネもそれを受け入れた。当代の侯爵夫妻は従士としてのアーヴェイルを信頼していて、だからこそ護衛を兼ねた補佐役という立場に就かせていたのだ。ランドルフにしてみれば、信頼していた部下が娘の夫に、つまりは義理の息子になってしまったのだから、いくらかのぎこちなさやよそよそしさがあったとしても、やむを得ないところではある。
だが、関係が変わったとしても、侯爵夫妻の信頼が揺らぐことはなかった。アーヴェイルは義理の父と母に対して、控えめで節度を保った接し方に終始している。アリアレインは夫になった元従士に、以前よりもずっと積極的に甘えるようになってはいるものの、それはある意味で年相応の態度とも言えた。
結局のところ、そのようになってみれば、収まるべきものが収まるべきところに収まった、というような安心感が、侯爵夫妻にはある。婚約からの数か月を経て、皆が新たな関係に馴染んだとも言えるかもしれない。
ともかく、ランドルフもローゼクローネも、若い夫婦の仲を心配するようなことは一切なかった。アーヴェイルはともかくとして、アリアレインの態度を見れば、ふたりの間がこれ以上なくうまくいっている、ということは傍目にも明らかなのだから。
※ ※ ※ ※ ※
食事を済ませ、それぞれが執務のための支度を整えると、アリアレインは自分のために用意された執務室へと向かう。王都でもよくそうしていたように、アーヴェイルが執務室の扉を開け、アリアレインを通して、扉を閉める。
アリアレインの執務室は、王都でのそれのように、広い書斎を使っているわけではない。場所は、専任として付けられた祐筆たちが仕事をする部屋の更に奥。地位に相応しい広さではあるが、調度はいささか簡素なものでしかない。ふたつの執務机と、そして簡単な打ち合わせをするためのテーブルと椅子、壁には作り付けの棚。執務に最低限必要なものだけに絞られ、豪奢さとは無縁なものにさえ見える。
いつものようにアーヴェイルがアリアレインのために椅子を引き、アリアレインが慣れた様子で引かれた椅子に腰を下ろす。アーヴェイル自身も席に着いたことを確かめるようにちらりと視線を投げて、アリアレインは硬い響きのよく通る声で尋ねる。
「旦那様、今日の予定は?」
「閣下から、定例の情報共有が。交易関係、捕虜の扱いに関することでいくつか、それと東方国境の警戒体制について」
アーヴェイルが手控えを繰りながら短く応じる。
「午前中はそれね。午後はどう?」
「ハシェック書記官とオルディア書記官から、それぞれご報告の予定があります。ハシェック書記官からは秋小麦の作柄その他について。オルディア書記官からは――」
「例の件ね」
ため息のように、アリアレインが言葉を吐き出す。他の部下たち――マレス侯爵家の祐筆たちや王国の執政府から引き抜いてきた書記官や事務官たち、そして外敵に相対する従士たちにはほとんど見せることのない態度だった。
「――仰るとおりです、アリア様。かわりに私が聞いておきますか?」
アーヴェイルの提案に、アリアレインは、いいえ、と首を振った。
「きっとあまり聞きたくないお話だと思うの。だけど、だからこそわたし自身が聞かなければ」
アーヴェイルにとっては、アリアレインが己の主人であった頃から変わらない、アリアレインらしいと思える言葉だった。
「わかりました、アリア様。では、予定通りに」
「お願いするわ」
答えたアリアレインがひとつ息をついて、己の表情から甘さを吹き消す。それを確かめたアーヴェイルが、アリアレインと目を合わせて頷き、手許に置いた呼び鈴で、外に控えている祐筆を呼んだ。部屋の扉がノックされ、アーヴェイルが入室の許可を与え、書類を抱えた祐筆が部屋に入ってくる。そのようにして、いつものように、ふたりの――次期女侯爵とその夫の、執務の時間が始まった。




