「お前を労いに来たんだぜ」
翌朝。布団の温かさと微睡みへの誘惑から、ぼくはベッドから出られずに居た。朝のあと五分はとても貴重だ。でも、頭の中で何かと言い訳を繕って、あとちょっとあとちょっとと粘っている。
そうしてアラームを止めてからもしばらく起き上がらずにいると、扉をノックする音が聞こえた。
誰だろう。母さんは朝の支度で忙しいから、ぼくを起こしに部屋までわざわざ来ることはない。
ぼくが返事をしないでいると、扉が静かに開かれた。そこに居たのは、
「夕霧くん、そろそろ起きな。ご飯はもうできてるよ」
「姉さん⁉︎」
起きた。というか跳ね起きた。
「おはよう、夕霧くん。そこまで勢いよく起きなくても良いんだが」
「おはよう、姉さん。まさか姉さんが起こしに来てくれるとは思わなくて」
「葵さんから頼まれたからね。早く着替えておいで」
そう言うと、姉さんはさっさと部屋から出て行った。
本当に驚いた。今までぼくが姉さんに挨拶しに行くことはあっても、姉さんから挨拶をされるどころか起こしに来てくれるなんてことはなかったからだ。
動揺しながらも、ぼくは姉さんに言われた通り、急いで着替えて一階に降りた。
そして、ぼくはダイニングでも驚きの光景を目の当たりにする。
「おはよう」
と、朝食の支度をしながら挨拶をしてくれる母さんはいつも通り。
ダイニングから見える洗面所で髭を剃っている父さんもいつも通り。
だけど、ダイニングテーブルでブラックコーヒーを飲む姉さんを見たのは初めてだ。
「おはよう」
ぼくが座ると、母さんがパンとサラダとカフェオレを出してくれた。
姉さんと一緒に食べる朝ごはん。嬉しい光景だけれど、戸惑いと驚きが大きい。
昨夜もそうだったけれど、姉さんがものを食べたり飲んだりする光景をあまり見ないので、つい姉さんの方を見てしまう。
片手でパンを齧り時折コーヒーを飲みながら、もう片手で新聞を開いて読んでいる。捲るペースが早く、本当に読めているのかが疑問だけど、姉さんなら全て頭に入っていそうな気がする。
おっと、ぼーっとしている訳にはいかない。朝はあまり時間がないから。
ぼくはごはんを食べ終わり、一通りの支度を手早く終えると、ちょうど家を出る時間になった。
ランドセルを手に取って玄関に向かうと、姉さんが居た。いつもならぼくが支度をしている間に、もう家を出てしまっているのに。
「夕霧くん、途中まで一緒に行く?」
「うん、行く!」
是非もない。姉さんと登校できる日が来るなんて。
今朝だけでぼくは何回感動すれば良いんだ。
二人揃って「行ってきます」と母さんに声をかけてから、ぼくたちは家を出た。
家の裏の橋の方まで歩いて行くと、いつもの集合場所にユカリちゃんが居た。彼女もぼくの姿を見つけたようで、大きく手を振ってくれる。
ふわふわな髪のショートカットに花の髪留め、クリッとした目に形の良い唇が開いている。
が、ぼくの隣に居る姉さんの姿を見て、ユカリちゃんはギョッとしたような表情を浮かべた。
「ユカリちゃん、おーはよ」
「ユーギリくん、おーはよ。……あと、お姉さんも」
「おはよう、君が柏木紫ちゃんだね。この前、家の前で会ったけれど、改めて初めまして」
姉さんはユカリちゃんに余裕のある様子で笑いかける。
「夕霧くんから話は聞いているよ。直接顔を合わせた機会はかなり少ないけれど、私、実は君のことをかなり尊敬しているんだ」
「え、尊敬、ですか?」
歩き始めながらも、動揺しつつ訊き返すユカリちゃん。
「君が善は急げとばかりに夕霧くんに告白したおかげで、不毛なラブコメを繰り広げずに済んだんだ。羨ましいくらいまっすぐだよ」
姉さんはぼくの頭に手を置いて、
「これからも夕霧くんをよろしくね」
ニッコリと笑いかけられたユカリちゃんは、それに負けないくらいに弾んだ笑顔を浮かべた。
「はい!」
これは姉さんの公認を得た、ということなのかな。
道中で姉さんと別れ、ぼくたちは学校に着いた。ユカリちゃんとも教室の前で別れて、午前中の授業を受ける。
昼休みになって、ぼくは五年二組の教室に向かった。上級生の教室に行くのはやっぱり抵抗感があるけれど、事前に連絡しておいたので少しはマシだ。
