「ただいま」
「井坂文弥」
彼がそう名乗った時、ぼくは雷に打たれたような強い衝撃を受けた。
それでいて、不思議で仕方がなかった。
今の今まで、その存在を知らないに等しいくらい完全に忘れ去っていたのに、名前を聞いて目の前の彼を見た途端、何十年、何百年も前からそこに立っていたかのような存在感があった。
そして、ぼくはこの感覚を既に知っている。
ぼくの前に突然現れ、七海さんを紹介して去って行った男。
そして、何故か今の今まで忘れていた男だ。
「井坂文弥……? あれ、小学生じゃなかったっけ?」
「ありゃあコスプレみたいなもんだ。男子高校生が小学校に居たら変だろ」
ならば、男子高校生が小学校の昇降口に立っている今の状況は?
「さ、こんなところで突っ立ってるのも何だし、歩きながら話そうじゃないか」
そういうと、井坂文弥は身体を起こして歩き出した。方向が同じ、というか向こうがぼくの帰る方向に合わせているので、ついて行く形になる。
「アンタは何者なんだ?」
ぼくは兼ねてからの疑問をぶつける。
記憶が現れたり消えたり、紹介された七海さんから敵視されたり、人払いをしたり。
常人のできることじゃない。
「俺が何者かなんてお前にはどうでも良い。お前が俺を忘れていた間にも、お前は何の害もなく生きていけただろう。故にどうでも良いのさ」
ぼくが知らなくても良いことと、割り切るには、あまりに気になってしまうのだが。
「この場において肝要なのは、俺がこうして直々にお前を労いに来たこと。そして、お前の役割の終わりだ」
「役割の、終わり……?」
ほんの世間話のような調子で、妙なことを言い始めた。
「そう。雲居夕霧。お前の役割は寺井晴輝がやり残した雲居香純の救いを果たすこと。アイツだけだと前を向かせるだけで中途半端だったからな。まあ自分のこともあってそこまで余裕がなかったのはしょうがねえけどよ」
言葉を聞き取れても、その意味がわからない。
「だから、俺が設定の中に埋もれていた義弟のお前にスポットライトを当てて物語に仕立て上げたのさ。ただの帳尻合わせだから物語としての質は期待していなかったが、それも併せてお前は本当に良くやってくれたよ。労う前に礼を言わなければならなかったな。ありがとよ」
この男はさっきから自分の都合でしか話していない。そして、ぼくはそれに逆らうこともできないようだ。
「話も思ったより間延びせずに済んだしな。雲居香純が家族を得たところで今回のエピソードはおしまい。お前の役目もここまでだ、雲居夕霧」
そう言い切ると、ちょうどぼくたちはぼくの家の前まで着いた。
「それじゃ、俺はこれで失礼するよ。お前はこのまま帰ると良い。自分の家にーー物語の外に」
そう言い残すと、井坂文弥は変わらない歩調で去って行った。
「待て!」と呼び止めようとしたところで、ぼくは何故歩き去る男を呼び止めようとしたのかがわからなくなった。
いや、そもそもあの男は誰なんだ。
ぼくは今日家までどうやって帰ったのだろう。誰かと一緒にここまで来たような気がするのだけれど、どうしても思い出せない。
首を傾げながらも、ぼくは帰るべく玄関の扉を開けた。
「ただいま」
そして、扉は閉じられる。
✳︎
「晴輝先輩に会ってもらいたいのは、私の弟です」
雲居香純ちゃんは照れ臭そうにそう言った。
僕こと寺井晴輝はようやくここに来て香純ちゃんに呼び出された理由がわかったのだった。
僕は記憶の中の男子小学生の姿を思い浮かべる。
直接の血の繋がりはなくても、目元が香純ちゃんに似ていて、利発そうな男の子。
何度か会って、あまり彼の助けになるようなことはできなかったけれど、香純ちゃんから会って欲しいと言われた意味を考えると。
彼はやり切ったのだと嬉しくなる。
「もうすぐ着きますよ。……ん? 家で待っていてくれて良いと言ったのに」
香純ちゃんがそう呟くので、その前方を見ると、一軒家の前で小学生くらいの男の子がこちらに向かって手を振っている。
僕たちは彼の元まで駆け寄って、香純ちゃんが男の子の隣に並び立つ。
「晴輝先輩、紹介します。この子が……」
香純ちゃんが言いかけたところで、僕は手で制した。
訝しげな表情を浮かべる香純ちゃんから、男の子の方へと視線を移す。
香純ちゃんには悪いけど、僕から積極的にこの子に声をかけたくなったからだ。
「よく頑張ったね、夕霧くん」
「ありがとうございました、晴輝さん」
困惑して僕たちを交互に見る香純ちゃんをよそに、僕と夕霧くんは握手を交わした。
物語を終えてきたその手は思っていたよりも大きく力強かった。
サードシーズンは今回で完結です。ようやくセカンドシーズンのエピローグ部分まで辿り着くことができました。
次回からはフォースシーズン〜ドキドキ修学旅行編(仮)〜をお送りします。
ここまでご愛読ありがとうございました。
今後もよろしくお願いします。