教室の入り口まで来ると、
「こんにちは、夕霧くん。わざわざ来てくれてありがとうございます」
「こんにちは、七海さん。こちらこそ時間をいただきありがとうございます」
気がついた七海さんの方からぼくのところまで来てくれた。
水川七海さん。水川財閥のご令嬢にして、世に出せないほどのものを続々と開発する発明家の一面を併せ持つ上級生だ。
先日、姉さんに関わることでお世話になってから、何故か気に入ってもらえて上級生ながらもたまに交流するようになった。
お世話になった七海さんには姉さんのことについて報告しておかなければならないと思って、こうして会って話す約束を取り付けたのだ。
「こうしてノリノリで話しに来るあたり、良い話が聞けそうですね。ちょっと場所を移動しましょうか」
「はい」
七海さんに連れられて、さらに上の階に移動した。ここは音楽室や図工室があり、学級の教室がないためひと気が少ない。
昼休みにボール遊びなどで賑わうグラウンドを見下ろしながら、ぼくは昨日の事の顛末を七海さんに話した。小気味好く相槌を打ちながら聞いていた七海さんは、
「本当におめでとう。良く頑張りましたね」
七海さんは微笑みながらぼくの頭を撫でる。
いや、姉さんならまだしも上級生から頭を撫でられるのは流石に恥ずかしいのだけれど。
「ぶっちゃけ香純おねーさんの境遇が不幸過ぎてドン引きレベルでしたけれどね」
「七海さん、それはぶっちゃけ過ぎです」
「でも、本当に良かった。夕霧くんのここ数日の頑張りが報われて」
「頑張るというほど、ぼくは何もできてませんよ」
「いいえ。無事に大団円を迎えられたのは、君の積極的な家族愛の賜物です。…………あの男の介入がきっかけというのは気に入りませんが」
「あの男?」
「いえ、それはこっちの話です。君にはどうでも良いことだから気にしないで」
よくわからないけれど、多分ぼくが知らなくても良いことなのだろう。それよりも、
「七海さんの協力がなければ、姉さんと仲良くなれませんでした。本当にありがとうございました」
「微力ながら力になれて良かったです。私も香純おねーさんと接点を持つことができたのは、大きな前進になったと思います」
姉さんと二人で七海さんの家にお邪魔させていただいて以降、姉さんと七海さんも連絡先を交換して、ぼくとは別口の交流を持っているらしい。
「大丈夫です。言葉責めなんてされてませんから」
「いや、ぼくまだ何も言ってないんですけど」
「無茶な要求をされたり、言葉の端々からプライバシーを暴かれたりなんてしませんよ」
「本当に大丈夫なんですか?」
ここはここで触れるのが怖い繋がりができたようであった。
放課後になって、ぼくは昇降口に向かう。帰りはここでユカリちゃんと待ち合わせをしていて、一緒に帰る約束をしている。
ぼくたち三年生の教室は二階にあるから、下に降りればすぐに行ける。帰り際に賑わう教室の周りを通り抜けて、一階に降りる。
そうして昇降口まで来ると、ユカリちゃんはまだ来ていなかった。
静かな昇降口でユカリちゃんを待とうと思ったところで、ぼくは違和感を覚えた。
どうして、こんなに静かなんだ。
この時間帯は帰る生徒で混み合っているはずなのに、人の気配がまるでない。それに、ぼくと一緒に教室を出た同級生たちも一向に下に降りてくる様子が見られない。
何かおかしい。
昇降口からまた上の階に戻ろうとすると、
「悪いな。お前の可愛い彼女を始めとした他の連中は人払いをさせてもらったよ」
後ろから声をかけられたので反射的に振り返る。
声の主は出口に寄りかかって立っている学ランを着た男だった。
知らない人だ。そのはずなのに初めて会った気がしない。何故か、その声や口調に聞き覚えがあって、ふてぶてしさを感じさせながらも記憶に残らない表情には見覚えがあった。
「この姿で顔を合わせるのは初めてか」
そう言って男は自分の出で立ちを見回してから、再びぼくに向き直る。
「俺は井坂文弥。こうして出向いてきたのは他でもない。お前を労いに来たんだぜ」
次回でサードシーズン完結です!




